やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(18)

2007-07-16 21:15:38 | 古代史
 番外編(2)で紹介しました「天の原振り放け見れば春日なる…」の歌(阿倍仲麻呂、古今和歌集)のもととなった歌が、万葉集にあるそうです。
阿倍仲麻呂を紹介しました時、仲麻呂は太宰府で生まれ育った…と、衝撃的な結論に行かざるを得ないことも申しましたね。

 さっそくいってみましょう。
万葉巻二、147番歌です。

元暦校本:近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇諡曰天智天皇
      天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
     天原 振放見者 大王之
       御壽者長久 天足有              (147番歌)
      一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉献御歌一首

通説:旧大系本、新大系本、小学館本による
  表題:近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代
          天命開別天皇、諡して天智天皇という
      天皇聖躬不豫(みやまひ)の時、太后の奉る御歌一首
   (後書)一書に曰、近江天皇の聖躰不豫(みやまひ)したまひて御病急(み
       やまひにはか)なる時、太后の奉献’たてまつ)る御歌一首
  読み:天の原 振り放(さ)け見れば 大君の
       御壽(みいのち)は長く 天(あま)足(た)らしたり
  意味:(旧大系)大空を仰いでみれば、大君の御命は長久に、天いっぱいに
          満ち満ちている。
     (新大系)大空を振り仰いで見ると、大君のお命は永久に、長く大空に
          満ち溢れております。
     (小学館)大空を振り仰いで見ると、大君のお命はとこしえに長く、
          空に満ち満ちている。
  解説:(新大系)天皇の平癒を祈念し、「御寿長久」と寿命の永遠性を予祝し
          た歌。太后は皇后倭姫王。
     (小学館)"天の原"は大空。"振り放け見る"は振り仰いで遥かに眺めや
          ること。"天足したり"は空いっぱいに満ち満ちていらっしゃ
          る、天皇の命の長久を祈念する表現。

 古田先生は、明らかに表題(や後書き)の表す状況に、歌の内容はそぐわない(似つかわしくない)、ふさわしくない…といわれます。
皇后の倭姫が歌を捧げる当の本人の天智天皇が明日をも知れぬ身であるときに、「天の原振り放け見れば」などというあさってを向いたような歌を歌うだろうか。「急(にはか)に病になられた」時に「御命は長久に天に満ち満ちている」などのおべんちゃらが言えるものだろうか。いやこれは「天皇の命の長久を祈念する歌だ」といわれても、なんだかピンとこない…と。

 古田先生は、次のように考えられました。
1)前書き・後書きは第二史料だ。やはり「歌」本体で考えなければならない。しかし万葉集の場合、作られた「時代」は前書きなどの通りが多い。逆にいえば、万葉集の編集者は歌の作られた時代・時期を知っていて、それにふさわしい時代に当てはめ、また表題などをつけた可能性が高い。
2)よって「天智天皇の時代の作歌」とすれば、仲麻呂の論証からしてこの「天の原」は壱岐の北端部の地名であろう。そして動作方向は、博多湾岸から北上しているのだ。つまり、那の津を発って壱岐の北端部の「天の原」に来たとき、筑紫の方を振り返って歌を作ったのだ。
3)では何故「真の作歌者」は、このルートを通って北上しているのだろう。それは「天智の時代」であれば、「白村江の戦いへの出征」(する兵士)、それ以外にはない。再び祖国の土を踏めるのか…。いや、なかろう。
4)この兵士は、何を見たのだろうか。自分の故郷にある「長垂(ながたれ)山」だ(いま、糸島半島の東、今宿と下山門の間に「長垂トンネル」がある)。すぐ東の室見川の上流には、九州王朝の原点ともいうべき「吉武高木」陵墓がある。この陵墓に参拝した後、長垂山のある那の津より出航したのだ。そしてこの「長垂」を取り、「御寿は"長く" 天"足らしたり"」と詠み込んだのだ。
5)この兵士は「天の原」の地点で振り返ることによって、「天の原ではるばる(筑紫を)振り返ってみると、(わたしは死ぬでしょうが)長垂山の向こうに鎮まります代々の筑紫倭国の王者たちは、永遠のお命を保っておいでです。(筑紫王朝は、永遠に続きましょう)」と詠っているのだ。
6)時間的順序からして、阿倍仲麻呂はこの先行歌を知っていた! 作家者の名もわかっていたのかもしれない。だから遣唐使として派遣される時、壱岐の北端でこの歌を口ずさんだのかもしれない。そして明州での宴で、筑紫の春日山(宝満山)から出る月を歌おうとしたとき、自然に「天の原振りさけ見れば…」の上の句が浮かんだのだ。仲麻呂が知っていたことから、147番歌の作歌者は筑紫倭国の兵士である。本当は、証明の方向は逆かもしれないが…。
7)仲麻呂の時代、もう筑紫王朝は亡んでいた。でも「天の原…」の意味合いは同じだったろう。先人は戦から帰れないかもしれない…、仲麻呂は遣唐使として無地帰国できる保証はない…。

 いかがでしたか、先生の論証は。この147番歌もまた、大和王朝に先行した筑紫王朝の存在抜きには理解できない歌でしたね。
なお、「天の原」の用例を調べられた結果、
A)「天の原」=「天空 sky」とみられる場合
    (巻三)  289、317番歌
    (巻十)  2068番歌
    (巻十三) 3324番歌
    (巻十八) 4125番歌
B)「天の原」=「壱岐の北端部(地名)」と考えられる場合、
    (巻二)  147番歌 (通説ではA)だが、上記論証により)
    (巻十三) 3280番歌
    (巻十五) 3662番歌
    (巻十九) 4160番歌)
皆さん、ご自分の目で確かめられるのも一興ですね。

 これを記している時、三年前に続いて新潟地方に地震が襲ったというニュースを聞きました。本当にお気の毒です。力仕事はできませんので、わずかなお金ですが寄付をさせていただきたいと考えています。
どうか気持ちを強くお持ちになられて、復旧にがんばってください。

 しばらくこのブログを休みます。いや、閉鎖ではありません。また気が向いたとき、再開いたすつもりです。
皆さん、長い間有難うございました。しばしのお別れです。