歴史薫るまちへの散歩!

歴史を感じるまちへ、散歩に出かけた時の内容を、書き留めています。

木津川(沈下橋・流れ橋)

2021年09月03日 | 日記

今回、三重県青山高原を水源とし、三重県から京都府を流れる約89kmの一級河川、木津川の 沈下橋と流れ橋に行って来ました。        
         
          
大河原橋          
  京都府相楽郡の木津川に架かる橋で、「恋路橋」とも呼ばれている増水時に水没して隠れるユニークな沈下橋です。          
  正式な名称は「大河原橋」と言います。 手すりおよび落下防止の欄干も有りませんが、自動車の通行は出来るようです。          
            
  最寄りの駅はJR関西線大河原駅があります。 天王寺駅から加茂駅そして亀山駅方面は1時間に 1本しか有りませんがワンマンカーの気動車が平日であり一両でした。 休日には二両編成になるのでしょうか?        
             
        
          
  日本の沈下橋は全国に約400か所以上あり、とりわけ有名なのが四万十川(高知県)に架かる橋が あります、近年、各橋からの転落事故が多く見受けられ          
 永久橋に架け替えられ徐々に姿を消して行く様です。          
    

    

案内板が有ります

 

  下流から見た恋路橋

       恋路橋を渡れば恋志谷神社

南山城村役場のHPのスポット紹介です

      
   恋志谷神社~恋路橋    鎌倉末期、幕府と対立し信貴山に難を逃れるために身をよせていた後醍醐天皇。          
 後醍醐天皇を慕うある高位の女官が天皇の身を案じ遠く伊勢から療養の身にもかかわらず駆け付けました。が、時すでに遅し・・・天皇は追ってから逃れる             ために、笠置山 を発った後。 女官はとうとう自害してしまいます。 そして、「天皇のことを案じ、恋焦がれ、病に苦しむような辛いことは自分一人                で充分。      
             
 人々の守り神 になりたい」と遺言されたと言うことです。これを哀れんだ人々が祠を建て祀ったのが 「恋志谷神社」の始まりだと伝えられています。                
         
 最後まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続け  ていたところから、いつしか親しみを込めて「恋志谷さん」と呼ばれる様になりました。           
 「恋志谷さん」へ通じる恋路橋を歩いて渡ってお参りすると、願い事がよく叶うとか。          

 

 

 流れ橋   
    
京都府久瀬郡久御山町と京都府八幡市上津屋里垣内を結ぶ、木津川に掛けられた木橋です。    
川が増水すると橋桁が流される構造を持つ流れ橋です。 このことから流れ橋あるいは木津川流れ橋    
八幡流れ橋と呼ばれることがあります。    この橋が上津屋橋です。
上津屋橋は歩行者の専用橋となっており、周辺住民の生活道路の一部として利用されています。    
手すりおよび落下防止となる欄干は無く、木津川が増水した場合、固定されていない橋板が橋脚の上から流される構造になっており、    
ワイヤーロープで繋がれて載っているだけで、水が引いたあとは、ワイヤーロープを手繰り寄せて橋板を基に戻す仕組みになっています。    
    
江戸時代から明治時代の中頃まで、川の両岸地域が上津屋村という一つの農村であったことから、住民は渡し船で木津川を頻繁に往来していました。    
また、石清水八幡宮への参拝者も渡し船を利用していました。 渡し船での渡河は利便性が悪かったことから、少ない予算で架橋できる流れ橋を架けたのが    
上津屋橋の始まりだそうです。    
1953年に渡し船の置き換えとして完成してから2016年までの間におおよそ3年に1回程度流されています。    
上津屋橋周辺は主に茶畑として利用されており、民家や電柱が無く、近代的な橋とは異なるため時代劇の撮影が盛んに行われていた様です。    
   

    

     上津屋橋標 

  

   注意書き看板

 手前は茶畑であり人の往来が盛んです


日本遺産 「祈る皇女 斎王のみやこ 斎宮」

2019年08月01日 | 日記

日本遺産

 「祈る皇女 斎王のみやこ 斎宮」

高度経済成長期には、明野原台地(三重県多気郡明和町)の西縁部で大規模な宅地造成計画が持ち上がり、開発事業に先立って、古里遺跡の確認調査が実施されました。

大型の建物を含む奈良時代と鎌倉時代の大溝、陶器等が数多く発見され、斎宮との関連が注目されました。  発掘調査成果の重要性に地元関係者・団体による遺跡保存運動が活発化し、県・町教育員会が主体となって、国史跡指定に向けた地権者への説明がなされ、これらの保存活動により、1979年(昭和54年3月27日)に国の史跡に指定されました。

