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家事塾ブログ~家のコトは生きるコト~

家事塾代表・辰巳渚の、講座日誌や家事エッセイ、お知らせなどを掲載します。

砧小学校の方からのご質問

2010年01月25日 | 子どもたちのこと
年末に講演と実習にうかがった砧小学校の参加者から、ご質問をいただきました。
この場でお返事しますね。

Q1.子どもの部屋を自分で片付けさせるコツみたいなのは、ありますか?
 部屋が兄弟でいっしょのため、お互いになすりつけあいをして、結局私に怒られながらやっています。

A.怒られながらでも、ちゃんとやれていればそれでよし、とも思いますが……(笑)。
お子さんの年齢が小学生なら、自ら言われなくても片づけられるのは、よほどしっかりしているか、そもそもきれい好きな性格の子でしょう。
とくに男子は、なかなか自発的に環境を整えようとは動かないものです。

目標は、親が「片づけなさい」とタイミングを知らせれば、あとは自分で動ける、という状態です。
しかも、最後までしっかり片づけ切ることができるようになれば、あとはもう大丈夫。いずれ、大人になったころには自発的に片づけられるようになるはずです。

さて、親が「片づけなさい」と言ったときに、子どもは「これはどこにしまうの?」と途方に暮れる状態ですか? それとも、ただめんどうくさいだけですか?
片づけるためには、元の場所を知っていないと片づけられません。
そして、その「元の場所」は、小学校中学年にもなれば、親が勝手に決めた場所ではなく自分が(親にアドバイスされながらでも)決めた場所であってほしいですね。

自分で決めた場所に、自分の手で戻す。
その地道な繰返しを、親がしつこく子どもにさせられるかどうかが勝負のように思います。

兄弟でなすりつけあうのは、まあ兄弟の宿命でもあります。
では、親は、「自分のことは自分でしなければ誰もしてあげない」「人のことは人がするのだから自分はしなくてもいい」教育方針でしょうか。
「自分のことは自分では基本だけど、近くにいるのが自分なら人のこともしてあげようよ」という教育方針でしょうか。

親が「お兄ちゃんが出したものでも、あなたの目に入ったのなら、いっしょに片づけてあげればいいでしょう?」と自信を持って伝えてみてはいかがでしょうか。


Q2.過保護な祖父母とどう向き合ったらいいか? 孫にさせずに全部やってあげてしまう。

A.これは永遠の大問題ですね。

同居の場合と別居の場合とでは、考え方は変わります。

別居であれば、月に数回のことだから目をつぶるのが最良の策ではないでしょうか?
人は、年をとればとるほど、自分の考えが固定してしまいます。
また、親のように子どもの世話や教育などいろいろな面で関われない分、ちょっとでもできることがあればやってあげたい、と思ってしまうのでしょう。
要は、手を出せる機会は、祖父母にとってとても少ない、ということです。

同居の場合は、少したいへんですね。
祖父母に甘やかされた分、親ががんばっても、いわゆる「いいわいいわ」になってしまいがちです。
でも、この場合も、祖父母に考えを変えろ、というのはなかなか困難です。
私は、そもそも無理なのではないかと思っています。
でも、子どもには、親が自分の考えを伝えられます。

親として、子どもにどうあってほしいか、自分の考えとして伝えてみてください。
祖父母の対応については「おばあちゃんは、あなたのことが大切でしょうがないのよね。その気持ちがわかるから、お母さんもおばあちゃんに『やめて』とは言えないの。でも、あなたが『やめて』とか『自分でする』と言えば、おばあちゃんも無理にはしないんじゃないかなあ」など、子どもに考えさせてみてください。

たとえ低学年でも、親が自分の考えをしっかり話せば、子どもは理解します。
子どもには、自立したいという気もちが必ず備わっています。
その気持ちを尊重する方向で、祖父母との対応を子どもに判断させてみることで、現実には何も変わらなくても、子どもの受け止め方が違うように思います。

