ドリシュティは偉大である。
周りが気になってもドリシュティを逸らさずにいると、再び自分の中に戻っていける。
人と比べても仕方がないし、そもそも比べようとする対象が視野に入って来ないので「自分の今」が全てになる。
そういう意味でもシークエンスが定められているアシュタンガヨガをやっていることは、私にとって重要なのだと思える。
(4月12日のノートより)
ここで言う「ドリシュティ」とは「視点」のことを指す。
ウジャイ呼吸、ヴィンヤサ、バンダと並んでアシュタンガヨガで欠かせないテクニックのひとつである。
アシュタンガヨガに限らず他のヨガのクラスでも「つま先を見て」とか「親指を見て」とか指導されることがあると思う。それがまさにドリシュティである。
「アーサナの型さえできていれば目線なんてどこに向けても同じではないか」と思うかもしれない。少なくとも私はそう感じていた時期がある。初心の頃は誰でもそうだと思うが、講師の指示は言葉だけでなくその動きを目で確かめながらでないとなかなか身体を動かせない。自分の動きが講師の指示と合っているのか周りを見て確認することもしょっちゅうだろう。それゆえ視点を一カ所に定めるのは二の次になってしまうのも致し方ない。とりわけアシュタンガヨガでは5呼吸ごとにアーサナが変化する上に、上述のウジャイ呼吸、ヴィンヤサ、バンダと同時に使うテクニックが他にもあって殊の外忙しいので、初心者は少しずつ身につけていくしかない。
それでも、こんな時には是非ドリシュティを意識して活用してみるのをオススメしたい場面がある。それは他人と自分のアーサナの成熟度を比べて心に無駄な波風が立ってしまいそうな時。この波風も、例えば「私もあんな風にできたらいいな」で留まればいいのだけれど、「でも、私にはどうせできないから劣等感を感じるな」などと捻れた感情が湧いてしまうような時には、どうか視点を一点に定め、呼吸に意識を向け、脱走しそうな気持ちをなだめてみて欲しい。視点を定めることでアーサナの安定感は格段に増す。
日常生活で私たちは否が応にも他者と比較し比較されながら暮らしている。それが人間に与えられた哀しい性なのか、現代社会を生きる為に不可欠な要素なのかよくわからないけれども、誰かとの比較の中で日々一喜一憂しているのでは心の休まる間もない。誰かを羨んでも、あるいは優越感に浸ってさえも、どこか虚しい気分になる。他者を基準に自分の立ち位置を定めていれば、そりゃ安定するはずもないから当たり前と言えば当たり前なのだが。
そして、何を隠そう、私はしばらくの間、周囲との比較をヨガのクラスに来てまでもやっていた。それは深く身に染み付いた癖だった。他の人と比べて悔しがったり、惨めになったり、たまに得意になったり、もちろんそれでは心の平安どころではなかったのは言うまでもない。そんな私が時を経て素晴らしい師と出会い、この言葉を授かることができたのは全く幸運な出来事だった。
せめて、ヨガマットの上にいる時くらいは誰かと比べるのをやめようじゃないか。
この言葉を、私は今でも練習中に自分自身に言い聞かせている。
アーサナの成熟度と人間性の成熟度は必ずしも正比例しないことを、肝に銘じるためである。目標をあくまで目標とし、劣等感や焦燥感の種に変えないように、また、アーサナが上達しても天狗になることなく、純粋な喜びとして静かに受け取るために。そのためにこのドリシュティが非常に役に立っている。脇目も振らずアーサナに没頭するのに欠かせないテクニックだ。
たるんできた二の腕をどうにかせねばと思い、運動量の少なそうな「今どきな」ヨガを選んだだけなのに、ヨガ的生き方を模索したり、熱く語ったり、私もずいぶん遠くに来てしまったものだと、今夜は文章を書きながらふと可笑しくなった。
ナマステ&シャローム
Nozomi