日本遺産・・・それは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリを認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に発信することにより、地域の活性化を図る制度であります。

今年は、年号改元にて「令和」になりましたので、天皇・伊勢神宮に仕えた未婚の皇女

「斎王」の宮殿が置かれた所に行ってみました。

場所は、三重県の近鉄電車、山田線、斎宮(さいくう)駅前に広がる斎宮跡です。

そこは、伊勢神宮から約15km離れた伊勢神宮領の入り口に作られました。

  復元された平安時代の方格地割道路

古代から中世にかけて、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた「斎王」の宮殿であります。

飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設であり、多数の建物跡が見つかっています。 天武天皇の娘で初代斎王とされる、大来皇女(おおくにのひめみこ)の就任に伴い造営されたとみられます。

斎王の代が変わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」などの記録や発掘の結果によると、基盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された都市であったことが分かってきました。 そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に分かれ、総数100棟以上の建物が立ち並んでいたと考えられます。

    斎宮寮の復元模型-1

    斎宮寮の復元模型-2

     正 殿

    西脇殿&東脇殿

中央集権国家の樹立を目指す天武天皇のもと,伊勢神宮祭祀(さいし)が整えられたことを物語る貴重な発見です。

現場は東西2キロ、南北0.7キロに及びます。 平城京や平安京はもちろん日本の「首都」であり「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府は、都から遠く離れた九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ「小政府」のようなものです。 斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王だけの都。 斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を合わせて500人を超える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりもはるかに大きな規模でした。

   斎宮歴史博物館

 

  斎宮跡のすべてが解る情報センター

参考資料:「読売新聞」、「斎宮歴史博物館」

斎王(さいおう)・・・・それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことであります。

歴史にみられる斎王制度は、天武二年(674年)、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくにのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まります。

御杖代とは、杖の代わりに神を案内するものだといわれています。

以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在しました。

 伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、多くの斎王の物語を伝えています。

「延喜式」によると斎宮では、正月元旦・7日・16日や5月5日、7月7日、9月9日と11月の新嘗祭には節会(せちえ)がおこなわれており、年中行事や儀式を大切にする平安宮にならった生活が見られたようです。

制度が確立して以降の斎王は、亀卜(亀の甲を火で焙ってできたひびで判断する卜占)卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴きました。  この旅は斎王にとって神に近づく禊の旅であり聖なる神領の入り口に流れる川、秡川で斎王は最後の禊を行い、斎宮に入ります。 斎王、その任が解かれるのは、主に天皇が変わったときのみ。 年に三度(9月の神嘗祭(にいなめのまつり)、6月、12月の月次祭(つきなみのまつり))、9月の神嘗祭に奉仕するため、8月に身を清めたといわれている尾野湊御禊場跡が大淀海岸に残っています。伊勢神宮に赴く以外は、ほとんど斎宮で祈りの日々を過ごしながら、神と人との懸け橋になっていました。

葱華輦(そうかれん) 

斎王の居室

斎王の群行と退下

斎王の解任(退下)は天皇の譲位、死去、近親者の喪などによるとされ、帰路は天皇譲位の時は群行路をたどり、その他凶事の時は同じ路をたどることはできないとされていました。

  斎王の行程(群行)

退下後の斎王

 退下後の全斎王のその後はごく数人を除いてあまり知られていません。 律令制では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られるため、奈良時代までは退下後の前斎王が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであり、平安時代以降も内親王で臣下に降嫁したのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人であり、多くの斎王は生涯独身だったとも思われます。

斎宮の終焉

 平安時代末期になると、源平合戦の混乱で斎宮は一時途絶します。

その後復活しましたが、鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちになり、後深草天皇(ごふかくさてんのう)と亀山天皇の兄弟により、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂してからは、鎌倉幕府に依存を強める持明院統の歴代天皇においては斎王が置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎王祥子(さちこ)内親王(後醍醐天皇皇女)が群行せず、斎王制度は終わりの時を迎えました。

