john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

聖母マリアの栄光 9

2018-01-12 23:19:10 | 聖母マリアの栄光(再)

修道院長ギョーム

マリアはおびただしい霊魂を救うために、ご自分の霊魂を死にわたしたもうた。

聖シメオン

他日御身の祝せられた霊魂は、悲しみの剣によってさしぬかれるであろう。

イエズス様は、マリア様に向かって、ヨハネをさし、「これは、汝の母である。」と仰せられた。

シエナの、聖ベルナルディノ

聖ヨハネは、この場合、全人類を代表しているのであり、マリアは、全人類に対する愛によって、その母となられたからである。

神学者シルヴェイラ

ヨハネはひとつの人名である。弟子の名であり、、普通の名である。その言葉は、マリアが全ての人に母として与えられたもうたことを示すものである。

ドミニコ会パチウッチェリ師

そうだ、なぜなら、私達の霊魂を神のみ前に美しいものとするマリアの愛は、マリアをして、その子供である私達に対し、愛情以外のなにものでもなからしめるからである。

聖ボナヴェンツーラ

私達を愛し、私達の幸福を念ずる点において、マリアに比べられる母はひとりもいない

聖母マリアの栄光 8

2018-01-10 23:16:51 | 聖母マリアの栄光(再)

聖アンブロジオ

マリアのいとも清浄な胎は、ただ一粒の小麦、すなわち、聖主イエズス・キリストしか宿さなかった。
しかし、マリアの胎が、『小麦の山』とよばれるのは、この粒がマリアの子になるように選ばれたもののみんなの芽をふくんでいたからである。それゆえ、イエズス・キリストは、『多くの兄弟のうちのういご』と呼ばれるのである。

聖なる修道院長ギョーム

マリアは、この御ひとり子、すべての人の救い主にてましますイエズスをお生み申し上げることによって、おびただしい子供を救霊にお生みになった。マリアは、生命なる御ものをお生み申し上げる事によって、彼らに生命をお与えになったのである。

聖アウグスチヌス

マリアは、その時から、救い主の肢体の霊的聖母におなりになった。
というのは、マリアは、その愛によって、信徒を教会に生まれさせることに協力し、私たちを、私たちのかしらであるイエズス・キリストの恩恵によって、再生させる事に、協力したからである。

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聖母マリア様とイエズス様は切り離す事が出来ない。

聖母マリア様がいないキリスト教会はキリスト教会とは言えないのだ。

なぜなら、キリストは聖母マリア様の胎を通ってこの世にお降りになられ、また、聖母マリア様の協力を経て人類をお救いになられたからです。
それを神がお望みになられたからです。

聖母マリアの栄光 7

2018-01-09 21:26:07 | 聖母マリアの栄光(再)


聖大アルベルト

神の御子を童貞なる母胎におやどしになったとき、私達の霊魂の母となりたもうた。

聖ベルナルディノ

受胎告知の日、至聖童貞は、永遠の御子がマリアの子となるためにお待ちになっていたその同意をお与えになった時、この同意によって、異常な熱心を持って、私達の救いを求め、これを獲得してくださった。また、この同意によって、ご自身を残りなく私達のあがないのわざに捧げ、その時から、私達を、みなその子供としてご胎に宿し、最も真実に私達の母となられたのである。

聖ルカ

マリアは、そのういごを生みたもうた。

聖ルカに対してのもう一人の著述家の説明

マリアが、肉によって、イエズス以外の子供をお生みにならなかったことは、信ずべき真理である。それで、マリアは、霊によって、その他の子供をお生みになったのである。
そして、これらの子供と言うのは私達である

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最近、体調がすこぶる悪いです。
神様は、私をいつ天に呼んで下さるのでしょう。
そんな事をたまに考えます。

さて、北国に住んでいる私の街にも雪が降り積もってきました。
真っ白な雪のような、霊魂で神様のみ前に立てたらどんなに幸せな事でしょう。

私は、一人一人の人間の中にイエズス様を見ます。

そうすると、決して非情にはなれません。

だからこそ、話す時は考えながら話さなければならないと考えています。

聖母マリアの栄光 6

2018-01-07 17:50:42 | 聖母マリアの栄光(再)

