51. 祝福 (喜びあふれて)
ヨシュア24:14-24
(シケムの契約)
Ⅰコリント1:10-18
(一致の勧め)
マタイ5:1-6
(幸い)
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる。
柔和な人々は,幸いである,
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は,幸いである,
その人たちは満たされる。」
(マタイ5:3-6)
Ⅰ
(マタイ5:1-6)
幸い
今日の福音書の日課は4つの祝福を告げています。
まず,「心の貧しい人々」に対する祝福,次に「悲しむ人々」に対する祝福,続いて「柔和な人々」に対する祝福,「義に飢え渇く人々」に対する祝福と4つの祝福が告げられています。
わたしたちにとって,「柔和な人々」と「義に飢え渇く人々」に対する祝福は理解しやすいですが,「心の貧しい人々」と「悲しんでいる人々」が祝福されることについては,すぐには納得することができません。
次の2つの意味を調べてみましょう。
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。」
(マタイ5:3)
「悲しんでいる人々は,幸いである,
その人たちは慰められる。」
(マタイ5:4)
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。」
(マタイ5:3)
ここで語られている「貧しい人々」とは,どういう人々のことでしょうか。
新約聖書は旧約聖書の言葉に基づいて書かれています。旧約聖書で「貧しい人々」を示す言葉は「謙遜である」とか,「柔和である」とかを示す言葉と同じ言葉で示されています。
民数記にはモーセの人となりが示されていますが,そこでは「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(民数記12:3)とあります。
この文章の中の「謙遜」という言葉は,「貧しい」という意味も,「柔和」という意味も持った言葉が使われています。
ですから,新共同訳聖書では「謙遜」となっていますが,口語訳聖書では「柔和」となり次のようになっています。
「モーセはその人となり柔和なこと,
地上のすべての人にまさっていた。」
(民数記12:3 口語訳)
ですから,イエスさまから直接,御言葉を聞いているイスラエルの人々は,「貧しい」という言葉は,物がなくて貧しいことだけでなく,謙遜とか柔和を意味する言葉として受け取っていたことになります。
そのように受け取るため,「貧しい」という言葉の前に「心の」という言葉が付け加えられています。
この「心の」(プニューマティ)という言葉は,「風において」とか「息吹において」とか「霊において」という意味の言葉が使われています。
ですから,イエスさまからこの祝福の言葉を聞いた人々は,素直に次のように受け入れたと思います。
「霊において柔和な人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。」
(マタイ5:3)
「悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる。」
(マタイ5:4)
次に「悲しむ人々」のことです。
ここでの「悲しむ人々」というのは,すでに「心の貧しい人々」の祝福が「霊において」貧しい謙遜な人々として受け取ったのと同じように,「霊において」悲しむ人々として受け取ることができます。
霊において悲しむとは,「信仰において」悲しむことです。
神様の御心が現れないでいることを悲しむことです。悲しむ人々とは,神様の御心が現れるのを待つ人々です。
〇
(ルカ2:22-38)
神殿で献げられる
「悲しむ人々」,すなわち「神様の御心が現れるのを待つ人たち」の一人として,シメオンを上げることができます。
ルカによる福音書では,このシメオンを次のように記しています。
「エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい人で信仰があつく,
イスラエルの慰められるのを待ち望み,
聖霊が彼にとどまっていた。」
(ルカ2:25)
このシメオンこそ,イエスさまが「悲しむ人々は,幸いである,その人たちは慰められる」(マタイ5:4)という祝福の言葉を受け取った人であります。
神殿に両親と共にやってきた幼子イエスさまを腕に抱き,神様をたたえて,次のように言っています。
「主よ,
今こそあなたは,お言葉どおり,
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目で
あなたの救いを見たからです。」
(ルカ2:29,30)
わたしたちも今日,「心の貧しい者」,「悲しむ者」,「柔和な者」,「義に飢え渇く者」として,神様の祝福を十分に受け,「恵みのみ,信仰のみ,聖書のみ」の力強い信仰生活を続けていきたいと思います。
(2007年10月28日 聖霊降臨第22主日)
(宗教改革主日))