やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(17)

2007-07-12 14:28:38 | 古代史
 これまでの番外編(2)から(16)まで(ただし<人麻呂、終焉の地>四回を除いて)、九州王朝の存在を前提にしなけれは理解しがたい歌を紹介してきました。しかし「歌の聖」といわれる人麻呂の歌は、他にも多くあります。
今回はまず、万葉集に初出といわれる長歌および反歌二首を紹介しましょう。もちろん古田先生の著書「人麿の運命」をもとにして、先生の思考理路の通り紹介します。その方がよく歌が理解できる…と、わたしは思うからです。

 「第一章 近江のまぼろし」と題され、まずは反歌から入られました。
今回は、元暦校本による「原歌」は省きます。ご了承ください。

通説:読みは「人麿の運命」に引かれた「旧大系本」による。意味・解説は、
   「小学館本」も採用した。
  読み:ささなみ(楽浪)の 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど
       大宮人の 舟待ちかねつ          (反歌30番歌)
  意味:ささなみの志賀の辛崎は昔と変わらずあるが、昔の大宮人の舟は
     いくら待っていても来ない。(段の取り消し、句読点は筆者)
  解説:幸くあれど…変わらずそのままにあるが。大宮人…近江京の官人。
     待ちかねつ…待ち望んでいるが叶えられそうにない。

 天智天皇のおいた近江京の官人らは、確かに「志賀の辛崎」から舟遊びしたことはあったろう。しかし、何かがおかしい。「幸くあれど」…"志賀の辛崎のほうは幸いだった、いまもそうだ。しかし一方、大宮人は(…幸せではない)"、そう歌っているのだ。地形そのものに「孝・不幸」はない。「変・不変」があるだけだ。しかしその「不変」を「孝」として(人麻呂は)捉えている。だが大宮人のほうは、「変」であり「不幸」だった…と。そして「舟待ちかねつ」。近江京の舟遊びで、"戻って来なかった人"はいるのか。天智天皇は近江京で大往生したことは書紀に明記してあり、みな楽しく舟遊びして戻っているのだ。この史実と歌の内容が合わない。変だ…。古田先生はこう自問されます。

通説:同上
  読み:ささなみの 志賀の大わだ 淀(よど)むとも
       昔の人に またも逢はめやも        (反歌31番歌)
  意味:ささなみの志賀の大わだはこのように淀んでいても、昔の人にまた
     逢えようか(逢えはしない)。
  解説:大わだ…ワダは入り江などの湾曲部。淀むとも…大宮人に逢いたそ
     うにいま淀んでいる、たとえこのまま淀んでいるとしても。昔の人
     …近江京時代の大宮人。

 琵琶湖の西端、大津を囲む湾、それはいまも淀んでいる。そこから「淀川」は発している。だが、人麿が逢いたいという「昔の人」とは誰だろう。
船出したままついに戻らなかった大宮人、逢いたいけれど逢えない「昔の人」とは誰だろう、肝心の「昔」とはいつなのだろう。
古田先生の頭には、次々と疑問が生じました。そのモヤが晴れ始めたのは、その前にある長歌からだったそうです。見てみましょう。

通説:同上
  表題:近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知りの御世ゆ 生れましし
     神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下
     知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし
     奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る
     夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の
     国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下
     知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は
     ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 繁(しげ)く
     生(お)ひたる 霞たち 春日の霧(き)れる ももしきの
     大宮処(どころ) 見れば悲しも       (長歌29番歌)
  意味(旧大系本):神武天皇の御世以来お生まれになった天皇のすべてが、
     次々と天下をお治めになった大和の国をすてて奈良山を越え、何と
     お思いになったからか(小学館:どのように思われたのか)、田舎
     ではあるが、近江の国の大津の宮で天下をお治めになったという
     天智天皇の皇居は、ここと聞くけれど、御殿はここだというけれど
     いまは春草が繁く伸びている、霞が立って春の日ざしがにぶくかす
     んでいる、この大宮の跡を見れば心悲しい。
  解説:日知りの御世ゆ…神武天皇の御世以来。つがの木…類音によって
     ツギを起こす枕詞。置きて…捨てて。天皇の神の尊…スメロキは歴
     代天皇の尊称、ここは天智天皇。霧れる…おぼろげにかすんで。