聖母マリアは、ご自身、聖ブリジッタにこれを啓示された。

私は、天の元后であり、憐れみの元后です
私は、義者の喜びのみなもと、罪人が神に入るために開かれた門戸で、この地上でどんなに呪うべき罪人でも、生きている限り、私の慈悲を感じないものはありません。
少なくとも、悪魔の誘惑を少なくしてもらえます。悪魔の誘惑を少なくしてもらうことは、私のとりなしの賜物なのです。

聖母マリアは続けたもう。

絶対的にのろわれたもの、すなわち、地獄に落ちたものでない限り、私の助けを求めて、神に立ち返れない人、神の慈悲を見出だせない人はありません。

聖母はさらに、

憐れみの母! これは、全ての人が私に与える名称です。実際、神の人間に対する慈悲は、私を、憐れみに満ちみちたものとなさいました。

ああ、それにもかかわらず、私の助けを求めない者は、本当に不幸です。

😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋😋

不思議のメダイとカルメルの聖母のメダイをつけたネックレスが切れたので、カトリックショップへ行ったら、臨時休業だって😠😠😠

それも20日まで・・・😓😓😓

今日は体の痛みのため、全く眠れませんでした。

朝、前日に結構雪が降ったので雪かきをして、ミサへ直行。

三人の妹たちを神様に捧げつつ、祈りを捧げた。

体の痛みをイエズス様からの愛だと思いながら、早くなおらないかなぁとも思いながら、償いとして捧げています。


聖母マリアの栄光 5

2018-01-05 22:47:20 | 聖母マリアの栄光(再)

ランスペルジュ

私達が悲しみを抱いてマリアに近づくとき、いとも情け深いマリアは必ず慰めをお与えになるに違いないのである。

聖ベルナルド

ああ、マリアよ、御身は、憐れみの元后でおいでになるのに、あわれな人々にどうして助けをお拒みになるのでしょう。御身は憐れみの元后であり、私は罪人のうちでも一番罪深いしもべなのです。それゆえ、私は、他の誰にもまして、御身の最も厚いご配慮を求めうるのです。ああ、憐れみの元后よ、私達をお治め下さい。私達の永遠の救いをお引き受け下さい。ああ、至聖童貞よ、私達の罪があまりにも多いからと言って、私達の願いを拒まないで下さい。罪のおびだたしさは、御身が私達を助ける妨げにはならないのです。

コメディアの聖ジョルジオ

御身は、打ち勝つ事の出来ない力をお持ちです。御身の寛仁は、私達のおびただしい罪よりもはるかに勝っています。御身の権力には、何ものも、さからうことは出来ないのです。御身と私達をお造りになった御者が、御身を母として崇め、御身の栄光を、自らの光栄のように御覧になっているからです。 創造主は、また、これを子としての喜びとなし、御身の願いをことごとく聞き入れて負い目をかえそうとおぼしめしになるのです。

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カトリックのブログを見ていますと、皆さん素晴らしいブログばかりで、自分のブログは・・・・と自己嫌悪になる時があります。

時々は、自分にしかわからない事を平気で書いてみたりと・・・😋
後から書いてはいけないことだったのかな?と反省してみたり。

別に訪問者狙いで書いているつもりはさらさらありませんが。

ただ、1人でもいいからキリスト教とはいいません。
イエズス様やマリア様に興味を持ってくれたらと感じています。

先輩カトリック者の秋田日記を書かれているテレジアさんのブログの中に面白い記事が書かれていました。

王様は祈りはしないがいつも腰にロザリオをぶら下げていた。
だから、回りの人は勘違いして王様は敬虔な人でいつもロザリオを祈っている、だから私達もロザリオを祈ろう・・・と。
これってすごく賢い天国への生き方だよなぁ〜と感心しましたが・・・😁

自分もそうしよう・・・・😊

とは、自分の性格上できませんが。

神様の言葉は、その時は受け入れる事は出来なくても、人生の中での辛いときや節目やふとした瞬間に頭の奥のかすかな記憶の中から出てくるもんなんです。


頭の中に残像として残っていたものがあるとき、鮮明にその姿を現します。


そのお手伝いをするのが、私の役目なんです。

それは、いろいろな事を教えていただいたので、それを私のできる範囲で皆様にお伝えしようと思っています。

何せ頭が良くないので、これこれの文献を引っ張り出してとか、聖書のここの部分を引用してとか出来ませんが、魂の日記なので、魂が語るままに、聖霊の語るままにしたいと考えながら書いていくように努めます、

