かめぴょんつうしん。

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いま映画なにやってんの? 封切その6.『関ヶ原』

2017年09月19日 | Weblog


 9月16日(日)に観ました。だんだんと不快になり、最後は怒りすら沸いてきました。

 

 

 観ながら自己陶酔で他人を(悪い方に)巻き込んだ三成に不快感があふれてきました。三成の標榜する正義とは何なんでしょうか?

 「正義」を知るには「義」を知る必要があり「義」を知るには「仁」を知る必要があるように思えます。では「仁」とは何か?

 それは自分や家族、身近な人を愛する心です。

 社会がはじまったときの集落(ムラ)をイメージしてください。時には隣のムラからお嫁さんを貰うかもしれませんが、子を産み同化していき、時を経て同族となります。その同族が同じ一族の者を慈しむ気持ち...それが「仁」です。

 狩猟ではなく農耕が主流となると田んぼや畠を自分のものにしてしまえという私有財産の考え方、そして貧富の差がおき、さらにムラとムラで争いが起きるようになり、クニが生まれます。クニには同族だけでなく他人も住んでいるという状況で、他人に対する配慮、つまり他人を愛する心が必要になります。それが「義」です。他人の愛し方にも自分や家族より愛す、自分・家族同様に愛す、自分や家族のようには愛せないが配慮はするといったことが考えられるので「仁」は愛し方の基準になります。

 そして、三成の標榜する正義とはなにか?確かに応仁の乱からこっち、日本中、隙あらばのし上ろうという豺狼の心を持ったものが戦国の世を生き残っていきました。まったく見苦しく王道楽土とはほど遠い、他人に優しくない世界です。だから他人を愛する気持ち「義」を糺したい(正したい)という三成の気持ちは理解できます。

 しかるに三成は人を観たうえで好悪で分ける。他人の気持ちを押しつぶして正論を通そうとするのです。それは「義」ではない、それでは人は近寄ってきません。それが豊臣家を滅ぼす要因となったと何故理解できないのでしょうか?

 不快なり、三成!

 秀吉の子飼いは、脳筋の武将ばかりだとはいえ、関ヶ原の合戦が天下分け目の戦いと理解できない者はいないでしょう。いたとしてもこれはヤバいと何故理解させられないのでしょうか。たとえ徳川の策略でこれは天下分け目ではなく豊臣家の内紛なんだと諸将が思わされていたとしても、そうではないと何故言えないのでしょうか。言えない空気を作った元々の原因は何なのでしょうか?

 不快なり、三成!

 この映画でも、前田利家が、政治を左右するものがこれでは困るのだと迂遠に言っていましたよね。なぜそれが分からないのでしょうか?

 不快なり、三成!

 

 というわけで、私の満足度です。なんかメッチャ楽しんでるみたいで心苦しいですが、


 ★★☆☆☆(星ふたつ)


 テレビで放送される際やネットフリックスなど映像ストリーミング配信会社と契約されている方がこの作品を見るかどうか、映画館に足を向けられるかの参考にしただければ幸いです。