jimmyが中学生の時の音楽の先生で有ります。肩もみをさせる先生、
ヘッドホンをして自分の音楽を聞いていて生徒に自習させる先生。
音楽の授業をやったのかやらなかったのか・・・・・
サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」を授業中に流して指揮棒を振りそれを見せていた先生。
俺のコンサートを見に来いと勧誘する先生。音楽が楽しいと言う事を教えてくれた先生。
笛のテストは,一人秒単位で終わっていた。 上手な人が少し長く吹けた。凄いテストでした。
===============伝説の卒業式の練習===============
卒業式の校歌の練習,寂しいほとんど小声で歌うお通夜の様な練習。
それを見かねて先生は,壇上に駆け上がり第一声、全ての先生体育館の外に出てください。
俺は,3年間まともに教えてあげられなかったが今ここでまとめて教えてやる!!
ピアノの伴奏を学年で優秀な生徒、「現在プロのピアニストになっているから凄い。」
彼に伴奏させて校歌の指導を始めたのである。するとあら不思議、見る見るうちに
大合唱の第九の様な校歌に変わって行ったのである。この体験がjimmyの音楽人生の
始まりでもあった。
=============================================
この出来事を後に友人に話をしても記憶に残っている人がいない・・・・・・。
その瞬間をただの練習と感じているだけだったのかもしれない。
人それぞれその体験をどの様に感じるかですべてが変わってしまうと言う事なのか・・・
数十年後に先生と偶然会う事が有ったのでこの事をお話しすると
そんな事も有ったなぁと振り返ってくれました。
今の時代間違いなくそんな授業していたらクビになるとも言ってました。
現在70歳後半にかなり近いはずお元気でしょうか?
ヘッドホンをして自分の音楽を聞いていて生徒に自習させる先生。
音楽の授業をやったのかやらなかったのか・・・・・
サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」を授業中に流して指揮棒を振りそれを見せていた先生。
俺のコンサートを見に来いと勧誘する先生。音楽が楽しいと言う事を教えてくれた先生。
笛のテストは,一人秒単位で終わっていた。 上手な人が少し長く吹けた。凄いテストでした。
===============伝説の卒業式の練習===============
卒業式の校歌の練習,寂しいほとんど小声で歌うお通夜の様な練習。
それを見かねて先生は,壇上に駆け上がり第一声、全ての先生体育館の外に出てください。
俺は,3年間まともに教えてあげられなかったが今ここでまとめて教えてやる!!
ピアノの伴奏を学年で優秀な生徒、「現在プロのピアニストになっているから凄い。」
彼に伴奏させて校歌の指導を始めたのである。するとあら不思議、見る見るうちに
大合唱の第九の様な校歌に変わって行ったのである。この体験がjimmyの音楽人生の
始まりでもあった。
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この出来事を後に友人に話をしても記憶に残っている人がいない・・・・・・。
その瞬間をただの練習と感じているだけだったのかもしれない。
人それぞれその体験をどの様に感じるかですべてが変わってしまうと言う事なのか・・・
数十年後に先生と偶然会う事が有ったのでこの事をお話しすると
そんな事も有ったなぁと振り返ってくれました。
今の時代間違いなくそんな授業していたらクビになるとも言ってました。
現在70歳後半にかなり近いはずお元気でしょうか?
あとは、輝く人には、・・・・・直接は、お会いしていないですが石間師匠を介して内田裕也さんを間近で拝見した時は、光ってたかなぁ。ブルーノートの通路で握手したBBキングさん今でも手のぬくもりが残ってますね。もっと山口先生の音楽授業を受けてれば・・・でも中学の一番接した事を吸収する時期にお会いできたことが宝ですね。先生の第九を聴いていなかったら今、ギター続けているのだろうか? 中学の時の卒業式で山口先生指名でピアノを弾かされた人物は、シンセ奏者で今でも活躍している。多分色々な方と出会い影響をたくさん残されたに違いない。それを宝と思う人と何も感じず普通に通り過ぎていく人、人の出会いは、運命と言うことなのかも知れないです。
山口貴先生を尊敬し懐かしく思い、時々こちらのサイトにお邪魔させていただいています。久しぶりにお邪魔したら、いつの間にかたくさんのコメントが増えていました。志村三中でお世話になり、私ももう64歳となりました。亡くなられていたのはとても残念でなりませんが、お写真はお変わりなく若くて情熱的でいらっしゃる。これからも折に触れてお邪魔させてください。
そんな中で、私も山口先生にはフィル唱でお世話になった一人で、1971年12月10日に今は無き新宿厚生年金会館ホールで、ブリテンの「戦争レクイエム」の合唱に参加させていただいた一人です。
昨日から、このレコードを繰り返し聴いていて、ふと山口先生の検索をしていたところ、貴兄のブログを見つけました。
多くの皆さんの書き込みを拝見し、山口先生の過去や、フィル唱のことも知ることができて、とても懐かしく思いました。
ありがとうございました。
