歴史薫るまちへの散歩!

歴史を感じるまちへ、散歩に出かけた時の内容を、書き留めています。

北斎ゆかりの地小布施・加賀前田家ゆかりの地高岡を訪ねる

2017年12月04日 | 日記

 北信(小布施・長野市内)へ

 

まずは、信州の北側にある北信小布施と長野市内のえびす講煙火大会へぶらり

 小布施

 11月23日は観光客で大いなる賑わいで、どの甘味処(栗)でも待ち行列が出来ていました。

 北斎館

  信州・小布施は江戸の浮世絵師・葛飾北斎が晩年に逗留し、画業の集大成を図った特別な場所。北斎は80代半ば、地元の豪農商・高井鴻山の庇護の下に、岩町院や東町・上町祭屋台の天井絵を描きました。 北斎館は、これら天井絵のある二基の祭屋台と、長く大切に受け継がれてきた肉筆画をもって、昭和51年(1976年)11月に開館されたと記されています。40周年を目前に新築増館を実施2015年4月にリニューアルされワンフロアに展示、映像でも北斎の魅力が解説されています。

 

 

   葛飾北斎- かれい、めばる、さより

   

 東町祭屋台の「鳳凰」「龍」は天保15(1844)北斎85歳の時の作品です。

 

 

上町祭屋台の「女波」「男波」の怒涛図は弘化2(1845)年北支86歳の作品です。

 これらは写真撮影禁止のため、パンフレットより引用しました。

 

 栗の小径(下にひき詰めてあるのが栗の木です)

 

岩松院

 開創は文明4年(1479年)雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で開山は不琢玄珪師。本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で江戸時代初期の作だそうです。

 

     総ひのき造りの仁王門

   

  主に【本堂の大間天井絵「八方睨み鳳凰図」】、【福島正則の霊廟】【一茶と蛙合戦の池】があります

【本堂の大間天井絵「八方睨み鳳凰図」】

 赤色がふんだんに使われていて、娘お栄(葛飾応為)との合作ともいわれています。

     写真撮影は禁止であったため他より引用しました。

 

【福島正則の霊廟】

豊臣秀吉の重臣として賤ケ岳の戦いでは「七本槍の第一」と称せられ関ケ原の合戦でも勇名をはせ、49万8千石大大名になったが、元和5年(1619年)広島城の石垣修築が武家法度に触れたとして4万5千石に減封となり国替えをされた。松川の治水工事などに取り組んだが、悲運を嘆きつつ寛永元年(1624年)64歳で没しました。岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号を付けられました。霊廟は遺骨を埋葬してあります。

 

 【一茶と蛙合戦の池】

 メスの奪い合いのため一年のうち約5日間、昼夜の区別なく、蛙が入れ代わり立ち代り声を上げての戦いになるようです。 俳人小林一茶が合戦を見て「やせ蛙負けるな一茶これにあり」と詠まれたことは有名です。

 

 

えびす講煙火大会

 

澄んだ夜空に色鮮やかな冬花火

犀川が舞台、山々に響く音が大迫力

明治32年(1899年)から始まり、今年で118回を迎えた伝統の花火大会。

前日の雨で、河川敷の下はぬかるみ足元が悪かったが、風もなく比較寒さには耐えられた。しかし花火にとっては無風は煙幕が一か所に留まり見えずらくなり、一時中断した場面も見られました。

 

 

 

 

北信から高岡へ

 

途中、雨・雹・雪に見舞われましたが、順調に高岡へ到着しました。

天候不順であり加賀藩ゆかりの地の見所は多くあるでしょうが今回は3か所のみに終わりました

高岡大仏(高岡市指定文化財)

 奈良、鎌倉と並んで日本三大仏に数えられています。

 

 高岡大仏伝統ある高岡の鋳仏技術を集め、30年の歳月をかけて、昭和8年(1933年)に完成しました。   顔立ちのいいことでは日本一の大仏様と言われています。

 

   

 

瑞龍寺(国宝指定)

 曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀二代藩主前田利長公の菩提をとむらうため三代藩主利常公によって建立された寺で有ります。

 造営は正保年間から利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要しました。 平成9年12月3日、山門、仏門、報道が国宝に指定され、総門、禅堂、大庫裏、回廊、大茶堂が国の重要文化財に指定されていて、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されています。

 

   瑞龍寺-総門(重要文化財) 正面三間の薬医門形式で生保年間の建立

 

     瑞龍寺―山門(改修中)

 

      瑞龍寺-仏殿(国宝) 万治二年(1659)に建立されました

  御本尊として、中国時代の釈迦、文殊、普賢の三尊が祀られています。

 

     前田家家紋

 

   瑞龍寺-大庫裏(重要文化財) 調理配膳や事務運営を行う堂。

 

    瑞龍寺-禅堂(重要文化財) 座禅修行する建物であるが、座禅だけではなく、食事、睡眠もとれる生活空間であります。

 

 瑞龍寺-法堂 (国宝) 明暦年間(1655~1657)の竣工になる。境内第一の大建築にて総檜造りとなっています。 

 

前田利長墓所

 加賀藩二代藩主利長公は関野に新しい城を築き、街づくりを進めて「高岡」と命名、この地で他界されました。  加賀藩主前田家墓所は、高岡市の前田利長墓所と金沢市の野田山前田家からなる近世大名家の墓所です。

前田利長墓所は慶長19年(1614)に53歳で生涯を閉じましたが、利長の33回忌に当たり、三代利常が造営したものです。 総面積は3万3千㎡(1万坪)と広大で大名個人墓所としては国内屈指の規模を誇ります。

 

 

 

 

二重の堀で囲まれた墓所中心部には幅15.5m、高さ5.0mの御廟=墳墓があり、その立面は狩野探幽下絵と伝承される130枚もの蓮華図文様が彫刻され、荘厳な印象を与えます。

   冬場の日本海側の天候は雨もしくは雪の日が多く、晴れの日が多い春時に訪れ、歩いて行ける加賀藩ゆかりの地であります高岡の見所を巡りたいものです。 


紀州徳川ゆかりの地 和歌山(2)

2017年10月10日 | 日記

和歌山(2)

  和歌山を2回に分けてUPすることにしました。 これは、2日目です。

 ・本願寺鷺森別院(雑賀衆ゆかりの地)(さいがしゅう)

 浄土真宗本願寺派の別院。第8代蓮如上人が紀伊国冷水浦(海南市)に下向され、本願寺の勢力は飛躍的に拡大しました。雑賀荘宇治卿鷺森の「雑賀御坊」が現在の鷺森別院であり、雑賀門徒の拠点でありました。

 平成二年(1990)春、別院ゆかりの顕如上人四百回忌を厳修しその記念事業として平成6年(1994)10月に完成したのが、現在の堂宇です。

 

 

・根来寺(根来衆ゆかりの地)(ねごろじ)

 

  根来寺は、長承元(1132)高野山に開かれた大伝法院を始まりとする新義真言宗の総本山です。開祖・興教大師覚鑁(かくばん)上人で当時の高野山は衰退期を迎えていたので弘法大師の真言密教を正し伝法会の再興を成し遂げたが、高野衆徒との間に不和を生じ、末寺・豊福寺がある根来に移り康治2年(1143)49歳の生涯を閉じられました。

 戦国時代の根来寺は、「戦闘」が本業になった僧兵を持ち、寺自体も一大城郭でありました。 種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器の鉄砲をいち早く取り入れた根来寺は強大な武装勢力でありました。天正13年、豊臣秀吉が根来寺の焼き討ちを行ったので一部の建物を残して壊滅してしまいました。

     大伝法堂への石段

       鉄砲玉の跡?

