Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

一人旅に少し疲れて

2014-12-08 18:24:21 | ヨガノートから
12月7日(日)

ヨガに対する色々な思いが往来する。時に励みになり、時に僻みになり、襟を正したり、歯を食いしばったりしながらの時間。
もっと前に進みたいのに自分だけが取り残されている気分になり、アーサナの向上を諦めてしまったような人たちの間に紛れていく不安。
自分の立ち位置を確認しようとすると、自ずと周りと比べてしまうことにうんざりする。
そして、アーサナだけじゃない“何か”が自分の中にはきっとあるというキレイ事を言って、また他者と比べてしまい、結局、自分はヨガをやってもやらなくても本質から遠い、あるいは遠ざかっているんじゃないかとイヤになって、最後の方でちょっと涙した。


12月8日(月)

呼吸は昨日より深く安定していた。考え事もあまりなかった。
アーサナのひとつひとつにどれだけ静かな気持ちで留まっていられるかを優先できたのがよかった。
シッティングに移ってからジャンプスルーを少し多めに練習。
足を伸ばすのと曲げるのとではどちらが自分に向いているのかいまだにわからずにいる。
その迷いが足の運びを鈍くしている気がするのに、一向に判断できない。
ジャンプバックはともかくジャンプスルーができないでいることが本当にコンプレックス。




セルフプラクティスは孤独な作業です。
目的地がわかっているだけで、明確な地図も同伴者もない一人旅です。
もしかすると間違った道を突き進んでいるかもしれないのに、それを確認する術もなく行き止まりに辿り着くまで気づくことがありません。
とぼとぼと今来た道を引き返し、経験と勘だけで次の道を選びます。
道なき道を歩いているような気分になる時もあります。
誰かがこっちだよと道案内をしてくれればどんなに楽だろうかと思うけれど、道案内に出会うことはたまにしかありません。
それでもたまに確認できる分、全くの孤独よりはましなのかもしれません。
意志があるのに二度と歩けなくなるより幸せなのかもしれません。
ただ時折、自分を鼓舞することに疲れてどうにもやるせない気持ちになってしまいます。


セルフプラクティスを続けるために、どうにか自分の気持ちの着地点をきれいに飾り付けているつもりなのに、ふとした拍子にメッキが剥がれて自分の芯に染み付いた嫉妬心やら見栄やらが剥き出しになってくるのが、こともあろうかヨガの練習中に起きるのだから本当にどうしようもないなと思うわけです。

「毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥をかいていたら、少しは重厚になるかもしれない。けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。」
これは太宰治の『女生徒』に描かれた主人公の心境ですが、まさにこんな感じでやってきたから、肝心なところで本当に脆い。
そして、そんな脆さを吐露できる相手さえそばにいないので、思い直して再び奮起するまでに余分な時間を費やしてしまうようです。
だから、今日は昨日と今日のヨガ日記の一部とともにここに書き出してみることにしました。
どなたが読んでくれているかわからない、けれども、同じような気持ちを抱いている同志がいるかもしれないという小さな期待を込めて。



ナマステ&シャローム
Nozomi




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