46. 忠実に生きる (喜びあふれて)
コヘレト8:10-17
(悪事を行なう者)
ルカ16:1-13
(「不正な管理人」のたとえ)
「どんな召し使いも
二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか,
一方に親しんで他方を軽んじるか,
どちらかである。
あなたがたは,
神と富とに仕えることはできない。」
(ルカ16:13)
Ⅰ
今日の福音書の箇所の「不正な管理人」のたとえは,イエスさまに従う弟子たちに語られました。
そのたとえは,死を覚悟しておられるイエスさまが弟子たちに対してなされた遺言であります。
このたとえは弟子たちに,この世での過ごし方を教えています。
それで,この世で抜け目なく生きている人のことが語られています。
〇
(コヘレト8:10-17)
今日の第一の朗読の箇所であるコヘレトの言葉では,この世のことを次のように記しています。
「この地上には空しいことが起こる。
善人でありながら,
悪人の業の報いを受ける者があり,
悪人でありながら,
善人の業の報いを受ける者がある。」
(コヘレト8:14)
これが,この世なのです。
Ⅱ
(ルカ16:1-8a)
「不正な管理人」のたとえ
このコヘレトのことばを踏まえなければ,今日の「たとえ」の箇所は理解しにくいのです。
「不正」という言葉が,このたとえの中で使われています。
まず,イエスさまは金持ちのもとで働いている管理人の話をされます。
この管理人は,金持ちの財産を無駄使いしているとの告げ口のために,その職をやめさせられようとします。
すると,管理人は,やめた場合に雇ってくれる人を得るために,金持ちから借りている人を呼んで,その借りを少なくする証文を作ります。
それを知った金持ちは,「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(ルカ16:8)のです。
ここまでが,この世はどういう世界であるかを教える「たとえ」です。
それに続いて,このたとえの解説として,「この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子よりも賢くふるまっている」(ルカ16:8)と語られます。
このように8節前半までを「不正な管理人」のたとえとして読み,その後の8節後半からの箇所をたとえの解説であると分けて読まなければ,不正なやり方がほめられているように読んでしまい,おかしな理解になります。
「不正な管理人」は「この世の子ら」の代表者なのです。
「不正」という言葉は「この世」のことです。
〇
(ルカ12::8b-13)
「不正の富」で友達をつくる
このことを受けて,「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(ルカ16:9)という言葉が続きます。
ですから,ここは「この世の富で友達を作りなさい」(ルカ16:9)と,言い換えることができます。
そのように言い換えて読みますと,「不正にまみれた富について忠実でなければ,だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(ルカ16:11)ということが,よく理解できます。
この箇所は,次のように読み替えることができます。
「この世の富について
忠実でなければ,
だれが本当に価値あるものを
任せるだろうか。」
(ルカ16:11)
そこから,この箇所は日々の生活で忠実に生きることを勧める言葉として,受けることができます。
「この世の富で友達を作りなさい」という勧めの言葉の次に,「そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16:9)と続きます。
この箇所もなぜ突然に,「永遠の住まい」という言葉が出てくるのか,理解に苦しみます。
そこで,ギリシャ語聖書の文章を見ますと,「金がなくなったとき」という訳に問題があることがわかります。
新共同訳聖書では「金がなくなったとき」と訳していますが,ギリシャ語では,ただ「なくなったとき」となっています。
それは「死」「死んだとき」とも訳せます。
この9節のイエスさまの言葉は次のようになります。
「この世の富で友だちを作りなさい。
そうしておけば,亡くなったとき,
すなわち,
『死んだとき』あなた方は
永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
(ルカ16:9)
友だちを作る営みは,よいサマリア人が,だれからも助けられない人を介抱した親切な行為に通じます。
それは,最後の晩餐で弟子たちに,ただ一つの掟として「わたしがあなたがたを愛したように,互いに愛しなさい」(ヨハネ15:12)とおっしゃったイエスさまの言葉を実行することです。
この掟を守る人は亡くなったときに,イエスさまが用意してくださっている永遠の住まいに迎え入れてもらえます。
それゆえに,この世ではごく小さなことに対しても忠実に生きることが求められます。
今日の日課は,「あなたがたは,神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)と結ばれています。
日々の生活の中で神様に仕え,ごく小さなことにも忠実に生きましょう。
そうすれば,わたしたちが亡くなったとき,永遠の住まいに迎え入れてもらえます。
(2007年9月23日 聖霊降臨後第17主日)