たくさんの方が山口貴先生を懐かしんで書いていられるブログを見つけて嬉しいです。皆さまは私よりは大分お若いようで、私は80才です。教師として初めて赴任された北中の8期生です。授業は受けなかったのですが、2年生の冬に北区の発表会(?)に出る40名ほどの女声合唱でモーツァルトの Eine Kleine NAchtmusik のご指導をいただきました。卒業時の送ることばは「八百屋になるな」でした。アルフィー高見沢氏のファミリーヒストリーで連絡がまわり、教頭の高見沢先生がバックアップされていたこと、山口貴先生は去年亡くなったことがわかり。懐かしくも悲しかった!一度お会いしたかった!このブログを書けたことを幸いに思います。
私の父が2人の同僚でした。高見沢先生が「息子(俊彦)が家で楽器ばっかりいじってて困る」と嘆いてる、と聞いたことがあります。指揮者山口貴が教員を辞めた後、食べていく苦労をしていることとダブったのかもしれません。
でもそんな高見沢栄先生も、アルフィーが初めて紅白出場するときには、嬉しさからか、アチコチに話していたようです。
自分は尊敬できないほうの先生の子どもです。
ただ親がクラシック好きではあったためか、山口貴指揮の演奏会のチラシがたまに自宅に送付されてきていた記憶があります。それをみて「キサマ(山口貴様=山口キサマ)から案内が来たぞ」と嬉しそうしてましたね。
先日(23日)に妹から電話があり、中学生の時(北区の北中)の音楽教師であった山口貴先生がNHKのファミリーヒストリー「アルフィー 高見沢俊彦」という番組のエピソードで出ていたと電話がありました。後日、再放送されましたので番組を見ましたが、紛れもない私の尊敬する山口先生の写真が映し出されていましたが、その写真に(1933年~2020年)とあり、昨年亡くなられたことを知りました。本当に残念です。
私は1963~1965年、北中学校の生徒でした。
アルフィーの高見沢俊彦氏の父親である、当時教頭であった栄氏の事は私には記憶がありませんので、私が入学したときには異動で他校へ移られていたのではないかと思います。
私の中では、中学校の先生といえば山口先生以外の顔は思い出せません。担任教師でもないのですが、
それほど強烈に印象に残っています。
私が入学して初めて山口先生にお目にかかったのは、音楽の授業でした。授業が始まるや否や、おしゃべりしていた男子生徒十数名にいきなりビンタの洗礼!度肝を抜かれました。
授業が終わり教室に戻って担任の女性教師にそのことを話し、なんてひどい先生だと文句を言うと、「そのうち、どんなに良い先生かわかるわよ」と言うのです。この担任も中学生の時、山口先生の教え子だったそうです。「そんなこと絶対にない!」とクラス全員が反発していたのですが、結果は担任の言うとおりになりました!
山口先生の音楽授業は、型にはまったようなものではなく、破天荒と言うか何と言うか、とにかく普通の授業ではありません。教科書なんかほとんど使いません。冗談ばかりの爆笑授業の時もあれば、一転してピリピリした緊張感あふれる授業の時もあるというもので、その日の先生の気分次第で決まる!のです。(今考えると、これもオーケストラの指揮と同じく生徒をコントロールしていたのかと思えます。)
その頃もグレた生徒は教師の言うことなど聞かず、好き放題の事をやっていましたが、そのグレた連中も山口先生の授業中は借りてきた猫のような状態で神妙に授業を受けていたのが愉快でした。なにせ山口先生の気迫は半端ではありません。その気迫に圧倒されてしまうのです。
先生は将来は指揮者になる、と公言していました。そして、その目標に向かって自分を律し、求道者のような生き方をしていると私には思えました。
私のいた北中の多くの教師は型破りな山口先生のことを良く思っていなかったようでしたが、私(私たち)は、先生の生き方や破天荒とも言うべき行動に人間的な魅力を感じていました。今風に言えば、オーラで輝いていたのです。私(たち)にとって真に尊敬できる唯一の教師でした。
また、私が後年、クラシック好きになったのも山口先生の影響が大きいと感じています。
私が中学3年生のときに山口先生が指揮者としてデビューするというので、クラスの何人かで聴きに行きました。会場は日比谷公会堂、演目はヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」、オーケストラは日フィル?か東響?だったか、合唱団はフィルハーモニー合唱団?。
演奏会のほうは、皆、山口先生の堂々たる指揮ぶりとほんものの音楽に感動し、先生に誇りを感じつつ帰途についたことを昨日のことのように憶えています。
その後、フィルハーモニー合唱団の指揮者として活躍し、アマチュア合唱団ではありますが数々の日本初演を果たしています。私も2回ほど定期演奏会に行き、スケールの大きな演奏に感動した覚えがあります。
また、同時期に中央大学音楽研究会混声合唱団でも長い間(18年間)指揮活動されていたようです。
兄弟にしては声が若いので、姪御さんかと推察していますが。
次の日に、もう一度ブログを見たら同じように感じた方々がたくさんいらっしゃったんですね。山口先生と確信できました。山口先生の写真のキャプションに『○○~2020年』とありましたが学生時代に合唱指導いただいた記憶は今後も生き続けます。。
検索結果、アップされてる写真に間違いない!と確信しました。
懐かしい~。とても印象深い、忘れられない先生でした。
2020年没となっていましたね。
お元気な姿を拝見できなくて、残念です。
授業の様子は噂で聞いた通りですが、jimmyさん卒業前の校歌指導の話は初耳で 自分の経験が思い出され、面白かったです。
音楽室の控え室で指揮棒をふりながら練習していていた姿を見かけたことがあります。
上野の文化会館でたしかメサイヤを聞きにいきました.
