歴史薫るまちへの散歩!

歴史を感じるまちへ、散歩に出かけた時の内容を、書き留めています。

修学院離宮

2016年12月24日 | 日記

 秋晴れの下、離宮見学の許可書を持って、見学に行きました。

受付で「許可書」と身分証明の照合チェックがあり、無事に参観者休所から職員の方の

案内で見学をしました。

修学院離宮は、桂離宮に遅れること30余年、明暦元年から2年(西暦1655~1656年)

にかけて後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)によって造営工事が起こされ、万治2年

(1659年)頃に完成した山荘であります。上皇の第八皇女光子(てるこ)内親王(朱宮

(あけのみや))のために建てられた山荘に女院(じょいん)御所の一部を移築して拡張

されこれを林丘寺(りんきゅうじ)となされ、明治18年(1855年)林丘寺門跡から境内

の半分が楽只軒(らくしけん)、客殿(きゃくでん)と共に宮内庁に返還され、宮内庁に

編入されました。 昭和39年(1964年)上・中・下の各離宮の間に展開する8万㎡に及ぶ

水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保持の備えにも万全を期して今日に至っている。

 叡山(比叡山)の麓、東山連峰の山すそに造られた修学院離宮は、上・中・下の3つの

離宮(御茶屋)からなっています。

下離宮

御幸門を入って袖形灯篭・朝鮮灯篭を配した苑路を上がると寿月観(じゅげつかん)に出ます。

   御幸門

 

     袖形灯篭    苔がびっしりと生え綺麗です。

 寿月観

    

  一の間に架かる「寿月観」の扁額は後水尾上皇の宸筆(しんぴつ)であります。 

建物は柿葺入母屋数寄屋風造りとなっており文政年間に旧規に再興されたもので有ります。

 

  中離宮へと続く松並木

 

中離宮

 

  中離宮の庭園

楽只軒(らくしけん)

  光子内親王のための最初の建物で有り質素であるが趣のある御殿であり

手前六畳は一の間で吉野山の桜が描かれ、奥の間は二の間で龍田川の紅葉が描かれています。

 筆者はともに狩野探信(かのうたんしん)(探幽の子)だそうです。

 

客殿

 楽只軒の東南の高みに階段でつながれた客殿があります。 延宝6年(1678年)東福門院が

亡くなられてた後、天和(てんな)2年(1682年)光子内親王のためにジョイン御所の奥対面所

から移築されたもので、入母屋造りの木賊葺(とくさぶき)の廂(ひさし)の深い屋根を持っています。

 

 

狩野敦信(かのうあつのぶ)と言われている祇園祭り鉾の絵。

 

 筆者不詳であるが、鯉の絵の網だけは円山応挙(まるやまおうきょ)の筆と伝えられています。

 

 

 互い違いに配された大小15枚の棚板がいかにも霞がたなびいているように見えることから

霞棚と呼ばれ、桂離宮の桂棚、三宝院の醍醐棚と共に天下の三棚と称されています。

上離宮

  

  御成門

隣雲亭(りんうんてい)

 浴龍池

中離宮から松並木路から御成門を入り急な石段を登りつめると隣雲亭があります。

隣雲亭から振り向くと浴龍池と洛北の山々が見渡せる高台にあります。

  窮邃亭(きゅうすいてい)

木橋の楓橋を渡ると中島頂上に茶屋窮邃亭があります。 

創建当時の建物で現存する唯一のものです。

 

    窮邃の扁額は後水尾上皇の宸筆です

 

 千歳橋と呼ばれる石橋

窮邃亭のある中島と浴龍池の中島とをつないで架けられています。

 

浴龍池(よくりゅうち)

 御船遊びの場であり、島々を廻りながら管弦や詩歌の会などが行われていました。

 船着き場

庭園内は上り下りがあり約3Kmを歩きます。 雨の日には滑りやすくなっていますので

気を付けなくてはいけませんが、見学当日は雨が降らないことを願うしかありません。

 近くには(徒歩約20分)洛北屈指の名刹のある曼殊院門跡があり、皇族関係者が参拝に

訪れておられる様です。 そこから約20分に詩仙堂がありここの唐様庭園が代表的な名園です。

現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺であります。 五月下旬の「さつき」、十一月下旬の紅葉等

が素晴らしいです。 

そして隣り合わせに宮本武蔵が吉岡一門と「一乗寺下り松の戦」の前にこの神社に立ち寄った縁から下り松の古木が本殿横に保存されている八大神社があります。

 曼殊院門跡から詩仙堂に向かう途中、行先を訪ねた親切な人から声をかけられ、車に乗せて頂き一乗寺下り松の所まで送っていただきました。

 ありがとうございました。助かりました。

詩仙堂から帰る途中に、徳川家康ゆかりの瑞巌山圓光寺があり紅葉の名所でも知られています。

下り坂歩くこと約15分ぐらい叡山鉄道一乗寺駅に着き薄暗くなってきたので帰宅することになりました。