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家事塾ブログ~家のコトは生きるコト~

家事塾代表・辰巳渚の、講座日誌や家事エッセイ、お知らせなどを掲載します。

おくどさん

2010年02月03日 | 家事の言葉
かまど(竈) 食物の煮炊きに使う施設。
へっつい(ヘ・ツ・ヒ) 家の火所。かまどのこと。
くど(火所・ひどころ) かまどのこと。

……

昨日の家事セラピスト養成講座で、「おくどさん」という言葉を聞いたことがあるかどうか、が話題になりました。
九州から来ているYさんが言った言葉ですが、まわりの誰も知らなかった。
おくどさんは、「くど」に関西風の「お~さん」をつけた言葉です。
そういう私も「かまどだっけ、かまど神のことだっけ」といういい加減さ。

古典落語には、「へっつい幽霊」という演目があります。
それだけではなくて、噺のなかにはよく「へっつい」が登場します。

(印象的だったのは、稼ぎのない夫と夫婦げんかして、夫を家から追い出した髪結いの妻が、「あんたの稼ぎで買ったのは、これくらいだよ!」とへっついを投げつけた、という話。
たかがへっついなのかなんなのか、よくわからないけれど、へっついという言葉の響きがあいまって、亭主が哀れだけど滑稽な噺です)

「へっつい」も、もう誰も知らない言葉になっていますよね。

家のなかの道具が変わるにつれ、言葉が変わっていくのはあたりまえのことではあります。

でも、家は煮炊きをする場所であり、家族が食事をする場所であることは、いつまでも変わらないことでしょう。
民俗学の史料によると、家の単位として「カマド」が用いられたそうです。
分家を「カマドを分ける」とか。

つまりは、火の力を怖れ、火によって家族がまとまることに喜びを持つことは、変わりがないはず。

私は、現代の台所にも、かまど神、荒神様のようなものや感覚があってもいいのではないか、と思っています。



「自己満足に陥らないように」アガサ・クリスティ

2010年01月11日 | 家事の言葉
見当違いだ、とジョーンは思った。自己満足だなんて、わたしはそんなうぬぼれ屋じゃないのに。
「自分のことばかりでなく、ひとのことを考えるように」だって。
わたしはこれまでそうしてきた--いつもひとのことばかり考えて暮らしてきた。自分のことなんて、ほとんど考えたことがないくらいだった。
いつも子どもたちのことや、ロドニーのことばかり考えて暮らしてきたのだ。
 -----アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』p170、ハヤカワ文庫

……

これは、自ら理想的な妻、完璧な母親と認める女性(ジョーン)の物語です。
ジョーンは、おそらくカトリック系女学校を模範的な態度で卒業し、模範的な家庭生活を築き上げた。
模範的な妻・母は、自分が夫(ロドニー)や子にとっては彼らのありのままの姿を見ようともしない、自己満足に凝り固まった哀れな存在であることに、気づいていない。

解説の落合恵子さんは、自分もこのような母を持った家庭に育ったがゆえに、この本に恐怖し、そしてまたこの本によって救われた、と書いています。

落合さんをして、「怯懦と怠惰というジョーンの罪」と表現させたような人の生き方。その本質は、何なのか。

物語中に繰り返し出てくる表現に、「かわいそうな、ひとりぼっちの、ジョーン」というものがあります。
本人は、「~のために」と自己犠牲あるいは奉仕をしているつもりになっている。
でも、結局は、誰とも真に関係を結ぼうとしていない。
対象を見ていても、そこには常に自分を投影しているだけであって対象そのものに向き合おうとしていない。
だから、彼女は愛する家族に囲まれていても、じつはひとりぼっち。そしてそのことに気づかないし、気づきたいとも願っていない。

同じような人物像が、数年前に観たアメリカのテレビ番組『Desperate Housewives』に登場していました。
完璧な主婦として、郊外に幸せな家庭を築いたと信じている妻は、子どもたちが非行に走っていることも見ないふりをし、夫がほかの女性に心惹かれたこともなかったことにする。
その自己満足の砦が崩れそうになったとき、アルコール中毒になる姿も描いていました。

このような警戒感は、神や他人への奉仕を基盤とするキリスト教文化圏だからこそ、共有されるのだろうなあと思いつつ、私たち日本人の家庭生活においても、起きてしまうことなのだろうと思います。

家庭や暮らしが、「~のために」という奉仕の場として認識される限り、奉仕している自分への自己満足に閉じてしまう危険性をはらんでいる。
それに、家庭はそもそも閉じようとする傾向をもっているのかもしれません。

家庭のなかの家族間でも、近くにいるからこそ、お互いに深くかかわることを怖れ、自分のよいように解釈したり、相手を見ないようにしたりして、過ごしてしまう。
家庭の外のほかの家庭との間でも、関係をもつと関わらなければならない恐怖から、遮断するか、表面的によい面だけを見せあって、よしとしがちになる。

それでも、自分自身の生に誠実に、よく生きようとするならば、見ないふりをしたり遮断したりしているわけにはいかなくなるはずです。
なぜなら、人は関係性を生きることでしか、確かな存在とはなりえないから。

「生活自身も目的の一つと位置づける」藤原房子

2010年01月07日 | 家事の言葉
人間というのは社会的動物ですから、例えば職業とか何かで自己実現を図りたいという人がいて当然ですし、学問、芸術に没頭したい人もいる。
しかし、だからと言って生活をそれらの手段にするのではなく、生活自身も目的の一つと位置づける。
男性も女性もそう考えないと、人間はいびつになってしまう。
   ------藤原房子「暮らしにおける『生活文化』論」p114、『暮らしの哲学としての生活文化』PHP研究所

………

家事はなぜしなければならないのでしょうか。
家事には本質的にどのような意義があるのでしょう。

私は、あるとき、「家事は手段ではない」「家事はそれ自身が目的なのだ」と気がつきました。
家事をしながら日々を生きているその状態そのものが、すでに目的である。
だから、私という主体が家事をしながら生きることは、すでにして組み込まれている一方で、「どのように分担して」「何をどのように使って」の部分は、主体(私)がよく家事を行える方法であればそれでいい。

手段として家事をとらえてしまうと、「どのように」「何を使って」「誰が」「いつ」という枝葉末節の部分にとらわれてしまいます。
そこには正解はないのに、正しい家事やいい家事があるかのように思ってしまう。

私は、私たちに必要なのは、「手段としての家事」の充実ではなく、「存在としての家事」の実現だと考えています。
「家事」を「暮らし」と言い換えてもよいことは、お気づきかと思います。

藤原さんは、当時の商品科学研究所所長です。
平成8年(1996年)の著述。バブル景気が終息し、「閉塞感」と言われ、長い不況期に入ることを予感していた時期、それでも右肩上がりの成長がまだ信じられていた時期に、「生活は手段ではなく目的なのだ」と明言していた人がいることを知って、うれしくなりました。