口癖に若いころは...、中年になったら.....、老いたら....、といっていたのを覚えています。
私、hajime ニックネームの
JimmyでJimmyさんとは別人です
山口先生・・・
授業中に給食のおばちゃんを見つけると・・・
教室から大声で「おばちゃ~ん、今日の献立なに?」
と叫ぶ先生
だけど・・・ベジタリアンな先生
国語のU村先生に洋服を買ってください、と言う先生
ベルボトムジーンズとヘッドホン姿が印象的な先生
卒業式が近づくと愛車では出勤しない先生
(たぶん卒業生に愛車を壊される心配からか?)
卒業式では燕尾服に勲章が印象的な先生
私はⅠ橋区立S村第3中学校の卒業生です
昭和45ー47年k中で、音楽教師だった山口先生でした。教師しながら、日比谷公会堂等々でのコンサート開催。レクイエムの音楽が思い出にあります。ありがとうございました。
というだけで 懐かしさ を突き抜けて
ダイレクトに魂が
そう‼️
フィル唱魂 に揺り動かされます。
メサイア で 山口貴と300人の合唱団員たち
との衝撃の出会いから約2年間は
まさにエポックメーキング と呼ぶに値する
輝いた日々‼️
願わくば 今 ここ で
せめて 懐かしさ だけでも 共有したい‼️
山本直純氏の弟子というのは初めて耳にしました。山口先生と同じく故渡邊暁夫氏に山本氏も師事していたということは、wikiを見て初めて知りました。
また何かありましたら、書き込みお願いします。ときどき寄らせてもらいます。
お元気だと良いですね。
当時、トヨタのコロナ・イーグルマークと言う人気の車に乗っていたと思います。ソニーのカセットデッキをいつも授業に持って来てそれを再生して自分の指揮する姿を生徒に見せていましたね。音楽の抑揚は、その時に見て覚えましたね。理論より感情をどのように曲に取り入れるかをjimmyは、感じ取りましたね。
明日に架ける橋の抑揚は、原点になっています。第九の合唱を指揮する貴先生の後ろ姿は、情熱的で忘れられませんね。山本直純のでしと言う事を確か言っていたと思いますね。ブログにも書きましたが感じ方は、人それぞれなので先生から何も感じなかった人たちも大勢いると思います。自分の演奏する作る曲が一人だけでも伝わればすばらしいことだと感じています。
ギター止めちゃおうかなぁ・・・・思う時もありますが山口先生の当時の生徒に接する生き様を思い返すと
まだまだ頑張ろうと・・・・感じます。
jimmyさんと同じく中学時代に授業を受けた同業者がいます。彼はS二中です。jimmyさんも彼と同窓、それともT一中でしょうか?(一中と記憶していますがひょっとしたら二中?三中ではないはずです)音楽のテストだけ得点分布表が満点が100点ではなく、13点?などのエピソードともに鮮明な印象を話してくれたことがあります。
21歳の大学三年で先生の指揮で歌った超レアな曲を聴きながら、ググったらこのページに出会いました。
何か情報、またはエピソード等あれば教えてください。
でも生徒は,大勢なので感じ方も人それぞれ。
近年同窓会で貴先生の事を数人に聞く機会が有りましたが・・・・・やはり人それぞれ。
jimmyは、間違いなくこの先生と出会ってなかったら音楽に対する情熱は,保つ事が出来なかったと思います。人が輝いて見えた最初の偉大な先生との出会いでした。
jimmyは,凡人なので音楽を長く続ける事・・・・
それしか出来なかったのかなぁ・・・・・
ステージに立って人に音楽を聞いていただく
喜びは,宝ですよね。
中学生当時、先生の第九を聞きに行った時の感動は,今でも衝撃的な思い出ですね。
先生が体で音楽を表現するする姿は,jimmyがギターを弾く時にいつも頭の中で蘇って来ます。
中学の時に音楽の授業と言うより音楽の楽しさを教わりました。第九のコンサートで指揮棒を振る師の後ろ姿,学校の教師と言う二面性。これも生き方として有り何だと言う事も自分なりに解釈しました。
今だに先生の教えを自分なりに追いかけている様に思います。自分の作ったピリオドという曲に喜びの歌のメロデーが出て来るのは,当然の結果ですね。