  1. 斎宮跡(さいくうあと

 天皇に代わり伊勢神宮に仕えた皇女・斎王の宮殿と斎宮寮と呼ばれた役所跡。

斎宮跡の終焉の実相は、いまだ明確化には至っていない様です。

斎宮跡-1

斎宮跡-2

2. 斎王の森(さいおうのもり)

斎王の宮殿があったと語り継がれ、斎宮のシンボル的な森として、地元の人々により守られてきました。

斎王の森-1

斎王の森-2

  1. 3. 竹神社(野々宮)(たけじんじゃ ののみや)

   明治44年(1911年)斎宮村にあった25社の神を合祀し、野々宮が祀られていた現在地が境内となりました。 

   周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱の跡が発掘され、斎宮の中枢である内院があった場所ではないかといわれています。

 

   竹神社(野々宮)-1

  竹神社(野々宮)-2

竹神社(野々宮)-3

野々宮神社・・・・京都市右京区嵯峨野にある神社。 

天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。

斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子(さちこ)内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していましたが、度重なる戦乱の中で衰退しました。

後に後奈良天皇(ごならてんのう)、中御門天皇(なかみかどてんのう)らの論旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受けています。

   

京都嵯峨野 野々宮神社-1

京都嵯峨野 野々宮神社-2

京都嵯峨野 野々宮神社-3

4. 隆子女王の墓(たかこじょうおうのはか)

  斎宮で亡くなられた斎王、隆子女王(たかこじょおう)の墓。 隆子女王は後醍醐天皇の孫女であり天延二年(974年)にわずか3年の在位で病死されこの地に埋葬され、宮内庁が管理を行い、清楚な雰囲気が漂います。

 

隆子女王の墓-1

隆子女王の墓-2

隆子女王の墓-3

  1. 5. カケチカラ発祥の地(カケチカラはっしょうのち)

斎王・倭姫命(やまとひめのみこと)と真名鶴伝説が由来。神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸け、国の永遠の繁栄を祈る懸税(かけちから)行事の発祥の地とされ、記念碑が建てられています。

    カケチカラ発祥の地-1

   カケチカラ発祥の地-2

   カケチカラ発祥の地-3

  1. 6. 斎王尾野湊御禊場跡(さいおうおののみなとおんみそぎばあと)

尾野湊とは、大淀海岸の古名。 斎王が毎年9月に伊勢神宮で行われる「新嘗祭」に奉仕するため8月毎日、禊を行って身を清めた場所といわれています。

   斎王尾野湊御禊場跡-1

   尾野湊御禊場跡-2

碑文の処までは、雑草が生い茂り近づく事ができませんでした。

 目の前に、大淀海岸があります。

  1. 7. 大淀(おおよど)

 倭姫命が天照大神の鎮座場所を探し求め、この地にたどり着き命名。

古代の多くの歌に「枕詞」として使われた景勝地であります。

    大淀海岸

10.栗須美神社跡

弘仁年間(820年ごろ)嵯峨天皇が斎王に大已貴名(おおあなむちのみこと)を祀り鎮守の神社とするよう命ぜられたので鎮守台とも言いました。 

天正11年(1583年)1月10日兵乱の後、里人がこれを産土神として敬いました。

現在、氏神のあったところに石碑を建て、伊勢神宮の遥拝所としています。

   栗須美神社跡-1

   栗須美神社跡-2

 明和町 斎宮跡・文化観光課の資料を参考にしています。


大覚寺・「勅封般若心経」開封法会の特別公開と延暦寺・歴史的秘仏公開

2018年12月06日 | 日記

「60年に一度の勅封般若心経」開封法会の特別公開 旧嵯峨御所 大覚寺・

歴史的秘仏公開 比叡山 延暦寺めぐり

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺と天台宗 比叡山延暦寺の諸堂を巡って参りました。

団体でしか入場できない場所もあり、バスツアーでの参加となりました。

 

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺

 場所は嵐山に近い場所に有ります。

 平成30年厳修嵯峨天皇宸翰勅封般若心経1200年戊戌開封法会 参拝 

弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。

正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所ともよばれています。

平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室で有ります離宮を建立されましたが、これが

大覚寺の前身・離宮嵯峨院で有ります。

弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に一度の開封)

として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られています。

明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院で有ります。

いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の家元でも有ります。

 

 

宸殿(しんでん)

