広島の山

隠された古代史を明らかにする

出雲探検の旅

2008-08-07 22:06:30 | 歴史

7月16日、梅雨明け。会社の同僚のHさん、Aさんの3人で、中古で譲ってもらったパジェロミニに同乗し出雲探検の旅に出た。メインは荒神谷の5万本の蓮の花。

Koujindani

朝7時に広島を出発し、荒神谷についたのが11時過ぎ。この日が梅雨明けとのことで非常に暑い日だった。蓮を見る前に358本もの銅剣が発掘された荒神谷遺跡の発掘現場へ。

それまでの日本全国の銅剣の出土数が約300本であるから、同一の場所で、一度にこれを上回る銅剣が出土したことは、まさに「青天の霹靂」。

化学分析によると、銅剣の原材料の大半は中国産と判明しているが、何処で剣を造ったのだろうか?勘の鋭いAさんは、「岡山ではないか?」とおっしゃるが、如何に。

さて、いよいよメインイベント、「蓮」である。

Hasuhuukei

Hasunoikenokameraman_2  Hasunochuukyori

Hasusateichuu Hasutandoku

蓮、蓮、蓮ーーーーーーなにしろ5万本である。余りに多すぎて写す対象がなかなか絞れない。Aカメラマンも奮闘されていたようだ。あっちこっち暑さの中を動き回り、寝不足もあり疲れた。そこで昼食タイムになった。Hさんの推奨する出雲そばを食べに、出雲大社へ向かったが、そこで「恐るべき出来事」が、、、、

安くて美味しい出雲そばがあるとのHさん(出雲の地理に驚くほど詳しく、近隣市町村の人口構成比までも把握しておられる)の助言を頼りに、その店を探す。

Izumotaisha 

出雲大社を通り過ぎ、やっと到着した、と思ったら、何と「定休日」。。。。。

仕方なく、代わりの店を探すことになったのだが、これが「悲劇」の始まりになろうとは、全員知る由もなかった。

Hさんが、すぐ近くにもう一軒の店を見つけ、そこへ入ることにした。店の外には植え込みがあり、伝統が感じられたが、中へ一歩入ると印象が変わった。

「雰囲気に魅力がない。」 造作が古く、磨き抜かれた古さではなく、ただ徒に古くなった感じ。

店員も、近所のヒマなお年寄りに手伝いに来てもらっている感じで、プロらしい「活気」が感じられない。なんとなく悪い予感がしたが、入り口近くの座敷に3人で座った。ウエイトレスが注文を聞きに来た。

年の頃は60歳~70歳くらいだろうか、精気のない表情で、「何にしますか?」と訊いてきた。割と高く弱々しい声だった。

Aさんが、「天ぷら蕎麦ありますか?」と訊いた。実は来る途中の車内でも「天ぷら蕎麦!」を連呼しており、楽しみにしていたのだった。

が、しかし、返って来た言葉は、「あー、天ぷら、やってないんですよ。」だった。

落胆したAさんと我々は、仕方なくメニューを検討し、「三色そば3段(900円)」というのを3人とも注文することにした。

三色そば3段を3つですね!」老ウエイトレスが復唱し、注文票にメモして立ち去った。

店内に飾ってある色紙等をぼんやり眺めながら待っていたが、なかなか蕎麦が来ない。だんだん混んできたが、見回すと我々より後から来た客が、先に蕎麦を食べている。

20分以上経っただろうか、おかしいと思ったAさんが、老ウエイトレスに確認しに行くと、「訊いてませんよー。」と、シラーッと真顔で答えるではないか。

「出よう!」お膳をひっくり返しそうな形相でHさんが立ち上がろうとする。「まぁー、まぁー」とトラブル嫌いな私が抑える。で結局、再度同じ注文をして、待つこととなった。

さすがに今度はそれほど待たずに来たが、お膳に置かれた蕎麦を見て驚いた。切られた麺の幅がまちまちで、中には切られず布きれ状態の麺もある。これが出雲蕎麦なのか、、、、

ひょっとして、あの老ウエイトレスが切ったのでは、と思われるほど雑な切り方だったが、それでも味が良ければ、、、と口に入れてみたが、どうということもない味だった。

「名物に旨いものなし」を地で行く出雲蕎麦だった。

気を取り直して出雲大社に向かった。

Kyodaisimenawa 実は出雲大社は初めてなのだが、写真で見ると巨大なしめ縄なのだが、実際に見るとそれほどでもなかった。

Izumotaisha2

宇佐神宮に何度も行っている私の目には、出雲大社は小さく物足りなかったが、裏側に回ると良い雰囲気だった。

Izumosizukesa 神秘な雰囲気の中にたたずむ謎の女性。

さて次は須佐神社だ。

アルツハイマーのウエイトレスの蕎麦屋のあった出雲大社に別れを告げ、一路、須佐神社を目指した。

Hさんが、またもや出雲地方の地理の詳しさを発揮し、あっという間に須佐神社に到着。

Susamon

こぢんまりと静かなたたずまいだった。

Susaokunoin

Susapawaspot パワースポットと呼ばれる周囲7m樹齢千数百年の杉の大木もあった。

Susaokunoinshoumen 奥の院。

また、数百m離れたところに「風穴」なる穴蔵があり、暑さを凌ぐ天然冷蔵庫であった。4~5人は入れそうな広さで、暑さでぐったりした我々を蘇らせてくれた。

これで出雲探検の旅は終わった。総括すると「まずまず」の旅であったが、「スサノオ」は出雲オリジナルの神話ではなく、西アジアから移動した民族が伝えた神話であろう。

日本の蘇民将来説話を調べてみると、吉備真備著という『三国相伝陰陽宮轄ほき内伝』は次のように述べている。

【天竺吉祥天王舎城の王様を商賁帝といい、帝釈天に仕えて牛頭天王ともいった。顔は牛のようで頭には角が生え鬼のようであった。そのために妻もいない。ある時帝釈天の使いが来て、「南海の頗梨采女をもらえ」といったので、牛頭天王は喜び勇んで南海に赴いた。

