今朝の
ご飯に、新米コシヒカリを炊いて 玉かけご飯にして
食べました 超美味しかったですよ。
秋の収穫時期は、いいもんですねえ! ハイ!
炊きあがったところ
たまごや本舗の生玉子で玉かけご飯
今朝の我が家の朝食
食後に庭の朝顔の花を撮る
結構いつまでも咲いています。
でもそろそろ秋ですから終わりですね!
こんな感じの今日この頃です。
それではまた!
今朝の
ご飯に、新米コシヒカリを炊いて 玉かけご飯にして
食べました 超美味しかったですよ。
秋の収穫時期は、いいもんですねえ! ハイ!
炊きあがったところ
たまごや本舗の生玉子で玉かけご飯
今朝の我が家の朝食
食後に庭の朝顔の花を撮る
結構いつまでも咲いています。
でもそろそろ秋ですから終わりですね!
こんな感じの今日この頃です。
それではまた!
我が家の菜園も、あまり収穫できるものがなくなってきました。
昨日は、かぼちゃの弦が伸び放題で里芋とミカンの木が覆われそうなので
全部途中で切りながら撤収しました。南瓜ももう末生りですが20個ぐらい
採れました。それにしても草が生えること生える事、夏は草刈り戦争です。
因みに、愛用の草刈り機は、マキタの草刈正雄という肩掛け機です。ハイ!
最初に植えたキュウリが終わり、2番目に植えたキュウリが採れだしました。
先日は、親戚から瓜をもらったので、青じそと青唐辛子を巻いて鉄砲漬け
を漬けました。今年二樽目でしたがとても美味く漬かりました。
夏は、これに限りますね! さっぱりしてご飯が美味しくなります。
食欲不振の折、美味しく食べられるのは、なかなかいいもんです。
来年は、瓜を作ってみようと思っています。
今日、8月1日は、当地のお寺様では、月遅れのお盆の月ですので
お盆にご先祖様を迎える準備として、お墓をきれいにして、迎えるための飾りつけを
する日になっています。 高灯篭(たかんどうろうと言われています。)の日として
昔から、行われてきましたが、ここ数年は、飾り付けて供物を上げたり、提灯を
揚げてくると、雨風で壊れると中の針金が出て始末に困るのと、
供物は犬やカラスなどに散らかされ墓地が汚くなってしまいます。
また、お盆の後に片付けないといけないので、お寺の檀徒総代さんや世話人さんが
話し合って、これらのものを持ち込まないために、飾り付けはしないことが決められました。
ですので、現在はこの行事と言っても飾りつけは行われていません。
昔は、今のように墓地がきれいに整備されてなく、土の墓地にそれぞれの家の
墓石が建てられている状態でしたので、飾り付けも簡単に出来る状態でした。
昔からの習わしで、8月1日の朝早く5時ごろから初めて7時ころに終了するのが
飾りつけのパターンでした。
同じ姓の親類のご先祖様の祀られている墓地がかたまってありましたので
それぞれの所でそれぞれの飾りつけを行っていました。
飾りつけは、まず集合墓地をきれいに掃除して、その後に 竹竿でアーチを作り
盆迎えに来たときにお供えしていく提灯を下げられるようにします。
この提灯は、迎えて道案内をする盆提灯とは別に少し小さめの提灯です。
このときに使う竹は
今年の春に生えた新しい竹を持ち寄って、それで作ります。
そして並行して、少し太い竹を6尺から7尺位(約2.1メートルほど)に切って
竹包丁で割って板状のものをたくさん作ります。そして少し細い丸い竹4本ぐらいを横にして
並べた上に、先ほど割った板状の竹を皮のほうを上にして、これも家で藁を編んで
作ってきた縄で組み上げていき、細い芯の竹を途中で折り曲げて土にさして公園などにある
背もたれの無いベンチのようにします。
これが、送り盆に各家庭からご先祖様を送って来た折に持ってきた
ご供物を上げる台になるのです。
こうして、共同作業で出来上がった飾り付けが済むと13日の迎え盆の日を待つばかりになります。
このように昔から、ご先祖様を敬い供養する行事が脈々と続いてきたのですが、こうした行事が
時代の流れとはいえ、一つ一つ消えていくのを寂しく思うのは、小生だけではないのだろう
と思っています。
お盆には、お施餓鬼という行事が各お寺さんで営まれると思いますが、当地の真言宗智山派
木崎山金剛院無量寺にあっては、7月の第1土曜日と決められており、今年もすでに先月に
とりおこなわれております。 お寺さんによってはお盆の最中の所や8月に行われるところが
多いのかなと思ったりしています。
全国各地に、いろいろな行事がたくさんありますが、少しづつ消えていくのは
寂しい限りです。
今、国を始め地方や市町村などでは、地方や地域で出来ることは地域でと謳っていますが、
高齢者介護にしても、子育て支援にしてもその他のことにしても
昔から先ほど述べた行事などに地域ぐるみで参加することで、お互いの絆を深め
支えあう土壌ができていたと思うのですが、 ただ行政の掛け声だけで
何のつながりも持たない人たちが協力して支援していける状況が生まれるとは
小生には、どうしても思えません。
昔を懐かしむだけでは、勿論前へ出られませんが、もっともっと絆を深めることを
していかないと、地域連携は難しいと思います。
今日は昔からの行事の日でしたので、ちょっとだけ振り返ってみました。
それではまた!
