やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(20)

2007-07-30 16:01:08 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その二)

 それでは、疑問点・問題点を一つ一つ解きほぐしていきましょう。古田先生の著書、「壬申大乱」によります(ほとんどわたしの意訳ですが…)。

1)この持統天皇が御幸されたという「吉野」はどこでしょうか。「当然それは、大和の"吉野"だろう。通説では、誰もがそれを疑ってはいないからな」「しかも吉野川のそばに"宮瀧”という所があり、そのむかし”宮”があったということを聞いたぞ」…。これが当然の理解ですね。
しかし書紀における”亡くなった夫である天武天皇を慕っての三十一回にわたる「天皇、吉野宮に幸(いでま)す」記事”は、”九州王朝衰退への道(3)”において解説しましたように、「九州王朝の天子の”白村江の戦い”前の肥前吉野新北の津への軍船建造の視察・進水式への出席・軍船と兵士の閲兵」…と。あの「三十四年のズレ」によって、持統紀の年代を三十四年前にもっていったときの解釈が、三十一回の吉野幸に最も納得がいく説明が得られた…ということでしたね。
ですからこの問いに対する答えは、”肥前吉野”である…ということです。「吉野ヶ里」はご存知ですよね。「里」は条里制の名残だということも…。佐賀市内にも”兵庫町吉野”という字(あざ)もありますし、佐賀市内を貫通する嘉瀬川の上流には「吉野山キャンプ場」もあるそうです。因みにこの嘉瀬川はいまでこそ下流は南流して直接有明海に注いでいますが、江戸時代の治水前までは東流して筑後川に合流していたそうです。ですから普段は穏やかな流れでしょうが、大雨が降ればすぐ堤防を越えて佐賀の城下は水浸し…というありさまだったようです。また太宰管内志によれば、杵島郡蔵王権現の項に”木庭吉野御嶺”もある…と。つまり、肥前は「吉野」だらけ…。
なお”和名抄”によれば、「肥前国神崎郡宮処(みやどころ)」とありまた”肥前国風土記”にも「宮処(みやこ)の郷。郡の西南の方にあり」とあるそうです。まさに「吉野の宮」でしょうね。

2)では次に「吉野の川(37)」「吉野川(38)」です。上流に「吉野山キャンプ場」もあることから、いまの”嘉瀬川”でなないでしょうか。地図を準備願えませんか。出来れば、”10万分の1”の「九州自動車道」などがいいですね。佐賀市の西を流れる嘉瀬川を見てください。その長崎自動車道の北、景勝地の川上峡あたりから北です。嘉瀬川に沿って国道263号線が、東を通り福岡市へ向かっています。そして西岸には、嘉瀬川に沿うように国道323号線が走っていますね。
ではその上流より、下流に向かって323号線を辿ってみましょう。畑瀬から下った嘉瀬川は古湯温泉(富士町)を少し過ぎると、突然東に向かいます。名勝(雄淵・雌淵の)雄淵の瀧を右に見ながら東流し、鮎瀬を通り鮎瀬橋をくぐって湯の原へ来ます。この辺りは、北の小副川という地名から名づけられた小副川川と嘉瀬川がぶつかるところです。しばらく行って三反田あたりで、南流に変わる…。
因みにこの”雄淵の瀧”は高さが約75mもあり、直下する一大瀑流だそうです。大和吉野川にはない”瀧”が、ここ肥前吉野川には現存するのです。このあたりが「秋津の野辺に宮柱太敷き…水激つ瀧の都…」があったのでしょうか。そういえば古湯温泉のすこし北に、”御殿”なる地名も見えますが…。
また鮎瀬や鮎瀬橋の地名は、昔この辺りが”瀬・やなを利用した鮎(アユ)漁の場”であった名残でしょうね。「上つ瀬に鵜川を立ち 下つ瀬に小網さし渡す(38)」と詠われた所でしょうか。そして”川”の重複名を持つ小副川川は、字使いに優れた人麻呂によって「逝(ゆき)副う川の神も(38)」と歌い込まれたのではないか…といわれます。そしてまた、両川の合流地点である湯の原辺りの嘉瀬川の様子が、”激つ河内(38、39)”ではないか…とも。
わたしもいっぱしの古代史愛好家をきどって、三年ほど前嘉瀬川沿いに従兄弟と弥次喜多道中をしたことがあります。いまはえぐれて深くなっていましたけど、川幅はけっこうに…10-20mほどはあったのではないでしょうか。もしもっと川底が浅く水が豊かに流れているとすると、両岸の行き来には当然舟が必要でしょう。また上流より下流へ行くには、ゆったりとした流れに乗ったり、渦巻く波を乗り越えることもあっただろうと想像できました。そしてまた国道にのしかかってくるような周囲の山に、巨大な磐が緑の中から顔を覗かせていました。地震で一揺れしたら、ひとたまりもなく落石が起こる…(わたしの実見です)。

