歴史薫るまちへの散歩!

歴史を感じるまちへ、散歩に出かけた時の内容を、書き留めています。

日本遺産 「祈る皇女 斎王のみやこ 斎宮」

2019年08月01日 | 日記

日本遺産

 「祈る皇女 斎王のみやこ 斎宮」

高度経済成長期には、明野原台地(三重県多気郡明和町)の西縁部で大規模な宅地造成計画が持ち上がり、開発事業に先立って、古里遺跡の確認調査が実施されました。

大型の建物を含む奈良時代と鎌倉時代の大溝、陶器等が数多く発見され、斎宮との関連が注目されました。  発掘調査成果の重要性に地元関係者・団体による遺跡保存運動が活発化し、県・町教育員会が主体となって、国史跡指定に向けた地権者への説明がなされ、これらの保存活動により、1979年(昭和54年3月27日)に国の史跡に指定されました。

日本遺産・・・それは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリを認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に発信することにより、地域の活性化を図る制度であります。

今年は、年号改元にて「令和」になりましたので、天皇・伊勢神宮に仕えた未婚の皇女

「斎王」の宮殿が置かれた所に行ってみました。

場所は、三重県の近鉄電車、山田線、斎宮(さいくう)駅前に広がる斎宮跡です。

そこは、伊勢神宮から約15km離れた伊勢神宮領の入り口に作られました。

  復元された平安時代の方格地割道路

古代から中世にかけて、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた「斎王」の宮殿であります。

飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設であり、多数の建物跡が見つかっています。 天武天皇の娘で初代斎王とされる、大来皇女(おおくにのひめみこ)の就任に伴い造営されたとみられます。

斎王の代が変わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」などの記録や発掘の結果によると、基盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された都市であったことが分かってきました。 そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に分かれ、総数100棟以上の建物が立ち並んでいたと考えられます。

    斎宮寮の復元模型-1

    斎宮寮の復元模型-2

     正 殿

    西脇殿&東脇殿

中央集権国家の樹立を目指す天武天皇のもと,伊勢神宮祭祀(さいし)が整えられたことを物語る貴重な発見です。

現場は東西2キロ、南北0.7キロに及びます。 平城京や平安京はもちろん日本の「首都」であり「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府は、都から遠く離れた九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ「小政府」のようなものです。 斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王だけの都。 斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を合わせて500人を超える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりもはるかに大きな規模でした。

   斎宮歴史博物館

 

  斎宮跡のすべてが解る情報センター

参考資料:「読売新聞」、「斎宮歴史博物館」

斎王(さいおう)・・・・それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことであります。

歴史にみられる斎王制度は、天武二年(674年)、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくにのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まります。

御杖代とは、杖の代わりに神を案内するものだといわれています。

以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在しました。

 伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、多くの斎王の物語を伝えています。

「延喜式」によると斎宮では、正月元旦・7日・16日や5月5日、7月7日、9月9日と11月の新嘗祭には節会(せちえ)がおこなわれており、年中行事や儀式を大切にする平安宮にならった生活が見られたようです。

制度が確立して以降の斎王は、亀卜(亀の甲を火で焙ってできたひびで判断する卜占)卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴きました。  この旅は斎王にとって神に近づく禊の旅であり聖なる神領の入り口に流れる川、秡川で斎王は最後の禊を行い、斎宮に入ります。 斎王、その任が解かれるのは、主に天皇が変わったときのみ。 年に三度(9月の神嘗祭(にいなめのまつり)、6月、12月の月次祭(つきなみのまつり))、9月の神嘗祭に奉仕するため、8月に身を清めたといわれている尾野湊御禊場跡が大淀海岸に残っています。伊勢神宮に赴く以外は、ほとんど斎宮で祈りの日々を過ごしながら、神と人との懸け橋になっていました。

葱華輦(そうかれん) 

斎王の居室

斎王の群行と退下

斎王の解任(退下)は天皇の譲位、死去、近親者の喪などによるとされ、帰路は天皇譲位の時は群行路をたどり、その他凶事の時は同じ路をたどることはできないとされていました。

  斎王の行程(群行)