受講生の子どもたちからの年賀状

2010年01月15日 | 子どもたちのこと
今年のお正月には、家事塾から、受講生の子どもたちへ年賀状を書きました。
すると、たくさんのお返事をいただきました。

虎の絵を描いて「かじをがんばるでガオー!」と書きくわえてくれた人。
「お手伝い、がんばってます!! またよんでください、いきますよ!!」と頼もしい人。
「ゴミを出すことがわたしの仕事です」と教えてくれた人。
「おそうじは、たのしくやっています」と報告してくれた人。

どの年賀状からも、みなさんの笑顔が思い浮かぶようでした。
この場を借りて、「どうも、ありがとう!」。

また、裏書に「家事塾 御中」と大人のようにしっかり書いてくれた人が何人もいたことに、感心しました。
きっと、お母さんやお父さんに、書き方を教わったのでしょう。
小学生くらいだと、団体に向けてお手紙を書く機会はなかなかないけれど、こんな機会に「人には【様】だけど、会社には【御中】なんだ」と覚えてくれたんですね。
スタッフみんなで「すごいね」と喜んでおりました。

「あなたを殺して……」母の覚悟

2009年12月22日 | 子どもたちのこと
私のヘアカットをしてくれたYさんと話していたときに、彼女の厳しいご母堂の話になりました。

Yさんが子どものころ、悪いことをしたときに、一度だけ、お母さんは台所から包丁を取り出して、彼女につきつけたそうです。
「こんなことをしていいと思っているの。どうなんですか」
厳しく叱られたYさんは、動転してしまって、何も言えないでいました。
すると、「こんな子を、私はこのままにしておけない。あなたを殺して私も死ぬ」とお母さん。

Yさんは、「あ、私はこれで死ぬんだ」と思ったそうです。

Yさんのお兄さんが「謝れ、謝れ」とアドバイスしてくれたこともあり、その場は収まったとか。

私は、この話を聞いて「そうなんだよ」とひざを打つ思いでした。
親は、とくに母親は、子どもを一人前にして世の中に送り出すために育てている。世の中に送り出すに足る人間に仕込んで、あとは安心して手を離す。
「あなたは世の中のお役に立ちなさい」「この子を世の中でお役に立ててください」という思いを持って、手放すのです。

言い換えれば、世の中に送り出せないような子どもであれば、親は世の中に送り出した自分の命と道連れにしてでも、始末をつけなければならない。
そのくらいの覚悟というか、世の中に対しても、わが子自身に対しても、親は責任を持つものなのだと思います。

子育てのたいへんさは、肉体作業のたいへんさだけではなく、一つの動物そのままの命を、社会的な人間として育て上げる責任のたいへんさにある。
くりかえすけれど、それは世の中に対してだけでなく、生まれ出でた子どもに対しても、送り出した親としての責任があるのです。

この重大な部分を抜きにして、「子育ては楽しい」とか「子どもを育てることで親も育つ」とかということは手落ちなのではないでしょうか。

もう少しいえば、親は子を手元から手放すまでは、この責任を負うていうからこそ、親は「早く育って、一人立ちしてほしい。でなければ、私はいつまでも責任から逃れられない」と、子どもの自立を願うものなのです。

……

いつも私は、現代の日本の子どもたちは、いつも大人に見張られながら、けれどもほったらかしにされていると感じています。

親から子へ、大人から子どもへと、手から手へ、口から口へ、身体から身体へと仕込まれていかなければ、誰も教えてくれない人としてのあり方を、子どもたちは仕込まれてない。
それはまた、親の世代もまた、さらに親の世代から仕込まれてこなかった負の連鎖でもあります。

思春期の子どもたちは自分たちの心の問題をほっておかれている、親からもっと監督されていいと思っている、という調査があります。
それは、表面的な意味でのコミュニケーションの問題ではなく、親が子にいかにコミットするか、それも手や体という具体的な物、家事などの具体的な行為において、いかに子にコミットすうか、という問題なのだと思います。

……

しかし、時代劇でしか聞いたことのないセリフを、現実の言葉として聞いたのは、ほんとうに感慨深かった。
いまでもそういう親がいるんですね。
ご本人の生きる覚悟が違うんだろうなあ、とちょっと憧れます。