 江戸時代、後水尾天皇より下賜された宸殿造りの建物。 

天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用されていたものであります。

御影堂(みえどう)

 大正14年建造。大正天皇ご即位に際し建てられた饗宴殿を式後賜り移築されたもの。 

心経殿の前殿でもあります。 内陣左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇恒寂入道親王など大覚寺

の歴史に大きな役割を果たされた方々の尊像が安置されています。

正寝殿(しょうしんでん)

 書院造り 上段の間は後宇多法皇が院政を執られた部屋で、執務の際は御冠を傍らに置かれたことから、

「御冠の間」と呼ばれています。 南北朝媾和会議が、ここで行われたと伝えられています。

五大堂(ごだいどう)

 江戸時代中期(天明年間)に創建されたものであります。

現在の大覚寺の本堂であり、不動明王を中心とする 五大明王が安置されています。

 

勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)

 大正14年、法隆寺の夢殿を模して再建されました。 

殿内には、嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の60年に一度しか開封されない

勅封心経を奉安し、薬師如来像が奉伺されています。

 

 

 勅使門(ちょくしもん)

 江戸時代、嘉永年間(1848~1854)に再建されました。 

全体は素木造りですが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾が施されています。 

 心経宝塔(しんぎょうほうとう)

昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されました。  

基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔が安置されています。

宝塔内部には弘法大師尊像が祀られています。

 

各 、建物については、一部パンフレットより引用しています。

 

 世界文化遺産 天台宗 比叡山延暦寺

 比叡山は大きく三塔の地域に分けられ、これらを総称して「比叡山延暦寺」といいます。 

横川地域

 延暦寺三塔の中で、一番北エリアにあり、慈覚大師円仁によって開かれ、源信、日蓮、道元など、のちに名僧と言われた人たちが修行に入った地。 横川中堂(聖観世音菩薩)、元三大師堂(四季講堂)などの諸堂があります。

 「日蓮聖人修行の地」

 

   これより、延暦寺横川地域

          横川中堂

西塔地域 

 

 静寂境であり、釈迦堂(釈迦如来)を中心に、浄土院(阿弥陀如来)、居士林(こじりん)などがあります。

 「親鸞聖人修行の地」

         釈迦堂

 

東塔地域

 比叡山延暦寺(三塔十六谷)の中心で、総本堂の根本中堂(薬師如来)をはじめ、大講堂(大日如来)、

法華総持院東塔などの堂塔が集まっている。  

国宝殿もこの地域にあります。 「法然上人修行の地」

         修復中の総本堂

       

 延暦寺の教え

 1,200年前伝教大師最澄上人は、日本の国の安泰と国民の幸せを祈って日本人に合った仏教を比叡山に開きました。 その教えの根本となすものは、「個々が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」すなわち、一人ひとりが相手の立場になって考え、自分のできることを精一杯行うことが、周りを良くすることにつながると言うことです。  後世、この様な教えに基づいて、様々な高僧が集い、特に鎌倉時代には、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などといった祖師方が比叡山で血のにじみ出るような命がけの修行の末自己の信じる道に従って一宗一派を開かれたのであります。     (諸堂めぐりパンフレットより)

  国宝殿

 国宝殿の名前は、伝教大師最澄筆「山家学生式」のなかにある「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」という言葉から名づけられました。 伝教大師の御真筆をはじめ、比叡山延暦寺が所蔵する国宝・重要文化財を含めた仏像・仏画・書跡など貴重な文化財を管理・保存するため、平成4年(1992)に開設されました。

  

                     釈迦如来坐像   

広大な敷地に点在する諸堂について、参拝出来ていない箇所が多く今回廻った場所はほんの一部で有ります。


天空の聖地高野山

2018年06月10日 | 日記

      高野山

1200年の時を感じる天空の聖地、高野山を久しぶりに、公共機関を使用したツアーに参加し、一部分ですが大変感動しましたのでアップしました。

 大阪なんばから和歌山県橋本まで南海急行電車、観光列車「天空」を利用してケーブルカーで山上駅に、そこから「りんかんバス」のフリー切符を利用し、帰路は特急「こうや」を利用した弘法大師・空海が開いた、日本を代表する真言密教の聖地を巡る旅です。

