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【2014年】 埼玉「狭山産の茶葉」からセシウム 【放射能】

2014-10-29 22:25:00 | ノンジャンル
八王子市民放射能測定室の検査結果によれば、
埼玉県「狭山産の茶葉」(2014年産)から
1キロあたり 55・1 ベクレルの放射性セシウムが検出されました。
内訳はセシウム134が 22・1 Bq/kg、セシウム137が 33・0 Bq/kgでした。

※ 使用測定器は ATOMTEX AT1320A。
※ 以下のファイルの測定番号「14102401」が当該検査結果です。

http://shokuhinkensa.blogspot.jp/2014/10/2014_29.html?m=1

え、ロシアの声って国営メディアだったの?

2014-10-25 15:32:00 | ノンジャンル
【悲報】エボラウイルスが中国へ上陸!陽性反応43人
→何故か報じた新華経済の記事が削除される
http://hamusoku.com/archives/8576919.html


デングといい、エボラといい・・ぁゃしぃ(;¬_¬)

リベリアでエボラ感染騒動が始まる前に大量のダイヤモンドが発見されていました
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51941838.html

日米の戦闘 (自分用メモ)

2014-10-16 11:17:00 | ノンジャンル
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennositsumontokaitou/nithibeinosentou.htm

アメ リカ軍は、上陸する前に、沖縄のことについて徹底的な調査を行い、その上で、戦闘体制に入っています。例えば、沖縄本島のどこが上陸に適しているのか、海岸すべてを調査し、有力な海岸の地形や潮の流れ、深さまで知り尽くしていました。また、沖縄の人たちについても調査してあり、ものの考え方や生活のしかたについても知っていました。そして、それらをもとにした「小冊子」を作り、上陸したアメ リカ兵に配って、占領後の住民対策に使えるようにしてありました。
住民が戦場で保護された時、アメ リカ兵がそれを見ながら、住民と対話している場面が証言にも出てきます。

 関連2 「馬乗り攻撃」とはなんですか。

アメ リカ軍が壕やガマに隠れている日本軍を攻撃する方法の一つです。ガマの入口周囲からガマの奥目がけて爆弾を投げ込んだり、爆薬を仕掛けたり、ガマの岩に穴を開け、爆薬を仕掛けて破壊するなどあらゆる手段を用いて徹底的に攻撃するのです。住民のみならず日本兵が最も恐れたアメリカ軍の攻撃でした。
住民がいると分かれば「デテコイ、デテコイ」と呼びかけるのですが、応じなかったり、中の日本軍が抵抗でもするものなら、とことん「馬乗り攻撃」を続けました。             

 関連3 アメ リカ兵の様子はどんなでしたか。 

 沖縄戦におけるアメ リカ軍と日本軍を比較して、アメ リカ軍は「ネアカ」で日本軍は「ネクラ」と表現した人がいました。それは、どういうことかというと、これまでも述べてきたように、日本軍は、昼間は壕の中に潜んで、夜の作戦が多かったことはもちろん、少ない兵器と弾薬と食糧を節約しながら、しかも、住民の食糧を奪ったり、住民をガマから追い出したり、虐殺したり、「集団自決」を強要したりで、本当に暗いイメージばかりです。 それに対して、アメ リカ軍は、昼間攻撃して夕方には切り上げ、夜はキャンプで1日の疲れをとって休息しています。その休息の取り方も、ラジオやレコードを聞いたり、新聞を読んだり、演劇や映画を見たりしています。特に映画は人気があったようです。戦場でありながら、自分の陣地に戻れば、そこは兵隊たちの休息の場となっていたのです。

 アメ リカ軍の中には、このような兵隊たちの休息を支援する部隊がちゃんと組織されていたのです。映画を上映したり、新聞を発行したり、演劇を上映したりすることを専門にした部隊なのです。

[証言から]
〇(アメ リカ兵)…大名(南風原村)まで行くと、まだ家が残っていたので、人家に入った。するとレコードがあったですよ、昼間なのに、そこにいた兵隊たちは、それをかけてジャンジャンやっておるんですね。
〇(戦闘)…普通の戦闘では目標が幾らとか距離の想定をして弾を撃つはずですが米軍は、弾のおちる真上にいるんですからね。

〇上空では、グラマンとセスナが意のままに飛び通しで、制空権は完全に握っているんですね。だから彼らは弾の落ちるのを見ながら無電でどんどん知らせて、的確な弾着でぼんぼん攻撃できるわけです。こちらは射撃どころじやないんですよ。
〇米軍の攻撃は、時間でやっていて、朝5時からはじまり、終るのは夕方七時頃で、その頃さあッとひいてしまうんですよ。