 

  奥之院の手前にある石橋までは左右に墓石が立ち並んでいます。

石橋を超えると御廟所があり高野山の奥之院の造りと似ています。

   奥之院 

新義真言宗の宗祖覚鑁上人のご廟所

 

 

・粉河寺(粉河衆ゆかりの地)(こかわじ)

  宝亀元年(707)大伴孔子古(おおとものくじこ)によって開創され、風猛山粉河寺と称されたが天正13年(1585)豊臣秀吉の兵乱にあい堂塔伽藍も焼土と化し多くの寺宝が焼失したがその後、紀州徳川家の保護や信徒の寄進により徳川時代中期に現在の諸堂が完成されました。  独立勢力が割拠した戦国の紀州、戦国屈指の鉄砲軍団を擁した雑賀衆をはじめとした紀州の国人衆は主従関係を結ばず有力な社寺は根来衆や粉河衆といった自衛の兵を持ち、中央勢力の干渉を許さなかったのです。

これらの衆は、織田信長、豊臣秀吉からの紀州攻めにあい、紀州の勢力同士が争うこともあり大きくその力を削がれることになりました。

    中門(重文) 江戸時代

  風猛山(ふうもうざん)の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝(はるとみ)候の直筆です。

  粉河寺庭園 桃山時代の石庭(国指定名勝)

        粉河寺本堂

   奈良時代宝亀元年(770)の創立で、現在のものは享保5年(1720)に再建された

      江戸時代中期の寺院建築の代表的建造物です。

    法華塔

右)紀州八代藩主重倫(重倫)卿側室 於八百(おやほ)

中)水戸少将治紀(はるとし)卿正室 方姫(みちひめ)

左)重倫今日付 老女 初島(はつしま)

 粉河寺薬師堂 石造地蔵菩薩立像 永禄7年(1564)(市指定文化財)

 

     粉河寺 大 門(重文) 

建立は明らかではないが宝永4年(1706)の刻銘が各鬼瓦に見られ様式上、このころの建立と考えられる。

総欅造りで雄大な江戸時代中期の建物であります

       ・華岡青洲の里

 近くに青洲の里がありますので寄ってみました。

 華岡青洲(はなおかせいしゅう)は母と妻の献身的な協力の下、マンダラゲを主成分とする麻酔薬

「通仙散「(つうせんさん)を完成させ、文化元年(1804)世界初の全身麻酔による乳がん摘出手術

に成功し、華岡流医術は全国各地に広がり、我が国における外科医学の発展に多大なる功績を残すこと

となりました。

   春林軒(しゅんりんけん)

 建物主屋は紀の川市の文化財に指定されています。 

内部は青洲が活躍した当時の様子がリアルに再現されています。

  乳がんの腫瘍摘出手術の模様

      薬 棚

 

   紀州徳川家ゆかりの地を2回に分けてプログにUPしました。

 

次に訪れる地は、京都東山区に点在する豊臣秀吉ゆかりの場所に行って、

プログに掲載したく思っています。  

 


紀州徳川ゆかりの地 和歌山(1)

2017年10月09日 | 日記

和歌山(1)

今回は、真田信繁(幸村)の宿敵とされ戦乱の世に終止符を打ち西国支配の拠点とした尾張、水戸と並ぶ御三家、紀州徳川家の地であります。 歴史を持った徳川家ゆかりの地が他にも多く有りますが紀州徳川家の一部分を、紹介したいと思います。

 

・和歌山城(紀州徳川家が治めた西国支配の拠点)

 天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりで、その築城を担当したのが築城の名人「藤堂高虎」でした。  秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600年)には、浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして元和5年(1619年)徳川頼宜(とくがわよりのぶ)が入城し紀州55万石の城となり、水戸・尾張と並び徳川御三家のひとつとして、長い歴史を歩んできました。

 

    岡口門(重文)

 

 

  連立式天守であり、弘化3(1846)落雷で焼失後、御三家ということで特別に築城を認められ嘉永(かえい)3年(1850)にほぼ元のまま再建され昭和10(1935)国宝に指定されるも昭和2079日の和歌山大空襲で焼失。  戦後市民からの要望もあり、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで復元されました。

