■秘める、ということ
普通の目立たない人にも、淡々と日々を送っているように見える人にも、実は人には明かせない思いや夢があったりする。だから人生はステキなんだ。
主人公、大場美奈子が15歳のときに作文を書いているシーンで物語は始まる。今はシャープペンシルが主流になってしまったが、とがった鉛筆の芯の先に美奈子の清廉な生き方を想像させる幕開けだ。
2004年、緒方明監督作品「いつか読書する日」。田中裕子扮する大場美奈子は、朝の牛乳配達とスーパーのレジ打ちをしながら一人暮らしをしている50歳の女性。母親の友人であり親代わりのような存在の女性、皆川敏子(渡辺美佐子)は彼女を見て、「ほかの生き方ができなかったのか」「あんたはこのままでいいの?」と心配げに問いかけるが、美奈子は凛とした表情でそのような問いかけに動揺したりはしない。無表情で言葉数も少ない女性だが、乾いたところを感じさせない…、そういう女性を演じさせたら、田中裕子はいちばんの女優だと思う。
一方、美奈子と高校時代の同級生だった高梨魁多(岸辺一徳)は市役所の福祉課に勤め、末期がんの妻容子(仁科亜季子)を在宅で介護している。昼間は看護師が介護しているが、帰宅してから朝までは魁多が面倒をみている。感情を押し隠しながらも、長年ともに生きてきたつながりを感じさせる夫婦。
実は美奈子と魁多は高校生の頃付き合っていたのだが、美奈子の母親が魁多の父親の自転車に同乗中に交通事故で死んだという過去があり、その後、同じ街に住みながら、そしてたぶんお互いの存在を強く意識しながら、何もなかったかのように生きてきた。
美奈子は毎朝、魁多の家に牛乳を配達し、牛乳びんを木の箱に入れる音を容子は病床でいつも聞いている。牛乳を飲まない夫が牛乳の配達を頼んでいる事実などから、病床にある妻はそういう状況にいる人間特有の鋭い勘からか、夫がずっと美奈子への思いを持ち続けていることに気づく。
「気持ちを殺して生きるということは、周囲の人の気持ちも殺すことなんだからね」という容子の言葉は重い。「私は愛されていなかった?」に匹敵するような悲しい訴えかもしれない。妻は、自分の死期を悟っているから、自分がいなくなったら彼女と暮らしなさい、人生をやり直しなさい、そう夫に話す。美奈子を呼んでその気持ちも伝え、二人の同じ遺書を残して亡くなる。
それからも二人は特に行動を起こすわけでもないが、徘徊する皆川敏子の夫(アルツハイマー?)を捜す場面で何十年ぶりかに言葉をかわす。美奈子が「高梨君」と呼びかけてもボーっと立っている魁多に、たぶん高校の頃こう呼んでいたのだろう、「魁多!」と強い口調で呼ぶと、ハッとしたように振り返る魁多の表情がなぜか印象的だった。魁多はたぶんこの「魁多!」で、30年前の自分に行き着いてしまったのかもしれない。
テレビのスポットや新聞広告のコピーでは、このあとの「今までしたかったことをしたい」「全部して…」という二人の言葉が使われてきて、それがものすごく頭に残っていた。二人は雨に濡れた体のままで美奈子のベッドでお互いを激しく求め合う。それは高校生で止まってしまった二人の心に「生きている思い」や生々しさが蘇った瞬間なんだろうけど、きっとそれは「したかったこと」のほんの入り口だったのだと思う。普通に暮らし、普通に笑い、普通に憎みあう…、そういう当たり前の日常を無理なく取り戻していけるだろうということを、そのとき二人は感じたかもしれない。
けれど、その朝、魁多は溺れている子どもを救助するために川に飛び込み亡くなってしまう。
美奈子はまた今までと同じ生活をすることになる。誰もいなくなった魁多の家にも牛乳を配達し続け、誰も飲まない牛乳びんを回収してくる。そして今まで以上にたくさんの本を読んでいくのだろう。美奈子は心の中に秘めた思いを育てつつ、それは「誰にも気づかれてはならないもの」と自分を律して潔く生きてきた。感情を殺した毎日を送りながら、彼女は本の中に、色彩のある別の人生を生きてきたのだろう。
人はそういう人生を「寂しい」と思うかもしれない。そして、一人の人をただ思い続けて生きる30年を私たちは想像するしかない。その想像の中で、私の目には、ただ外に向かっていくことでしか生きる実感を得られないと勘違いしている人には知る由もない、秘めた恋心と、一つの街で地に足を下ろして生きることの深さが見えたような気がする。
坂の多いこの街で、苦しそうな息を吐きながら牛乳配達を続ける美奈子の美しさに、彼女の生き方が重なって見える。心に何かを秘めて生きることは誰にでもできることではなく、それだからこそ深く重く美しい。
それでも、一瞬だけでも重いが通じたという事実が、これからの美奈子をどんなふうに変えていくのだろう。同じ日常を続けながら、彼女の日々は少しだけ淡い彩りを取り戻すのだろうか。