〇アメ リカ兵は、今日はこっちまできても、晩になると再び何百メートルかさがって行きました。…また朝になったらアメ リカ兵はやってきていました。
〇米軍の周辺には、電線が張りめぐらされてあって、夜襲するときそれが難関で、感電するものもいて、また感付かれると、すぐに猛攻撃を受けます。
〇すぐ米軍の盲撃ちの反撃に合う。

〇陣地の入口や銃眼(じゅうがん、陣地壕の中から銃を撃てるようにした窓)のところから、米軍は何時間も待ち構え通しですよ。奥に隠れているものはそれほど被害はなかったですが。
〇米軍はガソ リンを入口から流し込んで、火焔放射器で中を燃やすんですね。
〇われわれは窒息死寸前になる。

〇米軍は午前中にやってきて正午頃には煙幕をまいて一旦退却するんです。また2時か3時頃に米軍は馬乗りにやってきますが、われわれは陣地の奥深くにじっとしていました。…その繰り返しです。
〇4月も下旬にさしかかる頃になると、米軍は勇敢にも夜襲をこころみるようになっていました。

〇(住民に対して)…そうしたら「カマ、カマ」するので、わたしは幼名はカマだから、「はい」と答えたよ。そうしてカマ、カマして指を自分自身のところへ向けて動かすので、ついて行ったよ。そうしてついて行ったら、「ケンリ(キャンデー)ギブ」といいおったよ。それでわたしは、「何をいうんだ、いくさは敗けているんだのに、わたしに何の権利があるか馬鹿野郎」といってやりました。しかしアメ リカーは、ポケットから菓子を取ってね、さあ、といってくれたよ。わたしはそれをすぐ口に入れたよ。そうしたら首を傾しげていたよ。それから今度は「ワラ」というので、足元を見廻したが藁はどこにも見当らない。「どこにも藁はありやしない」といってやった。そうしたら水筒の水を持って来てくれた。それでいくらでも水をくれようとするので、水をたくさん飲まして、お腹をはち切らして、死なす考えだなと思ったよ。それからしばらくすると煙草を出してやるので、すぐ口へ持って行ったら、ライターで火をつけてくれた。

〇アメ リカ兵のところへ近づいて行って、わたしは手で首を切る真似をして見せたら、手を振って、「ノウ、ノウ、ノウ」というので、殺さないそうだ、みんな出なさい、といった。
〇水をそんなにみんなが飲みますので、その兵隊は、干パン箱がありますね、それをたくさん持って来て、それを一人ひとり四個ずつ配ったが、毒が入っているよ、食べてはいけないよ、というので、誰も食べるものがいない、その兵隊がわたしの手から二つ取って食べたので、またみんなが、ねだり勝負といった格好で、もっとくれと、ねだっていました。

〇予想通り、朝っぱらすぐにアメ リカ兵が入りこんできたんです。みんなびっくりして黙ってしまったわけですよ。アメ リカ兵は何もせず私らの様子を覗いただけでした。
〇具志頭あたりでした。みんな荷物をかかえていて、ただ歩いて行くと、戦車のアメ リカ兵たちは、何も言わず笑顔で私たちを見送っていました。それで私たちはどうもされないと悟って、港川まで行ったんです。
〇そして壕の外には、紙に二世が書置きしてあったんです。あんたたちの命は助けるから、殺しはしないから、そこで暮らしていなさい、という意味のことが書いてあったんです。

〇(壕攻撃)…入口と反対の方にある横穴から急に煙がたちこめて、目が痛くなって、喉も痛くなったので、催涙弾を投げ込まれたことが判ったんです。それからまた1週間ぐらいしてから、毒ガスを入れられたんです。
〇何日間も外で警戒して見張っていたのかどうか、廻ってくるアメ リカーによってやり方がちがっていたのか、とつぜん毒ガスを投げこんだんですよ。

〇(防衛隊に対して)…一度は、那覇出身の防衛隊が下りてきて、私たちの家に入れて貰って、こっそり生活をしていました。…ところが、その防衛隊はアメ リカーに感づかれて、引張られ、日本兵の捕虜収容所の金網の中に入れられてしまいました。

〇(アメ リカ衛生兵)…思い切ってとび出して行き、彼を背負って逃げてきました。するとアメ リカ兵が何か叫んで追っかけてきたんです。…壕の中まで逃げてきたら、アメ リカ兵もそこまで追っかけてきたわけですよ。見たら、赤十字のカバンを持っている。私はすぐ衛生兵だと判って、背負っていた彼をおろして、足の怪我を見せたわけです。アメ リカ兵は急いで治療して包帯をまいてくれました。

〇(食糧)…その壕に移ってからの生活は、夜になるとアメ リカの部隊の引っ越したあとに残飯らしいのがあったんです。そうして、カンパンの開けられたのも取って来ました。食べるものは、アメ リカの兵隊がキャンプをつくった後に残したものを友軍の兵隊もわたしたちも行って取ったんです