 どの本を見ても大同小異で、「神武天皇以来、代々の天皇の都は大和にあった。それなのになぜか(第三十八代の)天智天皇は、この近江へ都を移された。」と述べた後、「天智天皇が亡くなられた後の"壬申の乱(672年)"による都の荒廃、近江京の廃滅を歌った悲歌だ」というのである。
 古田先生はこういわれます。江戸時代から現代まで、「天智の建てた近江の都の荒廃を悲しむ歌」だと理解されてきたのです。
このブログではスルーしたのですが、天武紀の上巻は、ご承知のように、こと細かに真夏に起こった「壬申の乱」といわれる内乱を扱っています。葛城皇子(天智)の死後子の大友皇子(即位したはずとして、明治に弘文と諡)に対し、(天智の弟といわれている)大海人皇子(天武)が反乱を起こした事件です。結局反乱軍が勝ち、人麿が活躍している現在、天皇鸕野(うの)姫(持統)は大海人の妃なのです。このような時代背景をご承知ください。
  なお「九州王朝衰退への道(6)」において、壬申の乱に活躍した天武の子
  高市皇子に捧げる挽歌だという人麿の"万葉199番歌"を紹介しました。しか
  しこの歌は、「冬から早春にかけて戦った冬の陸戦」の歌の換骨奪胎でした
  が…。

 本当に神武から天智まで、代々都は「大和」にあったのでしょうか。古田先生は「否(ノン)」といわれます。
現在の皇室の直接の祖継体天皇は、「山背の筒城」や「弟国」など転々としましたね。さらに遡れば、仁徳天皇は「難波」に都していました。それに何より、天智天皇の皇太子時代、孝徳天皇もまた「難波」に都をおいていました。ですから、歌の内容と史実が合わない…と、古田先生はいわれます。

 では神武天皇からいつのころまで、大和に都があり続けたのか…。先生は言われます。「代々の大和から近江へ」、このルートで遷都した天皇は、第十二代の景行天皇だけだ…と。
<五十八年の春二月…、近江国に幸して、志賀に居すること、三歳。これを高穴穂宮という。六十年の冬十一月…、天皇、高穴穂宮に崩ず。>(景行紀)
そして景行天皇のあと、成務天皇、仲哀天皇と高穴穂にて治められた…と。これを「第一次近江京」とすると、天智天皇の近江京は「第二次近江京」ということになりますね。ではこの三代続く「第一次近江京」で、「戻って来なかった大宮人」の悲劇はあったのか…。先生は「あった」といわれます。

 仲哀天皇は正妻の大中津姫と皇子の香坂(かごさか)王・忍熊(おしく)王を近江に残し、若い息長帯比売(おきながたらしひめ。神功皇后)を伴なって筑紫へ遠征し、その地に没した…と書紀は伝えます。そして筑紫で生まれた品陀和気(ほむたわけ。応神天皇)と帯比売が、近江の香坂王・忍熊王に反乱をします。権力の正統性からいえば近江朝の二皇子にあり、筑紫から来る品陀和気側にはありません。近江側の参謀は五十狭茅宿禰(いさちのすくね)、筑紫側には竹内宿禰がつき、権力の保持と奪取をかけて古の「天下分け目」の合戦が始まったのです。
その合戦の地は、「沙沙那美(ささなみ。記)、狭狭浪栗林(ささなみのくるす。紀)」であったと伝えています。
 そして竹内宿禰のだまし討ちに遭って、近江軍は敗走しました。近江軍は大津に集結し、船で近江京へ渡ろうとしました。しかし武運つたなく、忍熊王も五十狭茅宿禰も、多くの兵士らとともに琵琶湖の湖底に沈みました。
 
 しかし竹内宿禰は、事の成り行きに満足しなかったのです。
<淡海の海 瀬田の済(わたり)に 潜(かづ)く鳥
   目にし見えねば 憤(いきどほろ)しも>(神功紀摂政元年)
屍(しかばね)を目で確かめなければ安心できない…、執念深い悪鬼のような形相が見える…、先生はそういわれます。自分のほうが反乱軍だから、忍熊王がもし生きていたら…と恐怖に駆られたのでしょう。でもツキは、品陀和気軍のほうにありました。

<淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 
   田上(たなかみ)過ぎて 菟道(うじ)に捕へつ>(同上)
「而して後に、日経て菟道河に出づ。」のあとに、上の歌があります。まさに、あくなき執念! 第一次近江京は、四代目忍熊天皇で亡んだのです。忍熊天皇と近江京の大宮人らは、湖底に沈んで消え去ったのです。

 しかし第二次近江京の大友皇子は…、「山で首をくくった」のでした。
<ここに大友皇子、走りて入らむ所無し。すなわち還りて、山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)れぬ。>(天武紀元年七月条)

 どちらが人麿の歌の内容に合致しているでしょうか。通説のごとく「第二次近江京の悲劇」なのか、先生のいわれる「第一次近江京の悲劇」なのか…。当然、「第一次…」のほうですよね。ですから先生は、「これほど明確な差異に気づかず、ひたすら後者(筆者注:第二次近江京の大友皇子の自縊(じい)のこと)として解説し続けてきたとは、わたしにはどうにも信じがたい思いだったのである。」といわれます。

 人麻呂に、「柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来るとき、宇治河の辺に至りて作る歌一首」という表題を持つ歌があるそうです。
通説:「人麿の運命」に引く旧大系本、および小学館本も参照。
  読み:もののふの 八十氏河(やそうじかわ)の 網代木(あじろぎ)に
       いさよふ波の 行く方(へ)知らずも  (264番歌)
  意味:(旧大系)宇治川の網代木に、流れ来て漂い停滞する川波のように、
       何処へ行ってよいかわからない。どうしてよいかわからないこ
       とである。
     (小学館)(もののふの)八十宇治川の網代木の周りにためらって
       いる波の、行方もわからないことだ。
  解説:(旧大系)この歌、古来無常を詠んだ歌とされ、また"いさよう"と
       見えた波の行方が知れずになることを詠嘆していると見る説も
       ある。
     (小学館)作者は眼前の実景を述べてだけで、必ずしも仏教的な無
       常観を詠んだとはいえない。もののふの…八十ウジの枕詞、朝
       廷に仕える文武百官が多くの部族に分かれているところから支
       流の多い八十宇治川にかかる。

 無常観を詠んだのか単に実景を述べただけか…、しかし古田先生は「何か変だ」と思っておられたそうです。そんな薄っぺらな歌か…と。
しかし人麿の「29、30、31番歌」を探求されていた時、「これは、忍熊天皇を弔う歌だ!」と思われたそうです。忍熊天皇の屍は、目の前にあるこのような網代木に絡み付いて漂っていたのではないか…、人麿はそう思ったはずだ…と。そしてこの歌を詠んだ…。
それなのに後代の万葉注解者は、この著名な歴史上の事件からこの歌を切り離し、抽象的な「無常観」やその他のくさぐさの解説を行ってきたのだった。古田先生はそういって嘆かれました。――ここでもまた。…と。
そしてまた八十宇治川の枕詞といわれる「もののふ」、これはずばり宇治川を挟んで対峙した忍熊軍と品陀和気軍の「兵士」…だったのです。この歌はやはり、忍熊軍が敗走したあの宇治川の戦いを、読者に想起させようとしているのです。

 次に、戦場となった「沙沙那美(ささなみ)」について考えてみましょう。
<故逢坂(あふさか)に逃げ退きて、対(むか)ひ立ちてまた戦いき。ここに追い迫(せ)めて沙沙那美に敗り、悉くにその軍(いくさ)を斬りき。>(仲哀記)
岩波古事記には、「沙沙那美は近江国の地名。逢坂は山城と近江の境の逢坂山」とあるそうです。次は書紀、
<(忍熊王は)兵を曵きてやや退く。竹内宿禰、精兵を出して追う。たまたま逢坂に遇ひて破りつ。…軍衆走る。狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及びて多(さわ)に斬りつ。ここに、血流れて栗林に溢(つ)く(あふれる)。故このことを悪(にく)みて、いまに至るまでにその栗林の菓(このみ)を御所(おもの)に進ぜず。…>(神功紀摂政六年三月条)
その後、忍熊王は瀬田の済(わたり)に投身し、湖底に沈みました。
 これではっきりすること、それは「ささなみ(沙沙那美、狭狭浪)」といえば、古戦場だった…ことです。「関が原」といえば天下分け目の古戦場…、「広島、長崎」といえば原爆投下…、「ささなみ」といえば「第一次近江朝の滅亡の地」…その伝承の地となり想起するようになったのです。上記の文「故このことを悪みて、いまに至るまでにその栗林の菓を御所にせず」は、八世紀になっても「あそこの果実は進上物にしてはならぬ。何しろ、第一次近江朝の敗れた人たちの血をすすって生長した樹木、その呪われた果実なのだから」と言い伝えられていたことを示します。いわんや人麻呂に生きた七世紀後半においてをや…。

