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朝の光(聖書の言葉)

45. 捜し出した喜び  (喜びあふれて) 

45. 捜し出した喜び  (喜びあふれて) 
 
ルカ15:1-10 

(「見失った羊」のたとえ,
「無くした銀貨」のたとえ)


「言っておくが,このように,
悔い改める一人の罪人については,
悔い改める必要のない
九十九人の正しい人についてよりも
大きな喜びが天にある」
(ルカ15:7)






(ルカ15:1-10)

「見失った羊」のたとえ,「無くした銀貨」のたとえ



今日の福音書の日課では,この「喜び」が語られています。

イエスさまは恵みの言葉,救いの言葉を語っておられます。

「徴税人や罪人が皆,話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(ルカ15:1)とあります。

「徴税人」は請負でローマ帝国に納める税金を徴収していましたから,ユダヤ人たちからは嫌われていました。

その上,請負のゆえに不正な徴収も起こっていました。

ユダヤ人たちにとっては許すことのできない人たちでした。

また,「罪人」たちとは律法違反者で,ユダヤ人の社会から追放されていた人たちでありました。

イエスさまはこの人たちを拒まず,食事まで一緒になさいました。

その食事の席はイエスさまに受け入れられた人たちの喜びで満ちていたことでしょう。

食事を一緒にするということは,一緒にいる人たちを受け入れていることでしたから,誰と食事をしたかが問題になりました。

律法を大切にしているファリサイ派の人々や律法学者たちには,律法を破った人たちと食事をしてはいけませんでした。

聖書も,ファリサイ派の人々や律法学者たちに味方しているように読むことが出来ました。 



詩編は,つぎのように歌っています。

「いかに幸いなことか,
神に逆らう者の
計(はか)らいに従って歩まず,
罪ある者の道にとどまらず,
傲慢(ごうまん)な者と共に座らず,
主の教えを愛し,
その教えを昼も夜も口ずさむ人」
(詩篇1:1)


イザヤ書にはつぎの言葉があります。

「立ち去れ,立ち去れ,そこを出よ。
汚れたものに触れるな。
その中から出て,身を清めよ」
(イザヤ52:11)


これらの言葉は,「律法を破った人と交際してはいけない」と読むこともできます。

ところが,イエスさまはユダヤ人から不正な徴税をしていると思われる人々や律法を破り追放されている罪人たちを受け入れ,食事を一緒になさいました。

それは律法を大切にしている人々には受け入れることができませんでした。

しかし,ユダヤ人社会から追放されている人々にとっては,受け入れてくれる人がいるということは大きな喜びでありました。

イエスさまが,この喜びをもたらしてくださいました。

ところが,ファリサイ派の人々や律法学者たちは,「この人は罪人たちを迎えて,食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と不平を言い出しました。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは,この喜び,この福音をもたらしてくださっていることを神様の恵みとして受け取ることができませんでした。

そこで,イエスさまはファリサイ派の人々や律法学者たちに対して,たとえを語ることによって,恵みをもたらしてくださる神様の御心を伝えました。

ルカによる福音書15章では,3つのたとえが語られていますが,1つは「見失った羊」のたとえ,もう1つは「無くした銀貨」のたとえ,3つめは「放蕩息子」のたとえです。

初めの2つのたとえは,「放蕩息子」のたとえへと導くためのたとえであります。

「放蕩息子」のたとえで,わたしたちは放蕩息子の父親に慈愛深い神様を見ることができます。    






今日の日課の初めの2つのたとえで,羊を見失ったり,銀貨を無くした人が無くしたものを見出だした喜びが語られています。

その喜びを通して,天にある喜びが語られています。

イエスさまは,これらのたとえをファリサイ派の人々や律法学者たちに語っておられていますが,この喜び,この福音,すなわち悔い改めた罪人を神様が喜び迎えてくださることをすべての人に伝え,この神様の喜びをすべての人が自分のものにするようにという思いで語っておられます。
 
第1のたとえでは,「羊を持っている人」のことが語られていますが,この人は男性形の名詞で語られています。

ですから,「羊を持っていた男がいた」と言い換えることができます。

イエスさまは次のようにおっしゃいました。


「あなたがたの中に,
百匹の羊を持っている男がいて,
その一匹を見失ったとすれば,
九十九匹を野原に残して,
見失った一匹を見つけ出すまで
捜し回らないだろうか。
そして,見つけたら,
喜んでその羊を担いで,家に帰り,
友達や近所の人々を呼び集めて,
『見失った羊を見つけたので,
一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが,このように,
悔い改める一人の罪人については,
悔い改める必要のない
九十九人の正しい人についてよりも
大きな喜びが天にある。」
(ルカ15:4-7)


第2のたとえの銀貨を持っていた人は女性です。

イエスさまは次のようにおっしゃいました。


「あるいは,
ドラクメ銀貨を
10枚持っている女がいて,
その一枚を無くしたとすれば,
ともし火をつけ,家を掃き,
見つけるまで
念を入れて捜さないだろうか。
そして,見つけたら,
友達や近所の女たちを呼び集めて,
『無くした銀貨を見つけましたから,
一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが,このように,
一人の罪人が悔い改めれば,
神の天使たちの間に喜びがある。」
(ルカ15:8-10)


ですから,無くしたものを見つけだした喜びを経験している人は男性であり,また女性なのです。

見つけ出した喜びを男性も女性も経験して欲しい,天にある神様の喜び,悔い改めた人を喜んで迎える神様の喜びを共にして欲しいという思いで,このたとえが語られています。

わたしたちもまた罪人でしかありません。

しかし,わたしたちが悔い改めて神様のもとに帰るならば,神様は喜んで迎えてくださいます。





(2007年9月16日  聖霊降臨後第16主日)

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