歴史薫るまちへの散歩!

歴史を感じるまちへ、散歩に出かけた時の内容を、書き留めています。

紀州徳川ゆかりの地 和歌山(2)

2017年10月10日 | 日記

和歌山(2)

  和歌山を2回に分けてUPすることにしました。 これは、2日目です。

 ・本願寺鷺森別院(雑賀衆ゆかりの地)(さいがしゅう)

 浄土真宗本願寺派の別院。第8代蓮如上人が紀伊国冷水浦(海南市)に下向され、本願寺の勢力は飛躍的に拡大しました。雑賀荘宇治卿鷺森の「雑賀御坊」が現在の鷺森別院であり、雑賀門徒の拠点でありました。

 平成二年(1990)春、別院ゆかりの顕如上人四百回忌を厳修しその記念事業として平成6年(1994)10月に完成したのが、現在の堂宇です。

 

 

・根来寺(根来衆ゆかりの地)(ねごろじ)

 

  根来寺は、長承元(1132)高野山に開かれた大伝法院を始まりとする新義真言宗の総本山です。開祖・興教大師覚鑁(かくばん)上人で当時の高野山は衰退期を迎えていたので弘法大師の真言密教を正し伝法会の再興を成し遂げたが、高野衆徒との間に不和を生じ、末寺・豊福寺がある根来に移り康治2年(1143)49歳の生涯を閉じられました。

 戦国時代の根来寺は、「戦闘」が本業になった僧兵を持ち、寺自体も一大城郭でありました。 種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器の鉄砲をいち早く取り入れた根来寺は強大な武装勢力でありました。天正13年、豊臣秀吉が根来寺の焼き討ちを行ったので一部の建物を残して壊滅してしまいました。

     大伝法堂への石段

       鉄砲玉の跡?

 

  奥之院の手前にある石橋までは左右に墓石が立ち並んでいます。

石橋を超えると御廟所があり高野山の奥之院の造りと似ています。

   奥之院 

新義真言宗の宗祖覚鑁上人のご廟所

 

 

・粉河寺(粉河衆ゆかりの地)(こかわじ)

  宝亀元年(707)大伴孔子古(おおとものくじこ)によって開創され、風猛山粉河寺と称されたが天正13年(1585)豊臣秀吉の兵乱にあい堂塔伽藍も焼土と化し多くの寺宝が焼失したがその後、紀州徳川家の保護や信徒の寄進により徳川時代中期に現在の諸堂が完成されました。  独立勢力が割拠した戦国の紀州、戦国屈指の鉄砲軍団を擁した雑賀衆をはじめとした紀州の国人衆は主従関係を結ばず有力な社寺は根来衆や粉河衆といった自衛の兵を持ち、中央勢力の干渉を許さなかったのです。

これらの衆は、織田信長、豊臣秀吉からの紀州攻めにあい、紀州の勢力同士が争うこともあり大きくその力を削がれることになりました。

    中門(重文) 江戸時代

  風猛山(ふうもうざん)の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝(はるとみ)候の直筆です。

  粉河寺庭園 桃山時代の石庭(国指定名勝)

        粉河寺本堂

   奈良時代宝亀元年(770)の創立で、現在のものは享保5年(1720)に再建された

      江戸時代中期の寺院建築の代表的建造物です。

    法華塔

右)紀州八代藩主重倫(重倫)卿側室 於八百(おやほ)

中)水戸少将治紀(はるとし)卿正室 方姫(みちひめ)

左)重倫今日付 老女 初島(はつしま)

 粉河寺薬師堂 石造地蔵菩薩立像 永禄7年(1564)(市指定文化財)

 

     粉河寺 大 門(重文) 

建立は明らかではないが宝永4年(1706)の刻銘が各鬼瓦に見られ様式上、このころの建立と考えられる。

総欅造りで雄大な江戸時代中期の建物であります

       ・華岡青洲の里

 近くに青洲の里がありますので寄ってみました。

 華岡青洲(はなおかせいしゅう)は母と妻の献身的な協力の下、マンダラゲを主成分とする麻酔薬

「通仙散「(つうせんさん)を完成させ、文化元年(1804)世界初の全身麻酔による乳がん摘出手術

に成功し、華岡流医術は全国各地に広がり、我が国における外科医学の発展に多大なる功績を残すこと

となりました。

   春林軒(しゅんりんけん)

 建物主屋は紀の川市の文化財に指定されています。 

内部は青洲が活躍した当時の様子がリアルに再現されています。

  乳がんの腫瘍摘出手術の模様

      薬 棚

 

   紀州徳川家ゆかりの地を2回に分けてプログにUPしました。

 

次に訪れる地は、京都東山区に点在する豊臣秀吉ゆかりの場所に行って、

プログに掲載したく思っています。  

 


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