 そう理解された時、前に戻って「30、31番歌」を見てください。
二首とも「ささなみ」で始まっているではないか。当時これを見て、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの敗死」を思わない人はいなかったのではないか。長歌には「楽浪」と書いて「ささなみ」と読ませているところがある。人麿ほどの字の使い方がうまい人は、「楽しい浪」が「悲しい浪」に変わったのだ…と言いたかったのではないか。こう、古田先生はいわれます。

 一つなぞが解けると、次々ともやが晴れていく、…先生はこういわれ次の歌を示されます。二つ後の歌、「柿本朝臣人麻呂の歌一首」という簡単な表題の歌です。
通説:「人麿の運命」の中の旧大系本、および小学館本。
  読み:淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
       情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (266番歌)
  意味:(旧大系)近江の海の夕波に飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと心もうちな
        びいて、しみじみと昔のことが思われることだ。
     (小学館)近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと心も打ちひしがれ
        て、昔が偲ばれる。
  解説:(旧大系)古思ほゆ…いまは廃墟となっているが、壮麗な御殿の
        あった天智天皇の都の時代が思われる。
     (小学館)夕波千鳥…夕べの波の間を鳴いて飛ぶ千鳥よ。心もしの
        に…シノニはぐったりして力の抜けたような感じを表す(新
        大系:心も萎えるばかりに)。古思ほゆ…天智天皇の都が
        あった近江朝時代のことが思われる。

 ここでいう「古」とはいつのころだろう。原字もずばり「古」であり、「往方」や「以爾之辺」などではない…と。天智天皇の時代といえば、人麿の少年時代あるいは青年時代に当たっているようです。ほんの三、四十年前のことを「古」というのか。そのような時間差は「昔」ではあろうが、決して「古」ではない。古田先生はこのようにいわれます。
しかしいままでの論証で、私たちは理解しました。「古思ほゆ」とは、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの入水自殺の悲劇」…このことが思われるのだ…と。
この歌は人麻呂屈指の名歌…だそうですが、先生の解釈によれば、湖畔にたたずむ人麿に会えそうな気がします。

 さて、本題「29、30および31番歌」に戻りましょう。そして「264および266番歌」…も。これらの歌は、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの悲劇」を背景にしてこそ、人麿の心情がよく理解でき、さすが名歌だ…と膝をたたくことができました。
先生はいわれます。
これらの歌は「第一次近江朝の歌」である。そしてここから新たな問いが始まるのだ…。これら歌の"裏側"に隠れているものは、「第二次近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」ではないか…。単に通説に立ち返るのではない。考えても見るがよい。人麿の活躍した時代は、天武・持統の時代だ。第二次近江朝に反乱し、大友皇子を自決に追い込み、まさに勝った側の王朝だ…。どうしてあからさまに「第二近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」を歌えようか…。
しかし人麿が読者に「期待」したもの、それは「大友皇子の悲劇」へと人々の心を導くことだった…。しかし「直接」には出来ない…。だからこそ表面上は酷似した"歴史上の事件"を扱い、奥底では「現代の悲劇」の悼みへと人々の心を誘う、そこにあったのだ…。
この長歌の内蔵する「二重構造」、それはまことに危険な毒を含んでいた。当代の権力者側の視点"から"ではなく、「亡ぼされた人々」の"ため"の哀歌であったこと、その一点にこの「二重構造」の持つ真の秘密が隠されていた。人麿の生涯を導いた運命、それはこの一点から始まり、この一点に帰着する。読者はこの本の最終章を読み終えたとき、真相を知悉するだろう。その深い意味をありありと、如実に知ることであろう。
先生は、こう結ばれました。("新たな謎"という段は、省略しました。)

 いかがでしたか。人麿の本当の"すごさ"…。字使い、連想、二重構造…。確かに人麻呂は、「歌の聖」ですね。通説のような表面だけの解釈では味わえない、古田流解釈でしたね。