やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(16)

2007-07-08 21:38:46 | 古代史
<いづこなる「遠の朝庭」>

 古田先生の「人麿の運命」によれば、万葉集には「遠の朝庭(とほのみかど)」と読める文言を持つ歌が六例あるそうです。いや、たった六例しかない…といわれます。
通説では「都から遠く離れた朝廷…」ということで、「岩波書店新日本古典文学大系万葉集」によれば、実際は「太宰府や各国の国府などをいう」そうです。
しかし、本当にそうか。例えば宮城県の「多賀城」は「遠の朝庭」といわれたか、各地の国府がすべて「遠の朝庭」と呼ばれたか…といわれます。あるいは逆に「近つ朝庭」があるか…とも反問されます。そんなあちこちにあるようなべらぼうなことは聞いたこともない、私はまったく「否(ノン)」という…と。
では「遠の朝庭」はどこか…。六例を示し、先生の思考を辿りながら「遠の朝庭」の場所へとご案内いたしましょう。
なお「小学館本」とは、「小学館日本古典文学全集万葉集」をいいます。

1)まずは、柿本朝臣人麻呂の歌です。
元暦校本:柿本朝臣人麻呂下筑紫国時海路作家二首
     (一首目に303番歌がありこれも古田先生の解説は面白いのですが、
     今回は省きます。)
    :大王之 遠乃朝庭跡 蟻通
       嶋門乎見者 神代之所念      (万葉304番歌)
通説:新大系本、旧大系本、小学館本など
  表題:柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首
  読み:大君(おほきみ)の 遠の朝庭と あり通う
       嶋門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ
  新大系:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の
      昔が思われる。
  旧大系:都から遠くはなれた朝廷であるとして、人々が常に往来する瀬戸
      内海の島門を見ると、この島々の生み出された神代の国土創成の
      ころのことが思われることである。
  小学館:大君の 遠い役所として 通い続ける海峡を見ると 神代のこと
      が思い出される。
 他にも「有斐閣本」や澤潟久孝本などを紹介されていますが、解釈は大同小異のようです。「大王之遠乃朝庭」を、いずれも「大君の遠く離れた政庁・朝廷・役所」と解釈しています。すでに主権が大和に移った八世紀の歌ですから「筑紫に下る時」とありますが、筑紫に関連して用いられていることは確かでしょう。また「蟻通嶋門乎見者」を、「行き通い続ける海峡を見ると・人々が常に往来する瀬戸内海の島門を見ると・通い続ける海峡を見ると」としていて、「嶋門」の解釈に少し違いがあるようです。
新体系本によれば、「『嶋門』は島と陸地との間、島と島との間のような狭い瀬戸」とし、どうも「ここだ!」ということは無いようです。

 先生は、中国における「朝庭(朝廷)」の用法により、「朝庭」は「天子の居して天下に政を行うところ」である…といわれます。つまり「大王(大君)」は「天子」ではなく、すなわち「朝庭」は無いのだ…と。この歌における「大王」は持統天皇を指し、すなわち持統天皇は「天子」ではない…と。
筑紫には六世紀終盤あたりから「日出る処の天子多利思北孤」がおわし、代々太宰府の地で天下を統治された…。すなわち「九州王朝には『朝庭』があった…」と。だからどんなに学者が「朝庭とは遠い政庁」といっても、首を縦にふれないのだ…と。この理屈には納得がいきます。
なお「嶋門」について、通説では明石海峡・吉備の児島付近・関門海峡などの説があります。先生は博多湾岸の「志賀嶋と能古嶋の間」とされ、船路でいよいよ筑紫に上陸する時この両島を「門」として表現したのではないか…とされました。後の句の「神代し思ほゆ」という情景、つまり「国生み神話のおのごろ島」があり・近くに「イザナミの禊した小戸」があり・ニニギが「天孫降臨したクシフル岳」もある。私はこの説に納得しました。皆さんはどうでしょう。

2)次は山上憶良の歌…、長歌ですから関連あるところを示します。
元暦校本:日本挽歌一首
    :大王能 等保乃朝庭等 斯良農比
       筑紫国尓 泣子那須 …(後略)  (万葉749番歌)
通説:新大系本、小学館本による
  表題:日本語による挽歌一首
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ 
       筑紫の国に 泣く子なす …(後略)
  新大系:大君の遠い政庁として、(しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
  小学館:大君の 遠い政庁として (しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
 同じく、ここでも「筑紫国」に関連して「遠の朝庭」が用いられています。
やはり「九州王朝の朝庭」なのです。

