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朝の光(聖書の言葉)

54. 生きている者の神  (喜びあふれて)

54. 生きている者の神(喜びあふれて)

マラキ3:19-20  
(主の日)

ユダ17-25     
(警告と励まし)

ルカ20:27-40  
(復活についての問答)


イエスは言われた。
「この世の子らは
めとったり嫁いだりするが,
次の世に入って死者の中から復活するのに
ふさわしいとされた人々は,
めとることも嫁ぐこともない。
この人たちは,もはや死ぬことがない。
天使に等しい者であり,
復活にあずかる者として,
神の子だからである。
死者が復活することは,
モーセも『柴』の個所で,
主をアブラハムの神,
イサクの神,ヤコブの神と呼んで,
示している。
神は死んだ者の神ではなく,
生きている者の神なのだ。
すべての人は,
神によって生きているからである。」
(ルカ20:34-38)



信仰生活には試練が伴います。

イエスさまの「荒れ野での試み」は,わたしたちに試練があることを伝えています。

その試練は物質的な試練,精神的な試練,霊的な試練ということができます。





(ルカ4:1-13)

誘惑を受ける



荒れ野で40日間,何も食べず空腹になられたイエスさまに悪魔は,
「神の子なら,この石にパンになるように命じたらどうだ」(ルカ4:3)と誘惑します。

この誘惑を退けられると,次に悪魔は一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて,
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」(ルカ4:6)と言います。

この誘惑も退けられると,悪魔はイエスさまを神殿の屋根の端に立たせて,
「神の子なら,ここから飛び降りたらどうだ」(ルカ4:9)と唆(そそのか)します。

この3つの誘惑は飢えに付け込んだ物質的な試練,権力や繁栄を求める精神的な試練,神殿の屋根から飛び降りることで神様の助けを試みる宗教的(霊的)な試練ということです。 

イエスさまが,この3つの試練を聖書の言葉によって退けられると,「悪魔はあらゆる誘惑を終えて,時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4:13)と記しています。

イエスさまを離れた悪魔は人の中に入り込みます。

弟子の一人であるユダに入り込んだ悪魔は,イエスさまを裏切らせます。

また,ユダヤの祭司長,律法学者,民の長老,サドカイ派の人々に入り込みました。

この人たちは,人々の救いのためにエルサレムに上られたイエスさまを陥(おとしい)れるために,イエスさまを試みます。

その試みは,荒れ野での悪魔の試みに重ねることができます。






(ルカ20:20-26)

皇帝への税金


彼らは,イエスさまが持っておられる権威がどこから来たのかを,次のように問います。

「我々に言いなさい。
何の権威でこのようなことをしているのか。
その権威を与えたのはだれか。」
(ルカ20:20)

また,「ローマ皇帝に税金を納めるのは,律法に適っているでしょうか,適っていないでしょうか」(ルカ20:22)と問います。

モーセが書いた律法を用いて,子を残すために兄弟7人と結婚し,子どもができず,7人とも死んでしまい,その女性も死んだ場合,復活の時に,その女性は,「だれの妻になるでしょうか」(ルカ20:33)と尋ねます。    


イエスさまの権威がどこからきているか,という問いは,荒れ野で悪魔が世界の「国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と誘惑した試みに通じる精神的な試みです。


「皇帝に税金を納めるのは,律法に適っているでしょうか,適っていないでしょうか」(ルカ20:22)という問いは,「この石にパンになるように命じたらどうか」と誘惑した生活にかかわる物質的な試みです。

「復活の時に,その女性はだれの妻になるでしょうか」という試みは,復活に関する宗教的な試みです。

こうして,人々の中に入り込んだ悪魔は,人々の言葉を通して,イエスさまを試みています。
 




(ルカ20:27-40)

復活についての問答



今日の福音書の日課は,復活に関わる宗教的な試みであります。

イエスさまは,この試みに見事にお答えになり,神様を信じていかに生きていくべきかを明らかにされます。 

復活についての問いを持ち出してきたのは,サドカイ派の人たちでした。

この人たちは聖書の中でモーセ五書,すなわち創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記だけを認め,復活は認めていませんでした。

復活を認めていないのに,復活に関わる問題を持ち出したのは,イエスさまを陥れるためでした。

この問いに対して,イエスさまは,まずサドカイ派の人々の思い違いを正すために,この世のことと,次の世のこととを分けて話されます。


イエスは言われた。
「この世の子らは
めとったり嫁いだりするが,
次の世に入って死者の中から
復活するのにふさわしいとされた人々は,
めとることも嫁ぐこともない。
この人たちは,もはや死ぬことがない。
天使に等しい者であり,
復活にあずかる者として,
神の子だからである。」
(ルカ20:34-36)


この世では娶(めと)ったり,嫁いだりするが,次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は,娶とることも嫁ぐこともなく,死もなく,天使のような者として,神の子であることを明らかにされます。

その上で,サドカイ派の人々が大切にしているモーセ五書の一つである出エジプト記3章で神様が自らをモーセに対して,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神として示されたことに基づいて,「神は死んだ者の神ではなく,生きている者の神なのだ」と次のようにおっしゃいます。


「死者が復活することは,
モーセも『柴』の個所で,
主をアブラハムの神,
イサクの神,
ヤコブの神と呼んで,
示している。
神は死んだ者の神ではなく,
生きている者の神なのだ。
すべての人は,
神によって生きているからである。」
(ルカ20:37,38)

アブラハム,イサク,ヤコブという人たちは神様を信じて生きた人であり,死んでしまったのではなく,神様を信じて生きた人として,今も生きていることを明らかにされた言葉です。

お前たちが大切にしている聖書の言葉こそが,アブラハムもイサクもヤコブも神様にあって生きている者であることを明らかにされました。

神様を信じている人にとっては,死は終わりではありません。
死んでも生きるのです。

この信仰に生きる時,わたしたちの日々の生活は,試練や誘惑に満ちていても,祝福の内にあります。   

わたしたちも,アブラハムやイサクやヤコブと同じように神様を信じて生きる時に,死は終わりではなく,豊かな祝福のうちに過ごすことができるのです。






先週は児童祝福式があり,幼子やそのご家族だけでなく,
わたしたちにもまた豊かな祝福に与(あず)かりました。

わたしは次の句を作りました。

祝福を受ける幼子菊日和  



(2007年11月18日)

(聖霊降臨後第25主日)


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