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朝の光(聖書の言葉)

44. キリストに従う  (喜びあふれて)

44. キリストに従う  (喜びあふれて) 


フィレモン1-25  
(フィレモンの愛と信仰)

ルカ14:25-33 
(弟子の条件)

「もし,
だれかがわたしのもとに来るとしても,
父,母,妻,子ども,兄弟,姉妹を,
さらに自分の命であろうとも,
これを憎まないなら,
わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負って
ついて来る者でなければ,
だれであれ,
わたしの弟子ではありえない。」
(ルカ14:26)






(ルカ14:25-33)

弟子の条件


(ルカ14:25-27)

支配者のいるところには,支配される人々がいます。

エルサレムに向かうイエスさまのもとにはたくさんの群衆が集まり,エルサレムへと向かっていました。

この人たちはイエスさまに従うことによって,支配から解放されることを願う人々でした。

ローマ帝国の支配から,あるいは残酷なヘロデの支配から,祭司長,律法の専門家たちやファリサイ派の人たちの支配から,イエスさまによって解放してもらいたかったのです。

イエスさまに従う人々は,イエスさまにローマ帝国などの支配から解放する力があると思っていました。

イエスさまは,荒れ野で5千人もの人々に十分に食物を配り満腹させ,悪霊を追い出し,病を癒しておられたからです。
 
人々は,イエスさまがエルサレムで支配者たちを倒し,自由をもたらしてくださると思っていましたので,彼らにとってイエスさまに従うということは,この自由を得るための歩みでありました。

イエスさまもまた,人々に自由をもたらすために,エルサレムへ向かっておられました。

それは罪からの自由であり,罪からの解放でした。

この自由を得させるために,イエスさまは,御自分の命を献げようとしておられました。

しかし,イエスさまに従う人々は,イエスさまが与える自由についても,またその自由を得させるために払われる代価についても理解していませんでした。

そこで,大勢の群衆が一緒について来ましたが,イエスさまは振り向いておっしゃいました。


「もし,
だれかがわたしのもとに来るとしても,
父,母,妻,子ども,兄弟,姉妹を,
さらに自分の命であろうとも,
これを憎まないなら,
わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負って
ついて来る者でなければ,
だれであれ,
わたしの弟子ではありえない。」
(ルカ14:26)


大変厳しいお言葉です。これらの厳しいお言葉を,どのように受け取ったらよいのでしょうか。 






(ルカ14:28-33)



イエスさまは,この「憎む」ことと「自分の十字架を背負う」ことを理解させるために,二つのたとえを御語りになります。

一つは「塔を建てようとする人」の話であり,もう一つは「敵と戦おうとしている王」の話です。

「塔」とは,農夫が収穫物を荒らされたり,盗まれたりしないために建てる塔です。

農夫は塔を建てる決断をするために,どれ程の費用がかかるか,またその費用が収穫物を確保するための費用として利益をもたらすのかを座って計算します。

王もまた1万の兵で,向かって来ている2万の兵に対抗できるか,座って考えます。対抗できないと分かれば,まだ敵が遠方にいる間に使節を送って,和を求めます。

このようにして,王もまた和を求める費用と,それによってもたらされる利益を,腰をすえて考えます。

農夫であろうが,王であろうが,それぞれに決断を迫られる時を迎えています。

イエスさまに従う人もまた,決断をしなければなりません。

イエスさまに弟子として従い得るのか,弟子としての代価を払うことができるかを計算し,考えなければなりません。

そうでなければ,塔を建てかけても完成することのできない農夫のように,また和を求めても成功しない王のようになります。

豊かな収穫に与かる農夫も,うまく敵に対応する王も決断の時を知っていました。

農夫は塔を建てる前に,王はまだ敵が遠方にいる間に,決断し,実行しないといけません。

十分な費用がないのに塔を建て始めても,戦闘状態になってから和を求めても成功しません。






イエスさまは,エルサレムに向かっておられます。

このイエスさまにどこまでも従っていくのか,従う代価を払うつもりでいるのか,決断の時が来ています。 

従う人々は,まず腰をすえて計算し,考えなければなりません。

イエスさまの「憎む」(ルカ14:26)という厳しい言葉も,また「十字架を背負う」(ルカ14:26)という厳しい言葉も,この決断を迫る言葉です。

行動する前に,腰をすえて計算し,考えるという行為は,自己を捨てる行為です。

今までの行為,あるいは状態を捨てて,解決を求める自己を捨てる行為です。

「憎む」ということも「十字架を背負う」ということも,「自己を捨てる」ことです。

イエスさまは,わたしたちに「神を愛し,人を愛しなさい。敵をさえ愛しなさい」と教えてくださいます。

そのイエスさまが「父,母,妻,子ども,兄弟,姉妹を,更に自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26)とおっしゃいます。

イエスさまに従うかどうか,決断を迫っておられます。

それは,決断のために自分を捨てることを求めておられます。

敵に和を求めるということは,王にとっては自己を捨てることです。

2万の兵を率いて進軍してくる敵を,自分の1万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考える王の話をなさいました。

そして,イエスさまは次のようにおっしゃいました。

「だから,同じように,
自分の持ち物を一切捨てないならば,
あなたがたのだれ一人として
わたしの弟子ではありえない。」
(ルカ14:33)

自分の持ち物一切を捨てるということは,すべてを神様におゆだねするということです。





(フィレモン1-25)

フィレモンの愛と信仰



今日の第2の朗読の箇所であるフィレモンへの手紙に,すべてを神様におゆだねしたパウロの心境が,書かれています。

フィレモンという人は奴隷を所有する豊かな人のようです。

その人のもとから奴隷のオネシモがパウロのもとに逃げてきて,キリストを信じる者となりました。

その奴隷であるオネシモを主人であるフィレモンのもとに返す時に書いた手紙が,このフィレモンへの手紙です。

その中でパウロは自分の気持ちを伝える言葉として,「心」という言葉を使っています。

この「心」という言葉は,他に心を表す言葉がある中で,「はらわた」(内臓)という言葉を使っています。

この言葉の動詞形が,イエスさまが一人息子を失っている母親を見たときの「憐れに思い」,また「善いサマリア人」のたとえや「放蕩息子」のたとえでイエスさまがお使いになった「憐れに思い」という言葉です。

フィレモンへの手紙の,次の箇所で「心」,「はらわた」という言葉が使われています。


「聖なる者たちの心が
あなたのお陰で元気づけられた。」
(フィレモン1:7)


「わたしの心であるオネシモを,
あなたのもとに送り返します。」
(フィレモン1:12)

「キリストによって,
わたしの心を元気づけてください。」
(フィレモン1:20)


これらの「心」という箇所を「はらわた」という言葉で言い換えますと,パウロの心境がよく分かります。

「聖なる者たちの『はらわた』が
あなたのお陰で元気づけられた。」
(フィレモン1:7)


「わたしの『はらわた』であるオネシモを,
あなたのもとに送り返します。」
(フィレモン1:12)

「キリストによって,
わたしの『はらわた』を
元気づけてください。」
(フィレモン1:20)


このパウロのようにイエスさまのお言葉に従い自分の命さえも憎み,自分の十字架を背負い,自分の持ち物一切を捨て,キリストであるイエスさまに従った人が神様を愛し,人を愛して生きることができます。

決断の前に「腰をすえる」(ルカ14:28,31)とは,「祈る」ということであると思います。





(2007年9月9日)

(聖霊降臨後第15主日)




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