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★巴里の空の下セーヌは流れる

2007-09-10 | 映画50年代
「巴里の空の下セーヌは流れる」
題名のとおり当たり前に、日常生活は時とともに流れ、人生は過ぎて行く。それぞれ運命の糸で繋がりあって…。
でもこの当たり前の人間の営みがどれだけ美しく儚いものか?!
人が生きるということは美しい詩の一遍だ!
これがいわゆる「ペシミズム」というものなのだ。初めて言葉の意味を知った。
今、こうやって記事を書いていても涙が溢れそうだ。幸福感に満ちたあの有名なシャンソン♪を思い出しただけで!!

(1951/フランス 監督/ジュリアン・デュヴィヴィエ)


【後記 9/14】
いやあ、私はデュヴィヴィエ監督が好きなようだ。30年代のあまりにも量産して幸福感いっぱいだけど壊れた映画もたくさん。そんな映画も大好きだけど、この「巴里の空の~」を見てもっと好きになってしまった。デュヴィヴィエの眼差しは人間をそのまま見つめて飾らない。でも、だからこそ彼の理性を感じる。そして人間って素晴らしいって思ってしまう。
この映画でも登場人物たちはごく当たり前に巴里で生活する人たちだ。孤独な犯罪者は一辺倒の悪人ではなく(かといっていい人間でもなく)、子どもも愛らしいだけの存在でもなく、その母親も優しいだけでなく、猫好きな孤独な老女も哀れなだけの存在でもなく、その部屋に溢れるくらいいる猫たちも愛らしいだけでなく、恋人たちも愛だけを語るわけでもない。労働者は働いている(登場人物はストライキ中なのだが)。そんな人たちがたまたま巴里ですれ違ったり、何かの縁でほんのちょっと結びつきを持ったり…。どこにでもある街、実際自分たちが生きている街で起こっているような日常。死があり生がある。そんな日常の中にある詩のように美しいシーン。数え上げたらキリがないが一つだけ上げておこう。

学校でのテストの成績が悪かったために家に帰れない少女(小3と言っていた気がするがもっと幼く見える)。そして、孤独な芸術家・首裂き連続犯。
路頭に迷った少女と 逃げて隠れている男はたまたま倉庫の片隅で出会う…。
少女「子どもは嫌い?」
男「大人は嫌いだけど、子どもは好きだよ」
少女は初めてにっこり笑い、男の首に抱きつく。
男の孤独に温かい優しさが流れ込む。

少女はいつしかこの男の事は忘れてしまうだろうが、この男にとってはかけがえのない思い出になっただろう。

日常ってそんなもの。本人が気にもとめないことが他の人に何らかの影響を与えたり、与えられたり、何かしら知らず知らずに結びついている。舞台は巴里だったけど自分の住んでいる街と変わらない。人が住んで生活している。自分は気づかないけど美しい詩。
こんな事を考えていると胸が熱くなって、切ないような幸福感が流れてくる。
ああ、素敵!!
この映画、一見地味であっさりとした押しつけのないテイスト。鑑賞直後よりも数日後の方が味わいが深くなっている。もう自分にとっては忘れられない名画の一つだ。