聖母マリアの栄光 4

2018-01-04 19:36:21 | 聖母マリアの栄光(再)


ルベルト

マリアは元后に立てられたのであるから、当然、御子の王国全体を所有する。

シエナの聖ベルナルディノ

神が被造物の奉仕を受けたもうたように、マリアも被造物の報酬を期待している。
そして、天使と人間、一言で言うならば、全ての被造物は、神の配下にあるのであるから、当然、光栄ある童貞の配下にもあるわけである。

聖大アルベルト

女帝と言う称号が、厳格さ、過酷さを意味するのに対して、元后という称号は、貧しい人々に対する同情と配慮とを意味する。

セネカ

不幸なものを助けることこそ、王と女王との偉大さを構成するのである。

ジャン・ジェルソン

神の支配は、権力と慈悲とに成り立つ。権力は神ご自身これを保留したもう。けれども慈悲の行使は、元后マリアにゆだねられているのである。

聖トマス・アクイナス

マリアは、神の御子をやどし、ついで、これをお生みになった時、神の治世の半分を分けてもらった。すなわち、キリストが正義の王にてましますように、マリアは慈悲の元后でいらっしゃるのである。

聖母マリアの栄光 3

2018-01-03 19:22:28 | 聖母マリアの栄光(再)


エルネスト

永遠の御父は審判を全く御子に与え、慈悲の役目を全くその母にお与えになった。

マルドケオ

ああ、われらの元后よ、御身は王宮にお住まいである。神によって宇宙の元后と立てられたからである。しかし、ご自分だけ助かれば、他の人間はみな死んでもよいとお考えになってはならない。なぜなら、御身が元后の位に上げられたのは、ただ御身一人のためではないからである。神が御身をこれほどまで偉大なものとされたのは、なおいっそう、私達の惨めさに同情し、これを助けるようにするためである。

聖ベルナルド

それは、マリアが、望むものに、望む時に、望むとおりに、神の御憐れみの深淵をひらく事を示すためである。だから、罪人は、どんなに悪に凝り固まっているものであっても、聖者中の聖者であるマリアが、これをご保護のもとに置くならば、決して亡びる事はないのである。

聖グレゴリオ7世

マリアの偉大さと聖性とは、改心を望んでより頼む罪人に対して、彼女を更に寛仁なもの、優しいもの、とするだけである。

聖ベルナルド

マリアには、きびしいところ、おそろしいところは少しもない。マリアは、きわめて優しく、親切でいらっしゃる。

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今日信じられないことがあった。

いやまだ正確にはわからないが、もし、それが本当なら年始め早々の事件だ。

もし、それが本当なら、黙って受け入れようと思う。

いろいろな試練が自分を襲ったとしても、主に聖ヨブとともに言おう。
私は、主から幸せを多く頂いたのだから、苦難をも頂だこう。

そして、み旨のままにあしらってくださいと。



聖母マリアの栄光 2

2018-01-02 10:48:12 | 聖母マリアの栄光(再)

聖アナタジオ

マリアがお生みになった御子が王であるならば、その母なる童貞マリアは、当然、女王、元后であって、そのようにお呼びすべきである。

シエナの聖ベルナルディノ

マリアは、永遠のみ言葉の御母となる事に同意した時から、世界の元后、被造物全体の元后となったのである。

マリアの同意は、世界の王笏、宇宙の帝国、
全被造物に対する主権を与えられる価値があった。

アルノー・ド・シャトル

イエズスの肉とマリアの肉とは、ただ一つの肉、同じ肉である。それなのに、御母が御子の主権にあずかれない訳があろうか。
あずかるという言葉さえも適切とは言えない。御子の光栄と御母の光栄とは、ただ一つの栄光、同じ光栄である。

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さて、最近、あるブログを見まして疑問に思ったことがありまして・・・・。
プロテスタントからカトリックへいきたい場合、どういう手順と期間が必要なのか?というものです。