 弘法大師によって開かれた真言宗は、東寺や高野山 を中心に広められます。  その後、平安の末期に 興教大師  覚鑁上人(かくばんしょうにん)  によってさらに新しい力が吹き込まれると、紀州に根来寺  が創建されました。覚鑁上人が眠る根来寺(ねごろじ)に、高野山奥の院に類似した造りのご廟所が有ります。 これらについては、以前のプログにアップしています。

 ・大門(重要文化財)

高野山の盆地の西端にあたり高野山の西の入り口の正門であります。入母屋造り、銅瓦葺の楼門であります。

大門は1688年(元禄元年)に炎上し1705年(宝永2年)に落慶しました。

それが今の門です。昭和57、8、9年に解体修理されました。 

 

  

  

・蛇腹道(じゃばらみち)

 金剛峯寺(こんごうぶじ)前から檀上伽藍(だんじょうがらん)に至る入り口に、高野山を龍に見立てると、この道が龍の腹に当たることからこの名があります。

 

 

檀上伽藍(檀場伽藍)(世界遺産)

檀場とは曼荼羅の道場の意味。 高野山の二大聖地のひとつ。

弘法大師が真言密教の根本道場を開くにあたり最初に整備に着手した場所です。

境内には根本大塔(こんぽんだいとう)、金堂など19の建造物が立ち並びます。

 

・中門

2015年(平成27年)4月2日に落慶。172年振りの再建で有ります。

焼失前には持国天・多聞天の二天像が安置されていました。

 

 

・金堂

1926年(昭和元年)に焼失後、1934年(昭和9年)に再建された鉄筋コンクリート造り、

屋根は入母屋造りの建築で8代目になります。

 

 

明神社(重要文化財)

1594年(文禄3年)再建されました。御社」(みやしろ)とも言われています。重要文化財指定名称は

「山王院本殿」であります。 弘法大師・空海が、819年(弘仁10年)に山麓の丹生都比売神社

(にうつひめじんじゃ)(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としています。

高野山の神仏習合の象徴です。

 

 

・西塔(重要文化財)

根本大塔とは対照的に、金剛界大日如来像と胎蔵四仏が安置されています。

現在の塔は5代目で1834年(天保5年)の再建であります。

 

 

・三鈷の松

806年(大同元年)弘法大師が唐から帰国される際、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、

明州の港から密教法具である「三鈷杵」を投げました。 帰国後、その三鈷杵を探し求めると、この松の木に

架かっていました。 こうして高野山は、真言密教の道場として開かれる事となりました。

以降、この松の木は「三鈷の松」として、広く信仰を集めています。

    (音声ガイドより)

・根本大塔

金堂の右後方にある多宝塔。

1937年(昭和12年)空海入定、1,100年を記念して再建されたものです。

真言密教の根本道場のシンボルとして建てられました。

 

 

・大塔の鐘

大桐鐘「高野四郎」を吊る鉄筋コンクリートの鐘楼です。

高野四郎は1618年(元和4年)に福島正則が母の菩提を伴うために鋳造したもので有ります。

 

 

 

奥之院参道

奥之院の参道に沿って並ぶ石塔の数は20万基を超えると言われ、皇族から名もない人々まで、

あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立しました。 

古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、

太平洋の戦没者らを慰霊するための供養碑・供養塔があります。

 総本山金剛峯寺(世界遺産)

檀上伽藍の東北方にあります。

1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である、青巌寺と興山寺(廃寺)を合併し、

金剛峯寺と改称されました。 「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたものです。

 

 

奥之院(世界遺産)

寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が

立ち並びます。 御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥之院があります。

一番奥には空海が今も瞑想しているとされる御廟があります。 空海は62歳の時、座禅を組み、手には

大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じる人も多くいます。

「死去」・「入寂」などとは言わず入定というのは、そのためであります。

 

・御廟

空海が入定された地。 御廟の裏側、北西の壁面の下部には直径20cm の穴が設けられています。

衆生救済のために、各地に顕現される空海の御廟の出入り口とされています。

・灯籠堂

現在のは1964年(昭和39年)建立。 消えずの火と全国から奉納された灯籠が灯り、

廻向や祈祷をしてもらえます。また、地下には入定する空海のいちばん近くまで行ける法場があります。

そして、灯籠堂の裏側中央には御廟を参拝する場所あり、ここに来たすべての人々はここで祈りを捧げ読経

します。

 