追伸
8月3日は、小生も応援し、選挙の結果当選し晴れて常総市長に就任される、
神達岳志新市長 の常総市役所への初登庁日になります。
市役所では、市長をお迎えするちょっとした セレモニーがあると思います。
小生も同じく熱烈応援した親戚の人たちと支援者として行って来ます。
後日またこの模様をお伝えできるかなと思います。
みなさん、熱中症に気を付けましょうネ!
平成28年7月25日(月)
日本唯一夢むすび大明神として知る人ぞ知る
阿波の大杉様にお参りに行ってきました。
首都圏中央連絡道(圏央道)の稲敷東インターから4キロメートルほどです。
競馬で知られる美浦のトレセン(稲敷郡美浦村)が有名ですがここから割と近いと思います。
当日は神社まで自宅から50分ぐらいで行けました。
〒300-0621 茨城県稲敷市阿波958番地
TEL.029-894-2613 FAX.029-894-3636
http://www.oosugi-jinja.or.jp
主祭神
◆ 倭大物主櫛甕玉大神
(やまとのおおものぬしくしみかたまのおおかみ)
配祀神
◆ 大己貴大神(おおなむちのおおかみ)
◆ 小彦名大神(すくなひこなのおおかみ)
あんばさまとは?
現在も多くの地域からの参拝者がございますが、厄除け・八方除け・星除けを中心として、夢むすび、交通安全などの祈願に訪れる方々が後を絶ちません。また末社、大国神社には金運をもとめて参拝される方々、勝馬神社には競馬関係者をはじめ、競馬ファンの方の参拝が多くございます。さらに相生神社は子授けにご利益があるとされ、子授棒を求めて来られる方がたくさんおられます。
『常陸風土記』に登場する「安婆嶋 – あんばさま」
大杉神社の鎮座する場所は現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に西から東に向かって突き出すような地形のほぼ突端に位置していました。『常陸風土記』には安婆嶋として登場しますが、半島状地形にもかかわらず、半島先端に比べ、かなり西側でくびれた地形をしていたため遠映としては島状の様子を呈していたため、安婆嶋と呼称されたといわれております。
大杉神社の巨大な杉「安婆嶋 – あんばさま」
この一帯はかつて菟上之国という霞ヶ浦東岸域と東総域を治めていた小国の一部であったと伝えられております。菟上国は海上国とも表記されるように常総内湾の交易、産物を中心として成立した小国であったようですが、こうした影響からか常総内湾においてランドマークの役割をはたす、大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、人々の交通標識の役割を十二分に発揮していたと考えられます。後に内湾の西にあった茨城国に支配されるまでは菟上国のもっとも重要な神社であり、菟上国造の祀る神社のひとつでありました。その後北方の仲国から南下してきた一族が鹿嶋、香取の両神社を築き、東岸域を支配するとその交易権や、支配権は移譲されたものの、一般民衆の間では依然として海河守護の神様としての信仰は温存されつづけられました。
「ねがい天狗」「かない天狗」
神護景雲元年(767)当時都が置かれた大和国(現・奈良県)を旅立った勝道上人は、下野国二荒山(栃木県日光)をめざす途上にあり、大杉神社に着くとそこで病苦にあえぐ民衆を救うべく、巨杉に祈念すると三輪明神(奈良県三輪の大神神社)が飛び移り、病魔を退散せしめたところから、やがて大杉大明神と呼称されるところとなりました。この大杉神社を御守護申し上げるべく延暦二十四年(805年)には別当寺として安穏寺が開基され、以降明治になるまで大杉神社は安穏寺の管理するところとなりました。文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は烏天狗を御眷属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。時代は下って、江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にあった天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られ、以降天海は安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えました。このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める、上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなりました。
海河守護の神様としての信仰
家康の江戸入府以降それまで東京湾に注いでいた利根川の河川改修により、銚子へと流路を替えた利根川は、水郷流域と江戸を結ぶ河川として流域は急激な発展を遂げ、海河の守護神としての大杉神社もまた急速な信仰域の拡大を遂げることとなりました。それまでは常総内湾域であった信仰域は利根川流域のほぼすべての河岸や流域にとどまらず、鬼怒川、小貝川をはじめ、これらに注ぐ多くの川の流域や、各河岸に通じる街道周辺にも拡大。さらに太平洋岸から日本海へと海民の移動と共に信仰が拡がり、盛時には北はカムチャッカ近くの千島列島から新潟にいたる日本海側のおもな河岸、漁港など。また千葉、東京を経て静岡いたる太平洋岸の地域、先述の河川や多摩川、養老川、小櫃川の流域など、かなり広範な地域に信仰がもたらされたことが知られています。