退下後の斎王

 退下後の全斎王のその後はごく数人を除いてあまり知られていません。 律令制では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られるため、奈良時代までは退下後の前斎王が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであり、平安時代以降も内親王で臣下に降嫁したのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人であり、多くの斎王は生涯独身だったとも思われます。

斎宮の終焉

 平安時代末期になると、源平合戦の混乱で斎宮は一時途絶します。

その後復活しましたが、鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちになり、後深草天皇(ごふかくさてんのう)と亀山天皇の兄弟により、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂してからは、鎌倉幕府に依存を強める持明院統の歴代天皇においては斎王が置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎王祥子(さちこ)内親王(後醍醐天皇皇女)が群行せず、斎王制度は終わりの時を迎えました。

  1. 斎宮跡(さいくうあと

 天皇に代わり伊勢神宮に仕えた皇女・斎王の宮殿と斎宮寮と呼ばれた役所跡。

斎宮跡の終焉の実相は、いまだ明確化には至っていない様です。

斎宮跡-1

斎宮跡-2

2. 斎王の森(さいおうのもり)

斎王の宮殿があったと語り継がれ、斎宮のシンボル的な森として、地元の人々により守られてきました。

斎王の森-1

斎王の森-2

  1. 3. 竹神社(野々宮)(たけじんじゃ ののみや)

   明治44年(1911年)斎宮村にあった25社の神を合祀し、野々宮が祀られていた現在地が境内となりました。 

   周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱の跡が発掘され、斎宮の中枢である内院があった場所ではないかといわれています。

 

   竹神社(野々宮)-1

  竹神社(野々宮)-2

竹神社(野々宮)-3

野々宮神社・・・・京都市右京区嵯峨野にある神社。 

天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。

斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子(さちこ)内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していましたが、度重なる戦乱の中で衰退しました。

後に後奈良天皇(ごならてんのう)、中御門天皇(なかみかどてんのう)らの論旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受けています。

   

京都嵯峨野 野々宮神社-1

京都嵯峨野 野々宮神社-2

京都嵯峨野 野々宮神社-3

4. 隆子女王の墓(たかこじょうおうのはか)

  斎宮で亡くなられた斎王、隆子女王(たかこじょおう)の墓。 隆子女王は後醍醐天皇の孫女であり天延二年(974年)にわずか3年の在位で病死されこの地に埋葬され、宮内庁が管理を行い、清楚な雰囲気が漂います。

 

隆子女王の墓-1

隆子女王の墓-2

隆子女王の墓-3

  1. 5. カケチカラ発祥の地(カケチカラはっしょうのち)

斎王・倭姫命(やまとひめのみこと)と真名鶴伝説が由来。神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸け、国の永遠の繁栄を祈る懸税(かけちから)行事の発祥の地とされ、記念碑が建てられています。

    カケチカラ発祥の地-1

   カケチカラ発祥の地-2

   カケチカラ発祥の地-3

  1. 6. 斎王尾野湊御禊場跡(さいおうおののみなとおんみそぎばあと)

尾野湊とは、大淀海岸の古名。 斎王が毎年9月に伊勢神宮で行われる「新嘗祭」に奉仕するため8月毎日、禊を行って身を清めた場所といわれています。

   斎王尾野湊御禊場跡-1

   尾野湊御禊場跡-2

碑文の処までは、雑草が生い茂り近づく事ができませんでした。

 目の前に、大淀海岸があります。

  1. 7. 大淀(おおよど)

 倭姫命が天照大神の鎮座場所を探し求め、この地にたどり着き命名。

古代の多くの歌に「枕詞」として使われた景勝地であります。

    大淀海岸

10.栗須美神社跡

弘仁年間(820年ごろ)嵯峨天皇が斎王に大已貴名(おおあなむちのみこと)を祀り鎮守の神社とするよう命ぜられたので鎮守台とも言いました。 

天正11年(1583年)1月10日兵乱の後、里人がこれを産土神として敬いました。

現在、氏神のあったところに石碑を建て、伊勢神宮の遥拝所としています。

   栗須美神社跡-1

   栗須美神社跡-2

 明和町 斎宮跡・文化観光課の資料を参考にしています。