・御廟の橋

玉川にかかる橋です。弘法大師信仰の中心聖地であり、御廟橋より先は聖域であり、写真撮影は禁止、

橋の手前で服装を正し、脱帽・一礼して渡る事がしきたりとなっています。

 

 

・六時の鐘

金剛峯寺の西側に位置するこの鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提(ついふくぼだい)を祈って、

1618年(元和4年)に建立されたものです。

現在でも午前6時~午後10時まで偶数時に時刻を知らせています。

   (和歌山県高野山観光ナビより)

 

・新 緑

 あまりにも美しいと感じシャッターを切りました。

・高野槙

 高野山を中心に仏に供える花の代用として用いられており、名前もこれに由来します。

 2006年(平成18年)9月6日に誕生された秋篠宮家悠仁親王の御印でもあります。

・御朱印

    

 

まだ、参拝出来ていない寺院等はまたの機会に訪れたいと思います。

・女人堂

高野山は古来から女人禁制の場所で知られ、女性の信徒がこの女人堂へこもり、

現在の「弘法大師御廟」へ向かい、祈りを捧げました。

・徳川家霊台(とくがわけれいだい)

 1643年(寛永20年)三大将軍家光が建立しました江戸時代の代表的な建築物です。

・蓮華定院(れんげじょういん)

  真田家の菩提寺。

・苅萱堂(かるかやどう)

  苅萱道心と石道丸の秘話が伝わるお堂。

・金剛三昧院(こんごうざんまいいん)

  尼将軍 北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立された寺院。


京都洛西を歩く

2018年04月08日 | 日記

 

今回は、京都洛西の世界遺産を巡ってみます。               

多くの外国観光客がみられます。  観光ポイントによっては大変混雑していて、人の映らない写真を撮るのに大変なくらいでした。

 

きぬかけの路

以前は、観光道路と呼ばれていましたが、平成3年「きぬかけの路推進協議会」が発起人となり愛称を公募。その結果、宇多天皇が真夏に雪見をするために、衣笠山(別名きぬかけ山)に絹を掛けたと伝えられる故事にちなみ「きぬかけの路」と命名されました。 衣笠山のふもとに沿って、金閣寺から始まり石庭で有名な龍安寺を経て御室の仁和寺に至り嵯峨野、嵐山へと続く道です。

金閣寺からは、きぬかけの路を歩いて龍安寺に向かいましたが、途中の立命館大学衣笠キャンバス前からはなだらかな上り坂で龍安寺近くからは下り坂になっていました。  道路は観光バス・タクシー・自家用車の往来が多くあり、余り情緒が無いように感じながら、細い歩道を20分ほど歩きました。

そこからは、同じく徒歩にて仁和寺・蓮華寺・妙心寺を訪ねました。

 

★世界遺産 金閣寺(きんかくじ)

 

  アニメ一休さんの「将軍さま」こと、室町幕府3代将軍 足利義満が1398年に建てたお釈迦様の舎利(遺骨)を祀った舎利殿「金閣」が特に知られ、金閣寺と呼ばれています、正しくは「鹿苑寺」と言い、臨済宗相国寺の禅宗で、室町時代を代表する建築の一つであります。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したといわれ後小松天皇(一休禅師の父)をお招きされた様です。  当時は京都御苑に四敵する敷地があり、日本の政治機能が集約されていました。  昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建されました。

 西の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で国の特別史跡および特別名勝に指定されています。

  鹿苑寺全景

 

  

  金閣寺ー入苑券

  

   金閣寺ー御朱印

★世界遺産 龍安寺(りょうあんじ)

 徳大寺家の別荘だったのを宝徳2年(1450年)室町幕府の有力者であった細川勝元が譲り受けて寺地とし、

妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を開山として創建された禅寺。

 応仁の乱にて焼失して、明応8年(1499年)、勝元の子政元が再興し最盛時には、塔頭を二十三ほど数えるほど栄えた。

 しかし、寛政9年(1797年)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。  

 現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したもので、前庭は枯山水の石庭として著名で臨済宗妙心寺派に属し、

 大雲山と号し禅苑の名刹であります。

 今では枯山水の石庭で世界的に知られていますが、ここまで有名になったのは1975年に英国エリザベス2世が龍安寺を

 公式訪問した際に石庭を称賛したのがきっかけです。

 当時のブームの後押しもあって世界的にブレイクしました。

 