周りが気になってもドリシュティを逸らさずにいると、再び自分の中に戻っていける。
人と比べても仕方がないし、そもそも比べようとする対象が視野に入って来ないので「自分の今」が全てになる。
そういう意味でもシークエンスが定められているアシュタンガヨガをやっていることは、私にとって重要なのだと思える。
(4月12日のノートより)
ここで言う「ドリシュティ」とは「視点」のことを指す。
ウジャイ呼吸、ヴィンヤサ、バンダと並んでアシュタンガヨガで欠かせないテクニックのひとつである。
アシュタンガヨガに限らず他のヨガのクラスでも「つま先を見て」とか「親指を見て」とか指導されることがあると思う。それがまさにドリシュティである。
「アーサナの型さえできていれば目線なんてどこに向けても同じではないか」と思うかもしれない。少なくとも私はそう感じていた時期がある。初心の頃は誰でもそうだと思うが、講師の指示は言葉だけでなくその動きを目で確かめながらでないとなかなか身体を動かせない。自分の動きが講師の指示と合っているのか周りを見て確認することもしょっちゅうだろう。それゆえ視点を一カ所に定めるのは二の次になってしまうのも致し方ない。とりわけアシュタンガヨガでは5呼吸ごとにアーサナが変化する上に、上述のウジャイ呼吸、ヴィンヤサ、バンダと同時に使うテクニックが他にもあって殊の外忙しいので、初心者は少しずつ身につけていくしかない。
それでも、こんな時には是非ドリシュティを意識して活用してみるのをオススメしたい場面がある。それは他人と自分のアーサナの成熟度を比べて心に無駄な波風が立ってしまいそうな時。この波風も、例えば「私もあんな風にできたらいいな」で留まればいいのだけれど、「でも、私にはどうせできないから劣等感を感じるな」などと捻れた感情が湧いてしまうような時には、どうか視点を一点に定め、呼吸に意識を向け、脱走しそうな気持ちをなだめてみて欲しい。視点を定めることでアーサナの安定感は格段に増す。
日常生活で私たちは否が応にも他者と比較し比較されながら暮らしている。それが人間に与えられた哀しい性なのか、現代社会を生きる為に不可欠な要素なのかよくわからないけれども、誰かとの比較の中で日々一喜一憂しているのでは心の休まる間もない。誰かを羨んでも、あるいは優越感に浸ってさえも、どこか虚しい気分になる。他者を基準に自分の立ち位置を定めていれば、そりゃ安定するはずもないから当たり前と言えば当たり前なのだが。
そして、何を隠そう、私はしばらくの間、周囲との比較をヨガのクラスに来てまでもやっていた。それは深く身に染み付いた癖だった。他の人と比べて悔しがったり、惨めになったり、たまに得意になったり、もちろんそれでは心の平安どころではなかったのは言うまでもない。そんな私が時を経て素晴らしい師と出会い、この言葉を授かることができたのは全く幸運な出来事だった。
せめて、ヨガマットの上にいる時くらいは誰かと比べるのをやめようじゃないか。
この言葉を、私は今でも練習中に自分自身に言い聞かせている。
アーサナの成熟度と人間性の成熟度は必ずしも正比例しないことを、肝に銘じるためである。目標をあくまで目標とし、劣等感や焦燥感の種に変えないように、また、アーサナが上達しても天狗になることなく、純粋な喜びとして静かに受け取るために。そのためにこのドリシュティが非常に役に立っている。脇目も振らずアーサナに没頭するのに欠かせないテクニックだ。
たるんできた二の腕をどうにかせねばと思い、運動量の少なそうな「今どきな」ヨガを選んだだけなのに、ヨガ的生き方を模索したり、熱く語ったり、私もずいぶん遠くに来てしまったものだと、今夜は文章を書きながらふと可笑しくなった。
ナマステ&シャローム
Nozomi
口先ヨギにならぬよう、これからも精進したいと思います(笑)
しびれる。
大好物なフレーズです 笑