真面目過ぎる読み聞かせ

 何はともあれ、定番絵本のリストがあるのはとても役に立ちます。『子どもに定番絵本の読み聞かせを』尾野三千代/著についてです。でも、「あだやおろそかにできない」という時代がかった言葉使いで、これもまた家元の言葉の暗唱だなと思いました。(「定番絵本」については次の投稿で書きたいと思います)


「よそのお子さんの時間を拝借しているから、おろそかにできない。だから選書をしっかりしろ」などというのは家元の発言と同じですね。これは、一見大事なようですが、使いようによっては圧力を強める言葉です。もしも自分の気に入らない本を新人が提案したり読み方が気に入らない時に、いろいろ難癖つけ、「よそのお子さんの時間を・・・」とやるのです。新人は萎縮し、謙虚さが行き過ぎてへりくだるようになり、いつのまにか権威者の言いなりになります。そしてその新人を含めたそのボランティア団体の人は「私たちはトクベツ」的なお高くとまった様子になり、真面目過ぎる団体になります。

 これは戦争のときに「恐れ多くも・・・」と言って「天皇の権威と偉大さ」を説いて国民を巻き込んでいった指導部のやりかたと同じなのです。こうして息苦しい世の中になり、天皇に近い順に人に階級ができ、自分の頭で考えられない人間が出来上がっていきました。
 この場合は「よそのお子さんの時間」を権威にして、その権威を見せて、自分がいかに真面目に向き合っているか示して、他から反論できないようにしています。
これはモラハラ(モラルハラスメント)の中の「束縛」に当たるのではないでしょうか。例えば「お前は嫁のくせにオレの母の面倒も見られないのか」というような、一般的な道徳感を盾に反論させないようにし、相手を言うなりにしようとしていることと同じです。
 まともな指導者なら、こういう発言をしません。戦争に対する反省も深いでしょう。いろんな意見を妨げず、自由な議論ができるように、相手を萎縮させることは避けるでしょう。


 かつて、新しい本を読むことが全国的に広がった時代に「気をつけよう、暗い夜道とボランティア。新潟のボランティアはそうじゃないだろうね」などと言った権力者がいました。ボランティアに向かって「良い本を残すために兵隊が必要なんですよ」といった権力者もいました。あの方たちは、ボランティアは自分の子分だと思っているのです。20年くらい前は、まだそんな感覚の講師が多かったのは仕方がないとも思いますが。
 当時、また今も「偉い先生に嫌われるようなダメなボランティアが増えて大変なことになっている、私たちは兵隊になるべきだ」と思う人も多いです。私などは「暗い夜道のようなボランティア」かも知れません。今まさに暗い夜道のように正しい答えのない世の中になりましたから、私は、不安な市民や子どもの側に立ちたいと思います。
 ボランティアは、図書館の子分ではありません。子どもを指導する立場でもありません。市民や子どもの側に立ちます。一人ひとりが自立し、いろんな情報をもとに自分で考えて行動します。相手と対等に一緒に悩み、これでいいでしょうかと子どもや保護者が判断するときの手伝いをします。選書をするなら、良しあしでなく、ジャンルを幅広く見られるかどうかがポイントだと思います。大人が与えたいもの・子ども自身が好きになってくれそうなもの、というジャンル分けができなかったら、長さや絵の感じ、話のタイプで分けてもいいですね。「良い」と感じるのは、個人の自由です。


 この本を読んでとても不安に思うのは、自分の好きな良い本を読んだ時の聞き手の様子が、過剰なくらい美しく表現されて書かれていることです。日本軍が正しい戦いをしていると思えば、戦いだって軍部指導者にしてみれば美しく感じるのと同じです。
 筆者はそれなりにそう感じたのでしょうが、自分の思い入れが大きければそう感じやすいのです。他の人も他の本を読んで別に手ごたえを感じることでしょう。この筆者の感じ方が正しくて他が違うと誰が言えるでしょうか。


 紙芝居の先人の言葉で「上から行くな、下から行くな、対等に行け」というのがあります。戦争の責任を負った人たちがたどり着いた言葉ではないかと思っています。あっ、これも暗唱かな。

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