「あんば囃子・大杉囃子」
この信仰の流布にともない、「悪魔払い囃子」と称された芸能も各地に広まり、それぞれの地域で独自の展開をみせ現在も多くの地域で伝承されております。大杉神社の鎮座する稲敷市阿波では地名を採って「あんば囃子」と呼んでおりますが、多くの地域では「大杉囃子」「災禍囃子」などと呼称されております。元和三年(1617)に銚子の田中玄蕃が醤油の醸造の成功祈願の御礼として、十二座神楽とともに紀州より伝えられたのが初源とされております。十二座神楽は椿海の干拓成功とともに千葉県旭市を中心に広がりましたが明治末期に旭市で廃絶した際には再度当社より伝承し、昭和初期に一部の演目が絶えた際には大杉神社に逆伝承されました。
大杉神社の様子です。
その昔、享保13年に焼失する以前の社殿群は、豪華絢爛なもので「あんば参れば日光見るに及ばず」と言われるほどであったと伝えられているそうです。
このことから、「茨城の日光東照宮」の異名があるそうです。
入り口の灯篭群
本社殿の右方向 御祈祷後のお札や厄除けお守り等を授かるところです。
本社殿の大杉殿正面です。
麒麟門
この門の扉が開かれることはないそうです。ここが江戸の鬼門守護社だからだそうで、この扉を開けると
江戸(東京)には多くの魔物が侵入するためだそうです。
言われてみると確かに日光東照宮に似ているように感じますよね!
厄除けの撫で桃と言うそうで、この石を撫でると厄が除けられると言われています。
3つありましたので、すべて撫でて厄除けをお願いしました。
なかなか豪華絢爛な感じがしますね。創建当初のものはこれの何倍もすごかったと伝えられているそうです。
縁結びにもご利益があるそうで、破風の下の飾り穴がハート形になっていました。
宝暦の大震災、富士山の大噴火、相次ぐ災難をよけるため江戸の鬼門に建てられた麒麟門。
麒麟は平和時にしか姿を現さないとされる霊獣です。
本社殿
手水舎の龍
神社入り口の門です
御祈祷受付所付近
駐車場方向から入ったところでくつろぐ猫ちゃんを見つけました。のんびり寝ています。
ご神木の太郎杉は、寛政10年に焼失して、現在のご神木は樹齢千年の次郎杉と樹齢400年の三郎杉です。
この「大杉神社」は、抜粋記事にもありますように、
「アンバ神」と称され、神霊が巨杉に宿ることから、「大杉神社」と称されるようになりました。
この「アンバ神」を守護する神様でかつては、房総半島北部域から茨城県東南部一帯を支配していた
「ウナカミの王」を祀る「日の神様」でありました。
霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域、鬼怒川下流域、牛久沼を包含して余りあるいわゆる
常総内海の守り神であり、「ウナカミの王」の最も重要視した神社であったそうです。
悪魔祓いの「アンバ様」と称され常総内海やその周辺で暮らす人々の信仰は絶えることなく、今も安穏を守護、多くの
庶民の祈祷を行う祈祷神社としての性格を担うこととなりました。
生活万般危難を消除するご利益があり、特に空亡徐(天中殺・大殺界除)の神様として多くの祈祷が行われているそうです。
今回初めて、大殺界の厄除けを知り、家内と孫が今年、大殺界にあたっておりましたので、お守りを迎えてきました。
この大杉神社は、小生が生まれた鬼怒川下流域、実家のある地区の村の鎮守様がこの大杉神社の流れをくむ神社であり、
昔から、年に一度神社の祭礼の時に、阿波まで氏子の総代さんたちがお参りして、各家のお札を迎えてくる
習わし(お祭り)が現在まで続いています。
この地域の神社の祭礼を「大杉囃子」と言い、小生が子供のころ、今から50年以上も前の話ですが、
祭礼の日に各家の子供のうち一人が出て村内の各家を皆で回り厄除けをして回りました。
その際、各家々からお礼の駄菓子やお小遣いをもらって歩くのが子供たちの「大杉囃子」でした。
そして祭りのフィナーレに、集まった小銭を人数で割って分けました。そのお小遣いを持って
全員で当時、近くに1軒だけあった食堂に行き中華そば(今のラーメン)を一杯食べて帰るのが楽しみでした。
当時は農家ばかりの所でしたので、食堂に行くなどというのは、年に1度大杉様の日だけでしたので、
とても楽しみでした。
当時の中華そばは、値段が1杯40円から50円ぐらいだったと記憶しています。大
杉様で頂くのは、一人当たり60円か70円ぐらいだったと思います。
今は隔世の感がありますが、子供のころのとても楽しみな思い出になっています。
小生には、このような思い出があるものですから、大杉神社に行くと当時のことを昨日ように思い起こさせてくれます。
神社も信仰には地域性がありますので、話がピンとこない方もあるとは思います。
小生は過去何度かお参りに行っていますが
家内は行ったことがなく、ネットで見るととても立派なので行ってみたい。というので二人で行ってきた次第です。
その昔は、村の代表が歩いて阿波まで行き、お札を迎えてきたそうです。さぞや大変だったことでしょう。
今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
それではまたの機会に!