 関連4 地元の人は、なぜ隠れていても殺されなかったのですか。

もともとアメ リカ軍は住民と日本軍を区別して攻撃していました。だから、住民だけの所には攻撃はしないし、住民がアメ リカ兵の側を通っても何もしませんでした。

しかし、日本軍によって「アメ リカは怖い」といううわさが流されていて、そのように信じこんでいましたから、アメ リカ兵を見ると怖くて逃げます。逃げる住民に対しては発砲するアメ リカ兵もいました。

また、日本軍と同じガマに隠れている時などは、捕虜になって出ようとしても日本兵がそれを妨害するので、アメ リカ軍も容赦なく攻撃してきました。

だから、住民だけ避難したガマなどは無視してそのままにしておき、占領した後、収容所に入れたりしました。象徴的なのは、住民でも死んだ日本兵の軍服を拝借して来ている時に、アメ リカ兵に会えば発砲されたし、逆に日本兵が住民の着物を来ていたら見逃されていたという証言があることです。そこで、アメリカ軍は、捕虜になった男性を日本兵と住民に分ける時、沖縄方言で話しかけてみたり、肌の日焼け具合で判断したりしていました。

 関連5 アメ リカ軍は戦争をして楽しいですか。

楽しいことはないと思います。「太平洋戦争」は日本が仕掛けた戦争ですから、アメ リカは反撃したことになります。特に「沖縄戦」を戦ったアメ リカ兵は、精神異常になった人もでるくらい残酷だった、というのがアメ リカ側の一般的な見方です。アメ リカ兵を恐怖に陥れたのはガマ(壕)を使ったゲリラ戦法だったようです。いつ、どこからともなく、地面の中から突撃してくる日本兵の攻撃には気を使ったことでしょう。また、住民の「集団自決」の残酷な場面などに出合うなど、アメ リカ兵にとって「沖縄戦」は太平洋戦争の中でも、最もつらい戦争だったようです。特に「集団自決」は、かなりのショッキングな出来事だったようで、沖縄戦関連の中でも大きく報道されています。

 ただ、個々のアメ リカ兵の中には、当時の日本という国の異常な状態を知っていました。自分たちが戦っているのは、日本の軍国主義である、という認識をはっきりもっている人もいました。収容所でアメ リカ兵と仲良くなったある人の証言では、「トウジョウやヒロヒトはこれだ(といって首に手をあてる動作)」という会話がよくあったということです。もちろん、トウジョウは太平洋戦争を起こした時の総理大臣であった東条英機であり、ヒロヒトは昭和天皇のことです。

[32-戦闘-6] 住民もアメ リカ兵を殺しましたか。

一般住民がアメ リカ兵を攻撃して殺したという証言は読んだことがありません。おそらくないでしょう。またあり得ないことです。アメ リカ兵に対しては、「鬼畜米英」と宣伝されていておびえていましたので、立ち向かうことなどなかったと思います。証言の中でも、アメ リカ兵が見えたらおびえて逃げています。せいぜい、捕虜になった時、抵抗しているお祖父さんなどが出てくるぐらいです。

ただ、兵隊として戦っていた人の中には戦闘行為としてありました。沖縄県民も徴兵検査を受けて現役の軍人となって戦闘に参加していましたし、また、防衛隊とか、義勇隊という形で戦場に動員されました。もっとも、多くの防衛隊や学徒隊は軍服はありましたが、手榴弾以外武器は与えられませんでした。義勇隊は軍服さえ渡されていません。しかし、部隊によっては防衛隊にも武器を与えている所もありました。
ある離島での戦闘場面では、一人の防衛隊が日本兵と共に、待ち伏せしてアメ リカ兵に発砲して殺害した証言がでてきます。

(情報統制について)チェルノは失敗したがフクシマはうまく行った。

2014-10-04 21:40:00 | ノンジャンル
EZ兄さんより。

IAEA(原子力推進利権団体)が本当に人殺し団体である証拠。

チェルノブイリの次の原発事故(福島原発事故)の対応は1996年IAEAの会議でもう決まっていた。
*人々を避難させず、情報をきちんと統制すること
是非、動画をご覧ください。
家族を放射能から守るために
:~国際原子力組織の動きと内部被曝~
遠藤順子氏
20140803(北海道伊逹市での講演記録です)
http://youtu.be/rgUBXFeX-_o

チェルノブイリの次は確実に隠蔽とか昔から決めてた!
日本もこれに完全に騙されてる訳だ。‪#‎拡散希望‬
Akemi Shimaさんよりコピペしてシェア。
だからチェルノブイリでの被害も移住によるストレスなんて堂々と言われてたわけだな。