普通の目立たない人にも、淡々と日々を送っているように見える人にも、実は人には明かせない思いや夢があったりする。だから人生はステキなんだ。
主人公、大場美奈子が15歳のときに作文を書いているシーンで物語は始まる。今はシャープペンシルが主流になってしまったが、とがった鉛筆の芯の先に美奈子の清廉な生き方を想像させる幕開けだ。
2004年、緒方明監督作品「いつか読書する日」。田中裕子扮する大場美奈子は、朝の牛乳配達とスーパーのレジ打ちをしながら一人暮らしをしている50歳の女性。母親の友人であり親代わりのような存在の女性、皆川敏子(渡辺美佐子)は彼女を見て、「ほかの生き方ができなかったのか」「あんたはこのままでいいの?」と心配げに問いかけるが、美奈子は凛とした表情でそのような問いかけに動揺したりはしない。無表情で言葉数も少ない女性だが、乾いたところを感じさせない…、そういう女性を演じさせたら、田中裕子はいちばんの女優だと思う。
一方、美奈子と高校時代の同級生だった高梨魁多(岸辺一徳)は市役所の福祉課に勤め、末期がんの妻容子(仁科亜季子)を在宅で介護している。昼間は看護師が介護しているが、帰宅してから朝までは魁多が面倒をみている。感情を押し隠しながらも、長年ともに生きてきたつながりを感じさせる夫婦。
実は美奈子と魁多は高校生の頃付き合っていたのだが、美奈子の母親が魁多の父親の自転車に同乗中に交通事故で死んだという過去があり、その後、同じ街に住みながら、そしてたぶんお互いの存在を強く意識しながら、何もなかったかのように生きてきた。
美奈子は毎朝、魁多の家に牛乳を配達し、牛乳びんを木の箱に入れる音を容子は病床でいつも聞いている。牛乳を飲まない夫が牛乳の配達を頼んでいる事実などから、病床にある妻はそういう状況にいる人間特有の鋭い勘からか、夫がずっと美奈子への思いを持ち続けていることに気づく。
「気持ちを殺して生きるということは、周囲の人の気持ちも殺すことなんだからね」という容子の言葉は重い。「私は愛されていなかった?」に匹敵するような悲しい訴えかもしれない。妻は、自分の死期を悟っているから、自分がいなくなったら彼女と暮らしなさい、人生をやり直しなさい、そう夫に話す。美奈子を呼んでその気持ちも伝え、二人の同じ遺書を残して亡くなる。
それからも二人は特に行動を起こすわけでもないが、徘徊する皆川敏子の夫(アルツハイマー?)を捜す場面で何十年ぶりかに言葉をかわす。美奈子が「高梨君」と呼びかけてもボーっと立っている魁多に、たぶん高校の頃こう呼んでいたのだろう、「魁多!」と強い口調で呼ぶと、ハッとしたように振り返る魁多の表情がなぜか印象的だった。魁多はたぶんこの「魁多!」で、30年前の自分に行き着いてしまったのかもしれない。
テレビのスポットや新聞広告のコピーでは、このあとの「今までしたかったことをしたい」「全部して…」という二人の言葉が使われてきて、それがものすごく頭に残っていた。二人は雨に濡れた体のままで美奈子のベッドでお互いを激しく求め合う。それは高校生で止まってしまった二人の心に「生きている思い」や生々しさが蘇った瞬間なんだろうけど、きっとそれは「したかったこと」のほんの入り口だったのだと思う。普通に暮らし、普通に笑い、普通に憎みあう…、そういう当たり前の日常を無理なく取り戻していけるだろうということを、そのとき二人は感じたかもしれない。
けれど、その朝、魁多は溺れている子どもを救助するために川に飛び込み亡くなってしまう。
美奈子はまた今までと同じ生活をすることになる。誰もいなくなった魁多の家にも牛乳を配達し続け、誰も飲まない牛乳びんを回収してくる。そして今まで以上にたくさんの本を読んでいくのだろう。美奈子は心の中に秘めた思いを育てつつ、それは「誰にも気づかれてはならないもの」と自分を律して潔く生きてきた。感情を殺した毎日を送りながら、彼女は本の中に、色彩のある別の人生を生きてきたのだろう。
人はそういう人生を「寂しい」と思うかもしれない。そして、一人の人をただ思い続けて生きる30年を私たちは想像するしかない。その想像の中で、私の目には、ただ外に向かっていくことでしか生きる実感を得られないと勘違いしている人には知る由もない、秘めた恋心と、一つの街で地に足を下ろして生きることの深さが見えたような気がする。
坂の多いこの街で、苦しそうな息を吐きながら牛乳配達を続ける美奈子の美しさに、彼女の生き方が重なって見える。心に何かを秘めて生きることは誰にでもできることではなく、それだからこそ深く重く美しい。
それでも、一瞬だけでも重いが通じたという事実が、これからの美奈子をどんなふうに変えていくのだろう。同じ日常を続けながら、彼女の日々は少しだけ淡い彩りを取り戻すのだろうか。