    二の門櫓

御橋廊下は、殿様とお付けの人、奥女中が二の丸と西の丸を行き来するためにかけられた徳川期の橋です。外から見えないように壁と屋根が設け られ、部屋のような造りになっていて、斜めにかかる廊下としては全国的には珍しい様です。 平成18年(2006)3月に復元されました。

  御橋廊下の内部で斜めになって、土足厳禁で歩くと滑りそうで滑り止めがありますが、それに当たり足が痛かったですね。

 和歌山城西の丸庭園(紅葉渓庭園)(もみじだにていえん)入り口

  和歌山城と御橋廊下

 

・紀州東照宮(関西の日光)

   徳川頼宜が南海道の総鎮護として創建された社殿は「関西の日光」とも 呼ばれ、権現造りとなっています。

 

        紀州東照宮の入り口にある石鳥居

 

 

  長い階段下から見える楼門

       楼 門

  

唐門が見えますその奥が拝殿・本殿となっています

   拝殿の奥に本殿があります

 

・長保寺(紀州徳川家の菩提寺)

 戦国時代は衰退していたが、寛文6年(1666年)に初代の紀州藩主徳川頼宜が長法寺を菩提寺と決めて以来、紀州徳川家の廟所となり栄えました。背後の山の斜面に約1万坪の広大な藩主廟所が造営されいます。 宗旨は天台宗です。

                  長保持大門(国宝)

 後小松天皇勅宣を受けて寺僧実然が嘉慶2年(1388)に再建したものです。

                                    廟所入り口

  初代頼宜卿から十五代頼倫(よりみち)卿と七代夫人 伏見宮、七代夫人一条家、十代夫人種姫(たねひめ)、十一代夫人豊姫(とよひめ)、十二代夫人近衛家の廟所があります。 五代藩主吉宗(後の八代将軍)と十三代藩主慶福(よしとみ)(後の十四代将軍家茂(いえもち)は江戸に廟所があります)

           初代 頼宜(よりのぶ)卿 

           徳川家康公第十子

 元和五年(1619)駿河より紀州入国藩祖となられます。享年70歳

 

        観海閣・不老橋の近くに玉津島神社があります。

徳川頼宜公が寄進した石燈籠が左右一基ずつあります。

稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめ)の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀されてる。

古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになります。

社伝によれば、仲哀天皇皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるといわれています。

 

 

・観海閣(かんかいかく)(水上桜閣)

徳川頼宜が慶安年間(1648~1652)に木造の水上桜閣として建立 したもので、対岸の紀三井寺と対面しています。 時の建物は昭和36年に第二室戸台風で流失し、現在はコンクリートで再現されたものです。

 

                  観海閣の内部

 

          海禅院多宝塔(観海閣から真後ろの妹背山にあります)

 

 慶安二年(1649年)、初代藩主徳川頼宜の生母養珠院(お万の方)が亡父家康の33回忌追善供養の時に法華経題目を妹背山に埋納したのち承応二年(1653)養珠院が亡くなり頼宜が母を弔うために多宝塔を改建し、観海閣に渡橋するために三断橋が架けられました。

 

 

三断橋 3つの橋が見にくいかも知れません。

海禅院多宝塔より紀三井寺を見たところです。

 

・不老橋(ふろうばし)(和歌山市指定文化財のアーチ状石橋)

 片男波松原にあった東照宮御旅所の移築に際して紀州藩主であった徳川治 宝(はるとみ)の命により、嘉永3年(1850年)に着工し翌年4年(1851年)に完成したアーチ型の石橋です。 この橋は、徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の時に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「お成り道」に架けられたものです。  橋台のアーチ部分は、肥後熊本の石工集団の施工であり江戸時代のアーチ型石橋は、九州以外では大変珍しい様です。

 

 

 

 

 

 