ぜんそくとお手伝い

2009年11月30日 | 子どもたちのこと
我が家は、私と子ども二人がぜんそく持ちです。
私は小児ぜんそくから始まって、小学校のころは運動会にはじめて参加したのが5年生、という状態。
息子は2歳で大発作、娘はゼロ歳で1週間入院のはめになる大発作。
いまはよい治療法が確立しているので、子どもたちは元気にすごしているので、まあ安心です。

さて、学校などでお話をするときに、よく「じつは私は、お手伝い、嫌いだったんだ~」ということを話します。
これは、ほんとうのこと。
そして、「すぐにぜんそくの発作が出るから、お母さんはお手伝いよりも、そっちが心配だったんだよ。それで、そうじ機をかけるときには、『ほこりを吸うと発作が出るから、あっちに行っていなさい』、洗剤やカビとり剤を使うときも、『臭いで息が苦しくなるから、あっちに行っていなさい』、納戸に物を取りに行くのも『カビを吸うといけないから、あなたは行かなくていいわ』。それでますます、なにか頼まれても『なんで私が?』と思うような子になっちゃったんだよね~」と説明します。
これも、ほんとうのこと。

そこから先、それでも家事にはいいことがいっぱいという話につながるわけですが、それはそれとして、この話に「じつは私も!」と反応する人がけっこう多いことに驚いています。

ご自身の思い出だったり、子どもたちへの対応だったり、違いはありますが、いまどきぜんそくやアレルギーの子どもは珍しくないので、全国各地の家庭でこのような会話がなされているのかもしれませんね。

みなさんの家では、どうでしょうか?

アートケアひろばに行ってみました

2009年11月04日 | 子どもたちのこと
日曜日に、茅ヶ崎市美術館のアトリエで開催されている「アートケアひろば」に行ってみました。

このアートケアひろばは、茅ヶ崎市の市民活動団体です。
「表現活動を通して、子どもの心の成長をサポートする会」と紹介されていました。

家事塾スタッフの羽場も所属している会で、行ってみたら、息子の学校の仲良しの友達や、クラスメート、娘の保育園の仲良しの友達などなど、共通する知人がいっぱいいることがわかって、うれしくなってしまいました。

地域に根付くのって、新参者(私は住んで15年)には時間がかかるのだけど、無理せず暮らしているうちに、こうして少しずつ知人の輪が広がっていくんですね。
あたりまえのことに、しみじみしています。

私も子どもたちと一緒にひさしぶりに絵の具を触りました。
描くのって、楽しいですね!
いきなり描き始めた娘と、しばらく何をしようか悩んだあげく、自分のこぶしをデッサンしはじめた息子。
家に帰ってから、「おれの絵、本物みたいだよなあ」と自画自賛しておりました。

ちょっと前の案内ですが、興味がある方は茅ヶ崎美術館の案内を見てみてください。

幼稚園の園長先生から

2009年10月08日 | 子どもたちのこと
今度、講演でうかがう幼稚園の園長先生から、連絡事項のお手紙をいただきました。

「NHK見ましたよ」と書いてくださって、うれしかったのですが、そのなかに「若いお母さんたちに、こうしたらいいよ、と伝えたいと思った」という内容が書かれていました。

それは、NHKの番組中のシーン。

ひとつは、抱っこで赤ちゃんを寝かしつけようとがんばっているお母さんへ。
抱っこはお母さんの顔が見えるから赤ちゃんが落ち着かないから、おんぶのほうがよく寝ると思いますよ、のこと。
私も、上の子は泣いてばかりいて、寝かせるためにどれだけ抱き続けたかというほどだった経験を思い出しました。
下の子は、スリングでおなかのところにすっぽり入れてしまったら、寝ること寝ること! 性格にもよるとは思いますが。
おんぶも、すっぽり包まれて、お母さんの体温があったかくて、落ち着きますよね。

もうひとつは、添い寝で寝かしつけているお母さんへ。
お昼寝のときは、ちょっとカーテンを引くなどして薄暗くすると、落ち着いて寝てくれますよ、とのこと。
これも、あたりまえのことなのに、大人だけの生活をしてきたあとだとなかなか気がつかないものです。

