秋彼岸の雨のひすがらしくしくに身はくろがねの悔を育てつ 竹山広「葉桜の丘」
一首を読んで、下句「身はくろがねの悔を育てつ」に胸を衝かれました。
秋の彼岸の一日中、雨が絶え間なく降っている。北海道の九月とは趣が違うかもしれませんが、心弾む想いではなかったはずです。「くろがねの悔」とは何なのでしょう。ひらがなの「くろがね」からは単なる「鉄」ではなく、中の透けて見えない不気味な物体を想像する事が出来ます。
「悔いが残る」と表現する事がありますが、作者は「くろがねの悔」を体の中に育てているのです。消したくても消せない強靱な「悔」。それは誰しもが持つ人間としての原罪のようなものかも知れません。人はそのことに気付かないまま暮していけるけれど、作者は消しがたい後悔の思いと対峙して生きているのだと思います。
被爆体験をもつ歌人竹山弘の作品から反戦の思いをくみ取ることは容易です。が、一首に込められたものを、単に反戦の歌とは読みたくない、人間竹山弘そのものとして受け取りたいと私は思います。 (鎌田章子)
一首を読んで、下句「身はくろがねの悔を育てつ」に胸を衝かれました。
秋の彼岸の一日中、雨が絶え間なく降っている。北海道の九月とは趣が違うかもしれませんが、心弾む想いではなかったはずです。「くろがねの悔」とは何なのでしょう。ひらがなの「くろがね」からは単なる「鉄」ではなく、中の透けて見えない不気味な物体を想像する事が出来ます。
「悔いが残る」と表現する事がありますが、作者は「くろがねの悔」を体の中に育てているのです。消したくても消せない強靱な「悔」。それは誰しもが持つ人間としての原罪のようなものかも知れません。人はそのことに気付かないまま暮していけるけれど、作者は消しがたい後悔の思いと対峙して生きているのだと思います。
被爆体験をもつ歌人竹山弘の作品から反戦の思いをくみ取ることは容易です。が、一首に込められたものを、単に反戦の歌とは読みたくない、人間竹山弘そのものとして受け取りたいと私は思います。 (鎌田章子)