昨日は、常総警察署で運転免許の更新をしてきました。
朝一で手続きするために、午前8時10分ごろ警察署へ到着し
さっそく中へ、受付事務は8時半からですが、
入ると中の安全協会の窓口で番号札をとります。
順番はタッチの差で2番の札でした。
番号札を取った後は、開始の時間までロビーで待ちます。
開始の8時半頃は十五六人はいたかなと思います。
時間になり、コールされ窓口へ
手数料3千円と安協の会費2千円を支払い、トータル5千円でした。
その後、目の検査を行いました。前回の5年前より大分視力が落ちて
裸眼では、一番上の欄のリングの切れがどの方向にあるか全く見えません。
眼鏡をかけては、ばっちり見えますが、今回から運転のすべてにおいて
眼鏡使用に条件が付きました。
日ごろから眼鏡をはずして過ごすことはないので、
なんら問題はないのですが
その後写真の撮影をします。今は昔と違いデジタルですので、免許証に
直接印画されます。
最後に30分間の 優良運転者の講習があります。
現在は、時間の差がありますがすべての更新者に講習があります。
ちなみに小生は、現在のゴールド免許制度ができてから、
すべての更新がゴールドできています。
次の更新時期は、70歳の年です。
講習後に、新免許証を受け取って更新手続き終了です。
所要時間は約50分間でした。
常総警察署(昨年の関東東北豪雨では、水没しましたが、現在はきれいに復旧しました)
での免許更新のひとコマでした。
ではまた!
我が家の
家庭菜園で南瓜が収穫できるようになったので
親戚へ送ることにしました。 南瓜3個で8キログラムぐらい
そのほかに、トマトやその他のものを合わせると20キログラム近く
になってしまいました。
中身が高価なものであれば、料金も気になりませんが
南瓜ごときに1千700円も払うのは、買った方が安いかもと思ってしまいます。
そこで、以前に近所の方からジョイフル本田へ持っていけば、
重くても軽くても箱が大きくても小さくても500円ちょっとしか、
掛からないよ! と聞いていたので ちょうど土曜日に墓参り用の
お花を買いに行く予定があったので、持って行って送ってみることにしました。
最初は安かろう悪かろうのようなことは無いのかな?と思いましたが、
宅配業者は佐川急便でした。
カウンターに持ち込んで手続きしましたら、料金は、関東一都六県であれば、
大きさ重さに関係なく一律で550円とのことです。 随分安いでしょう。
黒ねこをよく使っていますが、今回の重さと箱の大きさだと1680円ぐらい
します。 今回は買い物ついでに行きましたが、難点は、荷物を直接持って
いかなければならないことと、送り状をその場で書かなければならないことです。
送り状は他店で正規の料金では使えない専用に印刷しているためだそうです。
書くのは家でもお店でも同じなので問題はないと思います。
気になる運送ですが、茨城から神奈川に送ったのですが、土曜の午前に
依頼して、日曜の午前に着きました。
黒猫やその他の会社と遜色はありませんでした。
安いことを聞いててよかったと思いました。
ものによっては、送料で買えちゃったりすることもありますからねえ! ハイ!
今度は秋のお米の時期にでも利用しようかなと思っています。
今日は今どきの宅急便事情をお届けして、終わります。
それではまた!