数日前ジュリアン.デュヴィヴィエ監督の「ゴルゴダの丘」を見た。いやはやこの監督、人を悪い気にさせない天才である。キリストの受難を描いたこの映画も(こう感じるのは不祥?)ユーモアと機智に富んだイエス.キリスト像が何故か映画を見た私に幸福感をもたらした。映画っていいなあ、なんて思ってしまう。”手首”に釘を打たれ十字架に張り付けにされ荘厳なバック音楽を流そうが何しようがデュヴィヴィエの映画は何故か気持ちいい。多少の映画の壊れや甘さを全て葬り去るのはこの監督の人柄のおかげなんだろう。誰にも真似できない不思議な才能の持ち主だ。
そんなこんなで、結構面白かったのでキリストの受難映画という繋がりで、パゾリーニ監督の「奇跡の丘」を借りてビデオで見た。
以前にこの監督の「ソドムの市」と「カンタベリー物語」を見たことがある。とてつもなく変態映画だった。見ているうちに脳みそのねじが一つ飛び二つ飛び、次第にオバカになってゆく開放感があった。
今回観た「奇跡の丘」は、全然違う印象だ。絵の感じとか戦いのカットとかひとつひとつ淡々と撮っていく感じ、見ている人々、などは同じ監督だな、と分かるのだが、変態チックでもなければ頭のねじを緩めることもなく、いつしか胸が熱くなってしまった。
この映画は「マタイによる福音書」の描写である。マリアの受胎からイエスの復活までを淡々と綴っている。いや聖書の声で綴っている。と、いうのは(ビデオのせいだったらすいません)自然な音がないのだ?!セリフと音楽(音楽よい!)あとは無音。妙な緊張感と不思議な空間と時間。無声映画がそうであるように、事象を追っていくだけなのに深い感動が起きる。
出てくる人間は何故か生っぽい。キリストは(まあ32歳で張り付けだからそんなもんか)顔の長い、知恵もあるけどエゴもある(ような)奇跡は起こす青年。悩み苦しみ怒り...
クライマックスのイエスを売ったユダの首つりシーンから、三回イエスを知らないというヨハネ(?)の嘆き泣き、そしてイエスの十字架での苦しみ、悲しみの年老いた老婆となったマリア...胸が苦しくなった。”自分も含め 人間は愚かだ”と、何故か痛感した。涙が出ればもうちょっと楽なのに出る事はなく、ただただ胸が苦しくなった映画だった。
話は逸れるが、女の子が可愛いくて魅力的。若き日のマリア。ヨハネの首をいとも簡単に欲しいというサロメ。この二人を見るだけでも価値あり!
(66/伊.仏/監:ピエロ.パオロ.パゾリーニ)
そんなこんなで、結構面白かったのでキリストの受難映画という繋がりで、パゾリーニ監督の「奇跡の丘」を借りてビデオで見た。
以前にこの監督の「ソドムの市」と「カンタベリー物語」を見たことがある。とてつもなく変態映画だった。見ているうちに脳みそのねじが一つ飛び二つ飛び、次第にオバカになってゆく開放感があった。
今回観た「奇跡の丘」は、全然違う印象だ。絵の感じとか戦いのカットとかひとつひとつ淡々と撮っていく感じ、見ている人々、などは同じ監督だな、と分かるのだが、変態チックでもなければ頭のねじを緩めることもなく、いつしか胸が熱くなってしまった。
この映画は「マタイによる福音書」の描写である。マリアの受胎からイエスの復活までを淡々と綴っている。いや聖書の声で綴っている。と、いうのは(ビデオのせいだったらすいません)自然な音がないのだ?!セリフと音楽(音楽よい!)あとは無音。妙な緊張感と不思議な空間と時間。無声映画がそうであるように、事象を追っていくだけなのに深い感動が起きる。
出てくる人間は何故か生っぽい。キリストは(まあ32歳で張り付けだからそんなもんか)顔の長い、知恵もあるけどエゴもある(ような)奇跡は起こす青年。悩み苦しみ怒り...
クライマックスのイエスを売ったユダの首つりシーンから、三回イエスを知らないというヨハネ(?)の嘆き泣き、そしてイエスの十字架での苦しみ、悲しみの年老いた老婆となったマリア...胸が苦しくなった。”自分も含め 人間は愚かだ”と、何故か痛感した。涙が出ればもうちょっと楽なのに出る事はなく、ただただ胸が苦しくなった映画だった。
話は逸れるが、女の子が可愛いくて魅力的。若き日のマリア。ヨハネの首をいとも簡単に欲しいというサロメ。この二人を見るだけでも価値あり!
(66/伊.仏/監:ピエロ.パオロ.パゾリーニ)