ほんとうに、こういうちょっとした知恵が、身近にあれば、子育ても、日々の暮らしも、どれだけ楽になるでしょう。
「こういうときは、どうするの?」と調べなければ情報として取り込めない現在では、知りたい知恵しか知ることができません。

そこにちょっとした知恵があることにさえ気づかない生活の知恵は、ほんとうにたくさんあるのだと思います。
それが、生活を豊かに、心地よいものにしてきたのかもしれません。

お手伝い塾参加後の子ども

2009年09月30日 | 子どもたちのこと
宿泊型のお手伝い塾では、参加なさったお子さんに、1ヵ月後のレポート提出をお願いしています。

お手伝い塾が「お泊りで楽しかった」で終わらないように、少し時間をおいて、またお手伝いについて考えたり、日常の行動を振り返ったりしてほしいという願いからです。

レポートを返してくれたSさんのお母さんから、次のような感想をいただきました。
・お手伝い塾参加後は、たしかに態度が変わった。
・時間がたつうちに、自分が決めたお手伝いを自発的にすることはなくなり、母がやっていても「私がする」とは言わなくなってきた。
・母がやっている姿を見ても、「ラッキー」と思っている様子。
・しかし、レポートでは母の印象よりも、もう少し実行している自覚があるよう。

こうして、冷静にお子さんの様子や気持ちを考えられるお母さんは、すばらしいと思うと同時に、人はよほどのことがないと劇的には変われないという思いを新たにします。
言い換えれば、人は変わらないのがあたりまえなのです。

人は変わらない。自分にとってなるべく快適な行動パターンを作り上げている。

そんな人が変わるのは、どういうときなのか。
ひとつには、いったん「死ぬ」ほどの大きな出来事に出合う。そこから、自我を形成しなおすことで、「生まれ変わる」。多くの宗教的修行は、そういう仕組みです。
もうひとつには、行動(手と体を動かすこと)です。動かすのは、自覚では無理です。外的な力でなければ、すぐに挫折します。外的な力とは、「環境」です。学校、更生施設、労働、そして家庭。子ども学では、「親もまた子どもにとっての環境である」と考えられています。
ただし、行動で人が変わるのは、とても時間がかかります。

お手伝い塾で、よほどのインパクトがあれば、子どもたちは変わるかもしれません。けれど、たった1泊、あるいは半日で、それほどの衝撃を受けるわけはありません。
あやしい自己啓発セミナーなどの苛烈な自己破壊の仕組みを知れば、納得できると思います。

私は、お手伝い塾もまた、子どもが経験する「環境」として考えています。
一時的にでもそこにいた環境であり、そこでじっさいに手や体、心を動かした経験がある。
体に刻みこまれたものは、たとえ小さくても、必ず残る。そう信じています。

Sさんのように、レポートをきっかけに、あるいは新学期などの節目をきっかけに、何度もお手伝い塾のことを思い出したり、日ごろのことを振り返ったりしてくださいね。
そのときに、お子さんを叱ったりせずに、お子さん自身が自分の心の変化に気づいたり、態度をかえりみたりできるように、お子さんの言葉を待ってあげてください。

もうひとつ。子どもが変わることを期待するだけでなく、親御さんもまた変わってきたかどうかを、自問してみてくださいね。
子どもの行動は、子ども自身の内発的な動機だけではなく、「環境」によって決定している面も大きいことを、改めて考えてみてください。


大声を出さない子どもたち

2009年09月29日 | 子どもたちのこと
ある保育園をフィールドワークしているときに、気づいたことがありました。
子どもたちが、大声で叫んだり、先生に話すときに大声を出したりしないで、全体に落ち着いているのです。

もちろん、保育園だからにぎやかではあるけれど、騒々しくはない。
園によっては動物園のような声が響いているところもあるのに、それはなぜなのだろう、と思いました。

考えてみると、子どもたちと保育者とのあいだに、しっかりとした信頼関係ができているのです。
子どもは、大声を出さなくても、話しかければ先生が「あとで」と上の空ではなく、しっかり聞いてくれることを知っている。
叫んで自己主張したり、感情を発散させなくても、まわりに無理に合わせる必要はなくて、その場でしたいことをちゃんとできているから、満足してそこにいられる。
お皿をうっかり落として渡ったり、なにかで友達とけんかになったりしても、頭ごなしに叱られることはなくて、ちゃんと保育者が見ていてくれて、正当にあつかってくれる。