       鏡容池  

徳大寺家によって作られたものです。

    龍安寺ー御朱印

★世界遺産 仁和寺(にんなじ)

 平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。 

仁和4年(888年)に第59代宇多天皇によって創建。 御室御所(おむろごしょ)という別名の通り皇室と縁が深く、

明治期まで皇族が住職を務めた格式高い寺院です。  その面影を残す「御殿」の宮廷風建築は一番の見どころ。

 霊明殿(れいめいでん)は、御殿内の唯一の仏堂で、仁和寺歴代門跡の尊碑が安置されていて明治43年(1910年)起工翌年竣工しました。

 本尊は「薬師如来坐像」、秘仏で有ったため実態が不明でしたが、昭和63年(1988年)の調査で貴重なもので有ることがわかり平成元年6月

 に重要文化財に指定つづいて翌年6月には国宝に指定されました。

 京都一の遅咲きと言われる仁和寺の御室桜(おむろさくら)は4月中旬から下旬が見ごろ。 紅葉の名所としても有名です。 

 真言宗御室派の総本山で有ります。

 

 

      二王門  

縦横文化財 仁和寺の正面に建つ巨大な門、門正面には阿吽の二王像、背面には唐獅子像が安置されています。 

   白書院より南庭を望む

   宸殿より北庭を望む  

  上層から下層にかけて各層にあまり差がみられない姿が特徴の五重塔(重要文化財)がみられます。

    仁和寺 桜    満開でした

     仁和寺ー御朱印

 

★妙心寺(みょうしんじ)

  臨済宗妙心寺派3400寺の総本山にして日本最大の禅寺。 山内は、石畳で結ばれた一つの寺町を形作っており、

 46もの塔頭があります。その寺院の中でも退蔵院は、今から600年以上前、応永11年(1404年)に建立された山内指折りの古刹です。

 方丈(本堂)には、当院開祖である無因宗因禅師(妙心寺大三世)がお祀りされています。

 方丈の庭園は、狩野元信の作として世に知られ、室町時代を代表する枯山水庭園で、三尊石・亀石などの配置がなされている。  

 大徳寺と並び修行と戒律を重んじる硬派な禅寺として知られ、托鉢修行に励む雲水さんの姿を見ることができます。 

 もとは第95代花園天皇の離宮であったが、出家にあたって1337年に禅寺に改められました。

 法堂天井の雲龍図、通称「八方にらみの龍」は狩野探幽が8年かけて描きあげた大作があります。

今回は、時間の都合にて鑑賞することができませんでした。

 

    妙心寺ー山門

     妙心寺ーしだれ桜

  

  寺宝の瓢鮎図(ひょうねんず)(国宝)は我が国水墨画の祖とされる如拙の筆で、室町時代の代表作といわれる貴重な作品であります。

 

  応仁の乱後、1597年に再建された方丈(本堂) 禅と剣の道には精神的な共通点があり、江戸時代には、

剣豪・宮本武蔵も修行に励んだと伝わっています

室町期の画聖・狩野元信が作庭した枯山水庭園

白砂と石組で表現された禅庭の観念的な世界を醸し出しています

  

  妙心寺山内退蔵院ー御朱印

★五智蓮華寺(ごちざんれんげじ)

 仁和寺の東側に隣接しています。 

1057年藤原康基が、後冷泉天皇の御願により建立。その後、応仁の乱の兵火にあい、長い間荒廃が続いたが、

1641年江戸の豪商樋口平太夫家次翁により伽藍堂宇が再建され、仁和寺の宮覚深法親王より改めて五智山蓮華寺の号が授けられました。 

真言宗御室派の別格本山。

近畿三十六不動尊霊場の第十五番目にあたります。

 

   

 現在の石仏は、五智不動尊の千余年の永きにわたり弘法大師初願のお守り不動としてその霊威を発揮し、今日まで

 脈絡として広く信仰を集めています。

 五智如来とは、五大如来とも呼び、大日如来を中心とし、宇宙そのものを象徴したもので、太陽のごとく万物を慈しみ、

 知恵と五穀豊穣の功徳を表しています。

大日如来を中心に、左から釈迦如来・阿弥陀仏如来、右から薬師如来、宝生如来の石仏が並んでいます。

    

 

       五智山蓮華寺ー御朱印

 

★★ 次回は京都東山を廻る予定です!