洗礼はどの宗派でも同じなので、やる必要はないとは思いますが、カトリックにおいては洗礼名が授けられますから、その点はどうなのかと。
また、プロテスタントにはない七つの秘跡と聖母マリアさまをどう理解するのか、ですね。
プロテスタントは、聖書中心主義で、カトリックのような聖体はなく、ましてや聖母を認めない風潮を感じます。

私は、やはりカトリックの門を叩くならば、求道志願者のように一から学ぶべきだと思います。

私は、どの宗派に入ろうか、考えたときにすんなりとカトリックに入る事が出来ました。

その点では神様に感謝しております。

聖母マリアの栄光 1

2018-01-01 19:28:33 | 聖母マリアの栄光(再)

フランコン修道院長

マリアに対する賛美は、汲み尽くすことの出来ない泉である。広がれば広がるほど、満ち溢れるし、あふれればあふれるほど、広がるのである。

聖アウグスチヌス

全ての人の肢體がみな舌に変じたとしても、マリアを十分に賛美する事が出来ない。

リシャール・ド・サン・ローラン

マリアを崇める事と、永遠の生命の宝を獲得することは、同じである。


聖ボナヴェンツーラ

ああ、わが霊魂よ、マリアのうちに喜び踊れ、マリアを賛える人々に約束された宝は、限りないものだかである。

聖アンセルモ

マリアのふところは、イエズス・キリストが罪人を救うために、辿られた道である。
それゆえ、説教の時マリアの栄光を語るならば、罪人の改心と救いとを勝ち得ないわけはないのである。

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きょうは神の母聖マリアの祭日です。

神の母聖マリアがカトリック教会のみならず、他宗派のキリスト教会のなかで、軽んじられていることに憂いをかんじ、また、再投稿させていただきたく思います。

神の母聖マリアは、キリスト教においては人間が認めようが認めないにしろ重要な位置を占めています。

最近では、聖母に対しての礼拝は危険だなどという考えを勝手に持っている人が少なくありません。

聖書においても、聖母マリア様の記述が少ないためか、聖母に対して偏見を持つ人が多いのです。

人間の救いのみ業は、天使が聖母に現れ、聖母の救いのみ業への受諾『御言葉どおりこの身になりますように。』ではじまりました。
聖母の受諾がなければ、人類はだれひとりとして救われなかったのです。
神様は、天から地に降りる為にはこの不浄すぎる地には降りることは出来ませんでした。
そこで、神様は、正確には御父なる神様は御子なる神イエズス=キリストを聖マリアの胎をとおして地上に降りられたのです。

神様を知るにはまず、神様の最高傑作である聖母マリア様の所にいかなければなりません。
聖母を礼拝している事が危険だ?
誰がそんな勘違いをしているのでしょう。
礼拝出来るのは神しかいないと知っています。
聖母マリア様を崇敬し、愛しているのです。
聖母は地上と神様の間の仲介者です。
私達がなにか、神様に頼みたいと思ったらまずは聖母マリア様の所にいかなければなりません。
そうしないと聞き入れられる確率は皆無です。
私達の祈りの花束は、聖母マリア様を通すことにより、より美しい聖なる花束に変えられて神様のみもとに届くからです。

神様は聖なる母マリアに地上に恵みを仲介する権限をお与えになりました。
全ての恵みは聖母を通して与えられるのです。

全ての聖人たちの仲介よりも、聖母の仲介の力は絶大です。

聖母の御子イエズス様への嘆願は、ほぼ命令に近いからです。
御子イエズス様は、御母マリアの頼み事を断る事が出来ません。

聖母マリア様に神様が与えた権能は、人間が考えているよりはるかにすごいものなのです。

聖母マリア様は、"天の門"と呼ばれています。

それは、この門を通らずして天国に入ることはほぼ不可能だからです。
天国に入る為には、まず神の母マリアに挨拶しなければなりません。

というように神の母を書けば話がつきません。

私のつたない言葉では駄目なので、聖人達が聖母について語った言葉をのせたいと思います。

それによって聖母がどれだけ偉大な御母なのか、理解できるでしょう。