八万里の行程のうち三万里に及ばない鬼の国、広遠国で人馬ともに疲れてしまう。その国の鬼の王、巨旦大王に一夜の宿を乞うが断られる。するとそこにいたはしためが、
「東の広野に蘇民将来の庵があります。貧しいけれど慈愛のある人です。そこで宿をお求めなさい。」
とすすめた。牛頭王がそこへ行くと蘇民将来は乏しい食料を彼に給して歓待した。翌日、
「私の隼鶏という宝船で行くと速いでしょう」
と自分の乗船を貸した。
 牛頭王は無事南海に着きそこで21年を過ごした。そして頗梨采女との間に8人の王子を得、眷属も八万四六五四神になった。
 やがて后妃や一族をつれて広遠国に攻め入り巨旦らを殺し、あのはしためを助け出した。

はしためは「急々如律令」の文字を書いた桃木の札をたもとに入れておいたのである。
 そして牛頭王は広遠国を蘇民将来に与えて、
「後の世に寒熱の病気にかかればそれは我々のせいである。だが、お前の子孫だけは病にかからないように26の秘文を授けよう。五節の祭礼をたがえず26の秘文を収めて厚く信敬せよ」といった。】

蘇民の「蘇(ソ)」は朝鮮語で牛(ソ)を表すから、「蘇民将来」とは牛頭神バアルの一族、すなわちユダヤ人やフェニキア人のことである。

さて『備後国風土記』の蘇民将来説話は『続日本紀』に引用されている。

【昔、武塔神が南海の神の娘の所へ夜這いに出かけたが、途中で日が暮れてしまった。
そこに蘇民将来と巨旦将来の兄弟がいて、武塔の神は一夜の宿を頼んだ。弟の巨旦将来は金持ちで家や蔵が100もあるのに惜しんで宿を貸さなかった。
兄の蘇民将来は、たいへん貧しかったが宿を貸した。栗殻で座るところを作り、栗飯をごちそうしたので、武塔の神は無事に出発することができた。

年月が流れ、武塔の神は南海の神の娘との間に8人の子をもうけて戻ってきた。
武塔の神は、兄の蘇民将来に再会して言った。
「弟の巨旦将来に報復しよう。お前の子が弟の家にいるか?」
蘇民将来の娘は弟の家に婦としてはべっていた。すると武塔の神は
「彼女に茅草で作った輪を腰につけさせよ」と言った。
武塔の神は、その夜、蘇民将来の娘一人を残して、弟の一族をことごとく殺してしまった。そして、
「わたしは速須佐雄の神なり。後の世に疫病があれば蘇民将来の子孫といって茅草の輪を腰につけよ。そうすれば疫病を
まぬがれるであろう」と言った。】

この説話で注目すべきことは、牛頭神バアルがスサノオの命になっていることである。
実際、祇園神社ではスサノオを牛頭天王と書いてあるから、スサノオのモデルが牛頭神バアルであることは間違いない。

『九鬼文書』の蘇民将来は、「漂浪神は九鬼家に泊まり、その夜嵐があったが、九鬼の一族のみが助かり、他の人々はすべて滅びてしまった。神の出発の後、九鬼家の軒下には☆印(かごめ紋)のついた木の札が下がっていたので、人々はこの漂浪の神はスサノオであったことを悟った」となっている。

この☆(かごめ紋:三角形を二つ組み合わしたもの。ここでは☆を便宜的に使用))はダビデの星といわれ、今日でもイスラエルの国旗になっているが、伊勢神宮の石燈籠に見えるように伊勢神宮のシンボルマークにもなっているし、また神代文字のなかにもあって研究者を不思議がらせている。

さらに『公事根源新釈』百一祇園御霊会十四日も、祇園社すなわち京都八坂神社の祭りとして、
「武塔天神の速須佐雄神が、南海の女子に夜這いしたとき、弟の巨旦将来が泊めることを断り、兄の蘇民将来が泊めた。
 八年の後、武塔天神は八王子とともに蘇民を訪れて、茅の輪を作ることを命じ疫病の難を避けさせた」と述べ、「また祇園の縁起にいわく」として
「天竺の北の九相国に吉祥園があり、その城に牛頭天王がいて武塔天神ともいった。
沙渇羅(サラ)龍王の女を后として八王子を生み、八万四六五四神の眷属があった。
御霊会のとき、四条京極で栗飯を奉るのは蘇民将来の由緒という」と述べる。

ここで「サラ龍王の女」というのはもちろんサバの女王ビルキースである。
「九相国」の相がイスラエルのスを、「吉祥園」の祥がエルサレムのサをそれぞれ残したと考えるべきであろう。

ソロモン時代のユダヤ人はバアル教を信仰していたから、「牛頭天王・武塔天神」とはバアル神、またはバアル神を奉じるソロモンのことであった。
                               (完)