子どもは、そこにいることに満足していられると、落ち着いていられるんですね。
そして、同時に、生き生きと話したり、笑ったり、遊んだりできるようです。

……

そんなことに感心しながら、家庭も同じだよなあと思っていたところ、今日は東京でこんなことも感じました。

ひとつは、いまさら私が指摘するまでもないことだけれど、電車の案内のうるさいこと。車内でも、ホームでも、大音量で身の置き場がないくらいです。
これって、案内する側が、相手が聞いていないことを知っているとしか思えません。
聞いてくれないことに苛立って、ますます大音量で騒々しく案内したくなるのでしょう。

そしてもうひとつは、人の足を踏んでも、傘で人の体を突っついても、無言で通り過ぎる雑踏。
マナーがどうこうと言いたいわけではありません。
「声を出さない」とは、「むやみに大声を出す」と同じなんだなあ、と思いました。
相手が「私」の存在を認めていないから、大声を出して主張するのも、声を出さずにこちらもいないことにするのも、根っこは同じ。

どんな相手にも、たとえ知らない相手同士でも、袖触れ合うときには、普通の声を、普通に話せるような人間関係が、いごこちのよい世の中なのでしょう。

秋祭り

2009年09月24日 | 子どもたちのこと
みなさんは、この5連休をどのようにすごしましたか?
我が家は、東京の親戚の住む街の八幡さまの秋祭りに、行ってきました。

由緒正しい歴史ある秋祭り。
宵宮には煌煌と灯がともる提灯が並び、浴衣をきた家族づれがさざめきながら集う、そんなお祭りでした。

お祭り男の息子は、昼、宵宮、翌日の昼と、3回に分けてでかけて、金魚すくいやら、射的やら、当てくじやらして、大満足して帰ってきました。
いまどきのお祭りは、食べもの系の屋台ばかりでちょっと不満なのだけど、このお祭りには、まだ昔ながらの遊興の屋台が並んでいました。

私は、つくづく日々の暮らしの豊かさを考えてきて、地域のたいせつさを思います。
それは、血縁と同意義であるほどの密接なつながりでなくてもいいのです。
この土地に住んで、楽しいなあ。この街の暮らしが、好きだなあ。そんなふうに、軽やかに思えるほどの地縁があることで、家族も仕事も、ほんとうに充実します。

その地縁をつなぎとめるものとしての「お祭り」は、やはりとても意義があるのではないでしょうか。
そして、そのお祭りの舞台としての神社の価値も、大きいのだと思います。
小学校や公民館だから力が足りないのではなく、従来、磁場として力のある場所にできているのが神社だから、力があるのではないでしょうか。

小動物のような子どもたち

2009年09月10日 | 子どもたちのこと
いつも思うのですが、小学校3年生くらいまでかしら、子どもたちが何人か固まっていると、まるで小動物のようです!

保育園の幼い子どもたち。
おやつを食べているときに、お迎えに行くと、みんなが食べかけのおやつを手にしたまま、いっせいにこちらを見つめます。じーっと視線をそらさず、そして口も止まっている子も、口だけもぐもぐの子も。

道をつらなって下校している小学生たち。
じゃれあいながらくるくると走りまわっていて、ときどき「ぴーーっ」「ぎゃーーっ」としか聞こえない喚声をあげて、ほんどうに動物のようです。

今日は、保育園の災害時引き取り訓練の日でした。
子どもたちが、ぶかぶかの防災ずきんをかぶって、みんな集まってちんまり座っている姿は、まるで親鳥のような気持ちになって、全部抱え込んでしまいたいくらい。

誰でもこういう時期があった、という月並みな感慨も、新たに胸に迫ってきます。
そして、誰でも本質は、ひたむきでそして食べじゃれ眠るといった「生きること」に貪欲な「動物」なのだ、とある種の畏れも感じます。
まあ、大人だって、子どもと同じようにかわいいんですけれどね。