失われていく「コトモノ」
タイトルが大げさなのは毎度のことであるが、思うところを書いてしまう。よくよく考えれば、このブログに載せている考えはほとんど社会人になってから明確に認識した事柄が多いような気がする。もちろん種は大学時代にあったのだが、そこまで考えが熟していなかったというべきか。それが、社会人になって様々な本を読んでいくうちに、学生時代に播かれていた種(本人はそこまで認識していない)が、ふとした文章をきっかけに一気に花開いたような感じだ。今日書く内容もまさにそんな内容である。
まず最初に花開くきっかけとなった文章から紹介する。立花隆・須田慎太郎「エーゲ」で次のような文章がある。
「突如として私は、自分が歴史というものをどこか根本的なところで思いちがいしていたにちがいない思いはじめていた知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正当な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」
「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある」
私はまだ「学校で教えられた歴史」すらきちんと頭に叩き込まれていないので、上記の文章までの悟りまで達していない。しかし各地でみてきたマイナーな遺跡群 ‐特に石器時代の洞窟や縄文時代の遺跡など古いものほど‐ 確かにそこで生活をしていた痕跡があるものの、彼らがどのような世界観をもって生きていたのか?全く失われている。更に現代においては有名な評論家のお墨付きとか目を引くきらびやかなモノでない限り、注目されることすらない。しかし、予選落ちした無数の遺跡達(中には石を並べただけものものある)が各時代を作ってきた圧倒的大多数なのだ。
そしてこの感覚後押ししてくれたのが岡本太郎「美の呪力」だった。彼も著書のなかで、下記のように書いている。
「イヌクシュク―北極圏カナダに見られる、不思議な石の積み上げである。まだ、ほとんど人に知られていないようだ。人間の形をした、神像とも、道標ともつかない、しかし神秘的な形だ。・・・(略)・・・もっと形になって、彫りものがしてあったり彩りがついていれば、「芸術」だといって大騒ぎするのに、このような根源的な表現に対しては、驚くほど不感症なのだ。」
さて物理学という狭い枠のなかでも間違いなく失われてきたものも多いと思われるが、今日は2つほど個人的に失われていく話だと思われるものを挙げたいと思う。一つは朝永振一郎「科学者の自由な楽園」で二つ目はR・P・ファインマン「ご冗談でしょうファインマンさん」の中に載っている話だ。
一つ目の話は「科学者の自由な楽園」のなかにある「ゾイデル海の水防とローレンツ」という話で、オランダのゾイデル海に建設するダムにまつわる内容が記載されている。ものすごくざっくりいうとオランダに接しているゾイデル海の入口に巨大なダムを建設する場合、その近場の島々へ及ぼす潮の上げ下げをどのくらいにみつもればよいか?という話である。そしてオランダ政府は1918にこの検討のための委員会を発足させ、その委員長にローレンツを抜擢したというのだ。結局結論をだすまでに8年かかったそうだが、暴風雨が来た場合の計算も含め1926年に作業が終わったようだ。どうやら詳細は「H.A.Lorentz,Impression of His Life and Work」という本の中に「ゾイデル海の閉鎖」という論文がでているそうである。いつかこの本を読んでローレンツが具体的にどのような計算をしたのか、調べてみたいものだ。できればオランダに行って見てみたいですね。
二つ目の話は「ご冗談でしょうファインマンさん」にでている、回っている皿の運動についての話だ。これは「お偉いプロフェッサー」の中にかかれているが、ファインマンがコーネル大学で教えていたとき計算したもののようだ。どうやら皿の回転速度と皿の横揺れの速さの2倍という結果になるようだが、その詳細はかかれていない。ファインマン自身が言っているように大変複雑な方程式から導き出されたもので、どうやら加速度のバランスから2:1となるようだ。学生時代この式の詳細を知りたいと思ったのだが、いまだ教科書でも見たことがない。もし出典を知っている方がいれば、ぜひ教えてください。
さて最後に写真を1枚。上野の忍池付近には幕末に剣豪がいたようですね。今は見向きもされない碑石でしたが、いずれ調べてみたいものです。
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