隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

~『朝日新聞』「定義集」より~

2006年04月19日 07時51分19秒 | プチエッセイ
■「節度ある新しい人間らしさ」~『朝日新聞』「定義集」(4月18日朝刊)より~

 大江健三郎の連載である。60年代の大江氏の作品(『死者の奢り』『飼育』など)を10代の頃に読み、どうしようもない絶望感に襲われ、一冊読むたびに「もうこの人の作品は読むまい」と思いながら、まるで魔法にでもかかったかのように次から次へと読んでは、体の中にすみついてしまったたとえようのない重石に身動きがとれなかった、そういうキツイ思い出がある。それでもあの頃の印象が実は麻薬のように(麻薬なんて知らないのだから、こういう安直な形容をしてはいけないのだが)心地よかったらしく、その後の大江氏の作品を読むことはなかった。
 今日の「定義集」では、「節度ある新しい人間らしさ-注意深いまなざしと好奇心-」というタイトルで、息子の光さんの歩行訓練での出来事を取り上げている。
 42歳になった光さんにいくつかの成人病の症状があり、肥満対策と両親の支えなしでの歩行を可能にするため、今年の初めから父と息子の歩行訓練をかねた散歩が日々の習慣になっているそうだ。つまずきやてんかんの小さな発作のために、時々光さんが転倒することもあるらしく、そんなときには大江氏は自分より体重のある光さんを抱え起こしたり、光さんが落ち着くまで待っていたり、というようすが感情を交えない乾いた平易な文章でつづられている。
 ある日のこと、つまずいた光さんを介助していたとき、見かねた中年の女性が親切心から駆け寄ってきて、光さんの肩に手を置き、「大丈夫?」と声をかけたという。私の知識に誤りがなければ、自閉症などの人は自分の体に触れられることを忌み嫌う。光さんがそういうことを嫌がることを知っている大江氏は、「自分が粗野な老人であることを十分承知の上で」、しばらくほっておいてくれないかと強く言ったという。当然その女性は憤慨して立ち去ったそうだ。
 そのとき、少し離れたところに自転車を止めた高校生の少女が、じっと二人のことを見ていた。そして、ポケットに携帯電話があることをさりげなく知らせ、大江氏の文章を引用すると、「自分はここであなたたちをそっと見守っている、救急車なり家族なりへの連絡が必要なら、ケータイで協力するから」というメッセージを送ってきたというのだ。二人が歩き始めると、少女は微笑みながら軽く会釈をし、自転車で颯爽と走っていったそうだ。
 大江氏はシモーヌ・ヴェイユの「不幸な人に対して注意深くあり、どこかお苦しいのですか?と問いかける力をもつかどうかに、人間らしい資質がかかっている」という言葉に惹かれるという。心配して駆け寄ってきた中年の女性はまさに、そういう人間の資質を兼ね備えた人だといえるだろう。大江氏は「こちらが受け入れられないほどの積極的な善意を示してくださった婦人」と説明している。そういう好意を受け入れられるく「(自分は)変わらなければなりません」とも書いている(これにはいろいろな解釈ができるだろうが)。
 そして、その上で、高校生の少女が示してくれた節度のある振る舞いに、「生活になじんだ新しい人間らしさ」を感じたというのだ。
 大江氏らしい、少々シニカルな「不幸な人間への好奇心だけ盛んな社会」という表現には、障害のある子どもをもった一人の人間が日々感じている何かを想起させる。自分勝手な同情や好奇心、過度の親切(あの婦人の好意が「過度」だと言っているわけではない)ではなく、「注意深く見守る」ことが「好奇心を純化させる」とは、とても深く趣のある表現だ。
 私の周囲にも、体の不自由な人、また介助を必要としている高齢者がいる。また日々出会う人に対しても、自分がそのときに何ができるのか、迷ったり考え込んだりすることがある。そういうときに私は…、と思うとき、今日の大江氏の理性的な文章が何かを見つけるきっかけになってくれるような気がしている。そしてそれはたぶん、人とのつながりすべてにおいて、何かを示してくれているように思う。


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