    徳川家家系図


斑鳩の里

2017年05月22日 | 日記

                      斑鳩の里 

推古天皇の時代に摂政として聖徳太子が斑鳩宮を築き、飛鳥の宮殿から移り住んだ里、

斑鳩を歩いてみました。

 聖徳太子が創建した世界で一番古い木造建築の法隆寺を中心に広がる山里の散歩です。

藤ノ木古墳

 6世気後半の円墳で、1988年等の調査により家形石棺や豪華な副葬品等が

発掘されました。 史跡公園として整備されガラス越しに覗く事が出来

家形石棺のレプリカを「斑鳩文化財センター」に展示されています。

 訪れた水曜日の当日は休館日だったので、さく越えで写真を撮りました。

 

 

 

  藤ノ木古墳の説明板

    内部をガラス越しに見える箇所

  内部は暗いので人感センサーにて明かりが灯りますが

  それでも、少々暗かったので説明書きを引用しました。

 斑鳩文化財センターに展示されている石棺のレプリカ

龍田神社

 法隆寺の建立地を聖徳太子に指示したと言われる龍田大明神

を祀る神社で法隆寺の鎮守として栄えました。

 

 龍田神社の鳥居と珍しい鶏手水

 「金剛流発祥の地」の碑。

 古都に初夏の訪れを告げる伝統行事「薪御能(たきぎおのう)」が

奈良市の春日大社と興福寺で始まっています。

薪御能は平安時代、興福寺の法会「修二会(しゅにえ)」で奉納された

猿楽が由来です。

全国で行われる野外能の源流とされ、観世・宝生・金春・金剛の四流派が

競演しています。

法隆寺(世界遺産)

 推古天皇(607年)と聖徳太子が用明天皇(ようめいてんのう)

の意願を継いで607年(推古15年)に寺とその本尊「薬師如来」

を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも)であると伝えられている

古刹です。

金堂・五重塔・中門など世界最古の木造建築が並ぶ西院伽藍と夢殿

を中心とした東院伽藍に分かれています。

 

法隆寺南大門へ続く松並木 & 南大門 1438年再建の法隆寺表門【国宝】

 

西院伽藍の五重塔・金堂 中門は工事中 & 西院伽藍と東院伽藍を分ける東大門

 

 東院伽藍の中心ととなる夢殿

聖徳太子の斑鳩宮跡に、奈良時代に建てられた上宮王院本堂の八角円堂【国宝】

飛鳥仏の本尊救世観音立像が安置されているが、普段は行信像都坐像と道栓律

師坐像国宝】が拝見できました。

中宮寺(ちゅうぐうじ)

 聖徳太子の母・穴穂部間人皇后の発願で創建された古刹です。

飛鳥時代の本尊弥勒菩薩半跏像【国宝】が安置されています。

その脇には、天寿国曼荼羅繍帳【国宝】も拝見できました。

本堂の中では、中宮寺の由来・曼荼羅繍帳の説明案内もされていました。

中宮寺跡(ちゅうぐうじあと)

現在の中宮寺が元々有ったとされるその場所です。

現在は、整備作業が進んでいました。

 

 中宮寺跡への案内板 & 中宮寺跡 基礎石が見えます

  中宮寺跡 全景

法輪寺(ほうりんじ)

 聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が建立したと伝わる古刹。

当寺は法隆寺式伽藍配置であること、規模は法隆寺西院伽藍の三分の二であることが

1950年の発掘調査で明らかになりました。

 1975年再建の三重塔や金堂・講堂が建っています。

講堂で飛鳥後期本尊薬師如来坐像と虚空菩薩立像、平安期の十一面観音立像、

弥勒菩薩立像、吉祥天立像【いずれも重要文化財】などの宝物が拝見できました。

   

 1944年7月の落雷にて焼失 & 正面が講堂 左三重塔 右金堂

全国の沢山の方々の支援により1975年焼失前のの塔と同じ場所、同じ姿で

再建されました。 三重塔

法起寺(ほうきじ)【世界文化遺産】

 法起寺は岡本尼寺、岡本寺、池後寺(いけじりでら)、池後尼寺と呼ばれ

ています。  606年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に

改めたものと伝えられています。

法隆寺、四天王寺、中宮寺などとともに、太子建立七ヵ寺のひとつに数えられ

ています。  

 706年建立の三重塔【国宝】は三重塔として最大最古の三重塔。

収蔵庫には、平安時代の木造十一面観音立像【重要文化財】が安置され拝観

できました。

 