3)少し細部の検討です。(36歌)の最後は「瀧の都は見れど飽かぬかも」と詠まれていますが、元暦校本では「瀧之宮子波見礼跡不飽可問」ですね。この「宮子」を「都」としてきたのですが、古田先生は「字使いに秀でた人麻呂であるから、それは不当」とされました。人麻呂は「子」を以って、「太宰府のような大きな都にあらず、天子のとどまられるいおり(庵)・離れ屋・小さな離宮…」を連想させようとした…といわれます。確かに大和吉野川の「宮瀧」に宮があったとしても、肥前吉野川に「宮子」があったとしても、誰も”巨大な都”とは思いますまい。あるいは”避暑地の行宮(仮の宮)”であったかもしれません。
次に(38歌)の「高殿を高知りまして登り立ち国見をせせば…」です。これは”御殿”という意味ではなく、一種の”展望台”であろうといわれます。これに登って、周囲の景観や「上つ瀬に鵜川を立ち下つ瀬に小網さし渡す」”鮎漁”の様子をご覧になっているのだ…とされました。
同じ(38歌)にある「逝副川之…」は「行き沿う川の…」とも読まれていますが、これは「小副川川」が詠い込まれている…といいました。この「逝川」を「流れ去る川」の意味に使った例が、「論語」にあるそうです。孔子の言葉に「子(し)、”川上”にありて曰く、『逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。』と」とあるそうで、論語の素養をベースにした詠い込み…という人麻呂の教養の一端に触れました。そしてこの論語を用いた真意は…?、”大王の舟”は「激つ河内に船出」をして、やがて下流の「川上」(いま川上峡がある)に到ることを暗示しているのではないか…と。

4)次は(38と39番歌)にある「(山川も)依りて仕ふる神の御代かも、依りて仕ふる神ながら…」の、「依りて仕ふる」問題です。前回を見てほしいのですが、新・旧大系本も小学館本も、いずれも「(山や川の神が)共にお仕えする(神にまします)天皇の(御代で…、御心のままに…)」と、”(持統)天皇を山・川の神の上位においた解釈!”をしています。これは小学館本の”解説”に、顕著に示されていました。しかしそれは上記の作歌場所を”大和枠内”から離脱しえない従来の学者、かつ(万葉235および241番歌)をなんら批判(決して非難にはあらず、歌の内容や時代背景を考慮した論証を言う)もせず受け入れた国学者、の解釈ではないでしょうか。
作歌場所を「肥前の吉野川」とすれば、どうなるでしょうか。「雄淵の瀧」の脇を登って瀧の最上段を越えたとき、眼前に”巨石郡”が出現するそうです(わたしは残念ながら登っていません。が、上記2)でも言いました)。これら巨石郡への信仰は、はるか縄文時代にまで遡るだろう…と。嘉瀬川(吉野川)とそれを取り巻く巨石を抱えた山々、これらは”大自然の神”に仕えている…。これら山や川の神々は、”大自然の神”に「依りて仕へ」ている…。これが人麻呂の自然観だ…と。
このような大自然の「姿」はいつからあるのか。当然「神の御代」である悠遠なる”古”から現代(7世紀)を通り、このあとも変わることはあるまい。――これが人麻呂の歴史観だ…と。
いまの”大王(大君)”は、ほんの一瞬だけこの地を支配しているに過ぎない…。だから(38歌)の「わご大君神ながら神さびせすと…」は、大君が「神である」ことを示しているのではない。逆に「神でない」こと、すなわち「人間である」ことを示している…と。これまでの学者は、この壮大なスケールの”視点”を見失っていたようです。”神でないから”こそ人間として、大君は「神の御代」のムードに触れるべくこの大自然の中にやってきたのだ…と。

5)同じく(38歌)の「(川の神も)大御食(おほみけ)に仕へ奉(まつ)ると」の「大御食」です。これは「大王の大御食」などではない。「大自然の中心の神」、言い換えれば「畳づく青垣山」に対する供え物である…と。「山自身を(大自然の)神とみなす」、古代の神の概念ですね。

 この四首には、「中心の神としての自然神(青垣山になぞらえた)」と「山や川の神」がいて、一瞬の支配者としての「わが大君」がいます。自然神に対し、山の神は春には花を秋にはもみじを奉り、川の神は自然神の食卓にアユを奉ります。
山や川の神が天皇に仕えていると解釈して、人麻呂を”超天皇主義者”に仕立てては決してならないのです。

 古田先生は、この四首にかかる”意味”を示していらっしゃいません。ですから上記の解説をもとにして、わたしの責任において”意味”を記してみます。うまく人麻呂の本意が伝わるかどうか、身の程知らずな大冒険です。皆さんが考えられる”意味”がよければ、そちらを採用…!?

(36番歌)わが大君がお治めになる天下(領地)に国は数多くあるが、山や川が清
  らかな谷間だとお心を寄せられた吉野の国の、秋津の野辺(嘉瀬川つまり吉野
  川河畔)にしっかりと行宮(仮の宮・離宮)をお建てになられた。そこで太宰
  府の大宮人らは船を並べて朝に川を渡り(宮に出仕なされ)、夕には競って舟
  でお帰りになる。この川の流れは(大君の御代と同じく)絶えることはなく、
  山は(御徳のように)高く、それらに囲まれた流れの激しい川を前にしたこの
  「瀧の離宮」は、いくら見ても見飽きることはない。
(37番歌)見飽きない吉野の川の常滑のように、またこの地へ還って来ていつも絶
  えることなく眺めていよう。

(38番歌)わが大君は、神のように神らしく振る舞ってみようと(自然の神に寄り
  添ってみたいとお思いになり)、吉野川の水が激しく流れるほとりに高い櫓
  (やぐら)を立てて眺めて見られると、幾重にも重なった青垣山の(自然の)
  神は春には花を秋にはもみじを(山の神に)捧げられ、流れ去る川の神も鵜追
  いや小網(さで)で獲ったアユを(自然の神に)奉っている。山の神も川の神
  も心から(自然の神に)お仕えしているさまは、あぁー、まさに神代の出来事
  だなぁ。
(39番歌)山や川の神もお仕えする自然の神のように、大君は激しく流れる川の中
  に舟遊びに船出をされることよ。(行き先は、”川上”だ。)

 うまく意味が通じますか。ではこの辺で…。