図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
「教育は市場が与えないものを与える」に対する批判
子どもの本の選び方について、良書主義に関係することをずっと考えてきました。豊かな時代ですから、そんなに選書に深刻にならなくても、また次を探せばいいことなのに、どうして図書館はその主義がそんなに好きなのか、とかね。
平成24年に西蒲区であった中村征子さんの講演録を読みました。以前、途中まで読んで「これじゃだめだろうね」と読むのを止めたものです。講演は大勢の人が聴いて、西川図書館ではそれを踏襲する講座も数年続いたから、その影響は大きいのでしょう。影響を受けても、各自がそこに自分の考えをプラスしていければいいと思います。
繰り返しますが、昔あった沼垂図書館は良書主義を推し進め、貸出数もどんどん減って読み聞かせ会にも人は来ず、風通しの悪さにいろいろなトラブルがあったことを、そこで働いていた司書は知っていたのです。おはなし会の参加者が少ないことをボランティアは図書館に何度も訴えましたが「もう少し広報する」との回答ばかりでした。結局図書館はそこに問題点を見つけることはなかった。それどころか担当司書は、異動先の西蒲区でも同じことを繰り返しました。何が、その人をそうさせたのか。
考え続けて、その講演録に「教育とは市場が与えないものを与えるところです」という言葉を見つけました。ていねいに太字で表示されているので、その司書(職員)がそこにポイントがあると思っているのは明らかです。ここに自分達の存在意義を見つけてウルウルする職員やボランティアも多いことでしょう。 このポイントについて、幾つか異論を書きたいと思います。
① 時代は進み、「教育」は「与える」ものでなく「子どもが自分で考える環境を作る」ことになったと、私は思います。小中高、大学にいたるまで、転換の最中です。ところが、中村氏は、その格言が時代に合わず崩れていることに気づいていないように見えます。大学で教えていれば学生が「何でも鵜呑みにする」ということに危機感を抱かれるはず。氏にはそれに対応する様子がない。新潟市の大学の某非常勤講師もそう。
付け加えて、子どもの権利条約にあるように子どもの選択権も保障しなくてはなりません。良い物を与えるというのは、大人が思う良い物に偏りやすいです。そして学ぶ主体は子どもですから、大人の出しゃばりは最低限にする必要がありますね。
② 「市場」という感覚にも疑問を感じます。「市場は低俗だ」「図書館はレベルの高いもの」という意識がちらついています。ディズニーの絵本などを取りあげてあるようですが、アニメの動画を印刷したものは手抜きだから低レベルという視点で私たちはかつて習いました。「図書館ブランド」はこうして作られていったのでしょう。
こういう講座を受けた人々が上から目線になり、本を「評価の対象」としてしか見ないようになるのはあたりまえです。けれど、自分の好きな本を評価の対象にされたら子どもはどう思うでしょう。そういう世界からは避けて通るでしょうね。自我の塊のような中学生ならなおのこと、本離れの原因の一つだと思います。
そして、市が提唱している学社民の融合というのは、お互いを尊重して混ざっていくところから始まり、自分だけが尊大なユートピアを作るためにあるのではないと思うのです。「図書館ブランド」を自ら壊すお気持ちがなければ、自由は来ないだろうし、市民にも相手にされないでしょう。
③ 書店など市場を、「売れれば良いという効率重視」と批判しているところが問題だと思います。「ゆっくり成長する・無駄を大切にする」ことは仰る通り大切ですが、市場こそ混沌とした無駄の塊です。誰もがそこで生きているのです。無駄を省きまっすぐ良い物だけを、ということこそ、ご批判の「効率重視」のやり方です。〇〇先生の文体がいいとか、古典がいいとか、そういう効率的な選び方を指示するよりも、①のように本それぞれを情報のかけらとして、回り道しながら成長していくのをただ見守ればいいだけだと思います。
この格言とは離れますが、続けて書きます。
④ 中村氏の「科学絵本」(仲間外れは誰と考えさせる本)の説明について、驚いたことがあります。過去に、新潟市西区の絵本講座で、新潟市の講師が同じ本を採り上げ同じように説明されました。ということは、中村氏と新潟市の講師は「同じ人(肩書きから言って福音館書店か)から習って同じことをオウム返しに伝えた」または「どちらかの講演をどちらかが聴いて伝えた」のでしょう。つまり、最低どちらか一人は自分で体験したことではない。お二人は優秀なストーリーテラーでいらっしゃる。だが、受講生をバカにしていないか。
私がどうしてここに引っかかるか、もう一点。「仲間外れ」というキーワードです。だから西区の講座も覚えていました。違いを見つけてピックアップするのでなく、「外す」ことを平気で口にする、そのセンスです。一人一人違って当たり前という感覚を持ち、感性の違う人と交流する気持ちで、世界の違う文化を受け入れて研究するためには、仲間外れという意識は不要です。仲間外れは、平和主義と真逆にあります。子どもにどうしてそれを植え付けるのか理解に苦しみます。違いを見つけた後、「で、どこが同じ?」と問うべきでしょう。ここでも、「世のなかを見渡して、モラルに照らして自分の頭で考える」ということが講師にない。本を読むと自分の頭で考えられなくなる・・・なんてことになっていませんか。
⑤ 中村氏によらず、絵本のどれかを採り上げて「ここはああだ、子どもはこういった、子どもの心はこんなだろう」というような講演をよく見聞きします。おばさまたちの大好物でもあり、読書推進の法律とともに、全国各地で行われることでしょう。「与える」教育好きな大人が大勢集まって気炎を上げることでしょう。
でも、時々私は「子どもをバカにするな」と言いたくなるのです。石井桃子の「こどもの図書館」を思い起させる、子どもという人間評価の押し付けに思えます。そういう評価を見聞きすると、私はなんだか恥ずかしい気持ちになってきます。
ただの人になって、評論無しにただ楽しむことはできないのか。 評価し足りなくなると「プログラムはどうか」などと評価が始まるという場面に何度も出会いました。
⑥ なぜ市場をバカにして司書の役割を強調されるのか。予算が削られる中、司書の数が減らされるのを見越して、「司書がいることは大事」と市民に刷り込みたい意図が見えてきます。
では司書はどうして必要なのでしょう。良書が分かることではないと思います。情報整理人として、新しい本にもこだわりなく取組み、特徴をつかんでその使い道を考えられること。生々しい世の中が必要とする情報を、差別意識なく提示できること。
中村氏や新潟市のベテラン司書が紹介する本は、だいたい古典ばかり。古典を紹介して「子どもはあんな反応をした、こう言った。だからこの絵本はすばらしい」となる。
しかしよく考えると、古典でない他の本でも子どもはそれなりに学び、反応するのです。もしかしたら古典ばかり読んでいるから、頭が固まって新しい本を受け入れられなくなっているんじゃないかと勘ぐっています。新しい本は、自分の目や頭で読み取って意見を述べなくてはならない。これを怖れているんじゃないかとか。間違えると笑われるから、とか。優等生から脱却して欲しいです。
よく例えを聞くのです。「本物を与えて育てれば偽物が分かるようになる」という例えです。それは「本物」でなく「特定の物」(同じ雰囲気を持った表現のもの)であって、もちろんそればかり与えていれば、「偽物」が分かるようになります。でもそれは偽物ではなくただ単に「違うもの」なのです。
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