  法起寺の西門(入り口)& 現存する我が国最古の三重塔【国宝】

 

   池に咲いていた睡蓮 & 遠景の法起寺

参拝記念に頂いた各寺の御朱印です。

                                             

                             

  法隆寺・中宮寺・法起寺・法輪寺の御朱印

 

  行きは、JR法隆寺から各寺へは歩き、帰りは法隆寺前からJR法隆寺まではバスで

移動し、帰宅しました。


キトラ古墳壁画

2017年02月16日 | 日記

 キトラ古墳壁画の四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)のうちの「玄武」と獣頭人身十二支のうち「亥」、「子」、「丑」が限定で

見学できるとの情報を得ましたので、さっそく事前申し込みをして保存公開している館、四神の館(キトラ古墳壁画保存管理施設)へ

生憎の雨でしたが出かけて行きました。

 今回公開(第2回公開)される壁画についても、写真撮影が不可能でしたので、パンフレットから抜き出し、紹介していますので

ご覧いただければ幸いです。 

 事務局の了解を得ています。

尚、B1では撮影が可能でしたので、そのまま公開しています。

特別史跡 キトラ古墳

 キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・遺族などの墓域にある小円墳で、7世紀末~8世紀初頭ごろに造られたと考えられています。

石材は凝灰岩で、古墳から北西に約14Km離れた二上山から運ばれたものです。

石室内には、全面に漆喰が塗られ、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。

 1983年盗掘孔から石室内に入れられたファイバスコープにより、「玄武」の画像が発見されました。

2001年には新たに「朱雀」が確認されました。  2004年~2010年にかけ石室内の調査及び壁画の取り外しが行われ奈良県明日香村

の仮施設で修理されてきて、「玄武」については昨年12月に修理を終え「四神の館」に運び込まれ今回の公開となりました。

 

           

 B1にて古墳室内の様子を展示                          四神の館

 

     

   

 

 四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)は天の四方をつかさどる神獣で、四周の壁画に対応する方位に合わせて描かれています。

日本で四神の図像全てがそろう古墳壁画は、キトラ古墳壁画のみだといわれています。

四神が揃っての壁画公開はあったのかどうかは判りませんが、機会が有ればぜひ見たいものです。

 

   

 

       

 「子」は損傷が激しく、図に不鮮明な点があります 

  右手には両端には蕨手状(わらびてじょう)に丸くなった細長い赤い道具を持っているようです。

 「亥」は剥落が進み、ほとんど観察出来ない状態でした。

何せ、約1300年前の壁画ですから仕方ないのかも知れません。

 

 不鮮明で、ほとんど認識できませんが持っている道具は、鈎鑲(こうじょう)

    と呼ばれる棒状の盾であるとも言われています。 「子」の像にも同じ道具を持っているのがうっすらと読み取れます。

キトラ古墳についての説明が詳細に書かれています

  

                                 

  キトラ古墳復元模型と円形の部分が古墳です

 

キトラ古墳からは、多くの出土品が見つかり、一部盗掘により失ったものがあるかも知れませんが、推測でしかありません。

しかし金具・太刀などは正倉院の太刀にも四敵する優美なもので有ったと考えられています。  被葬者については、今だ誰なのか

解明は出来ていないようです。

キトラ古墳の近くには、古墳壁画が発見され話題になった「高松塚古墳」もあります。

今回の施設へ行くのには最寄りの壺阪山駅(つぼさかやまえき)からはバスかタクシーになり、バスの本数が極端に少ないので、今回は

雨が降っていましたので、タクシーで行く事にしました。  ワンメータで行く事ができました。

四神の館はいつでも無料で、展示品を見ることができます。

1300年前の技術と人々の思いについて触れてみては如何ですか?