3)三つ目は、聖武天皇自身の歌です。長歌の一部を示します。
元暦校本:(聖武)天皇賜酒節度使卿等御歌一首並短歌
    :食国 遠乃御朝庭尓 汝等之
          如是退去者 平久…(後略) (万葉973番歌)
通説:旧大系本、小学館本による
  表題:(聖武)天皇が酒を節度使の卿等(三人)に賜うた歌一首と短歌
  読み:食(を)す国の 遠の朝庭に 汝(いまし)等し
       かく罷りなば 平(たひら)けく…(後略)
  小学館本:わが治める国の 遠い朝庭に おまえたちが このように出向
       いたら 安心して…(後略)
 この"節度使"とは「東海(東山)道・山陰道・西海道節度使」を指し、前者に藤原房前を、中に多治比真人県守そして後者に藤原宇合を任命しました。ですから971番から973番の一連の歌は「西海節度使」を指しようです。まあ「お前たち」というように三人に酒を振舞った時の歌でしょうが、「食国遠乃御朝庭尓」から「西海道節度使」を念頭に置いた歌であることは間違いないでしょう。

 これは聖武天皇の歌ですから自らを「大王」というわけにはいかず、「食国」としています。古田先生が注目されたのは、「御朝庭」という表記です。通説ではさほど注目された風には見えませんが、「『御』字はこの字の使用者から『朝庭』(のある筑紫)に対する"敬称"を用いている」とされたのです。このような"敬称"は、地方の役所(政庁)に対して中央権力者が使うべきものではない…とも。ですからいまは"西海道節度使"の勤務する太宰府に使うのはおかしいのですが、「先の九州王朝の都としての太宰府」という意味で「朝庭」を使った時、この敬称である「御」字が生きてくるのです。先生は「かつて、ついこの間まで『朝庭』のあったところに"西海道節度使"として派遣するぞ」といった一見謙遜・寛容、しかしながら実は誇りに満ちた王者の「晴れがましさ」、それがこの「遠乃御朝庭」に込められていたのではないか…とされました。

4)第四は、遣新羅大使阿倍継麿の歌です。
元暦校本:到筑前国志麻郡之韓亭舶泊経三日…(後略)
    :於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼
       気奈我久之安礼婆 古非尓家流可毋  (3668番歌)
通説:小学館本による
  表題:筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ。…(後略)
  読み:大君の 遠のみかどと 思へれど
       日(け)長くしあれば 恋にけるかも
  小学館本:大君の 遠い(朝庭(政庁)に派遣された)使者だと 
       思ってはいるが 日数が積もると 家が恋しくなった。
 「大君の遠のみかど」とは、都から遠く離れた天皇の行政官庁、またはそこに派遣される官人をいう」と解説されています。

 しかし「遠のみかど」は、いままでの四例とも筑紫に関する歌の中だけにしか使われていないように見受けられますね。

5)次は雪連宅満の「家人」の歌です。長歌ですから関連箇所だけを示します。
元暦校本:到壱岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首並短歌
    :須売呂伎能 等保能朝庭等 可良国尓
       和多流和我世波 伊敝妣等能 …(後略) (3688番歌)
通説:小学館本による
  表題:壱岐の嶋に到りて、雪連宅満の忽ちに(図らずも)鬼病(えやみ)
     に遇ひて死去せし時に作る歌一首並びに短歌
  読み:天皇(すめろき)の 遠の朝庭と 韓国(からくに)に
       渡るわが背は 家人の …(後略)
  小学館本:天皇の 遠いお使いとして 韓国に 渡る貴君は
       家人が (慎んで待たないからなのか) …(後略)
 解説に「オホキミが現在位にある天皇を指すのに対して、スメロキは天皇の祖先としての歴代、あるいはそのうちの特定の一代をいう」とあります。「家人」とは死んだ宅満の遺族をいい、韓国に渡る「わが背」は宅満のことです。

 古田先生は、この歌を「天皇の遠の朝庭(として知られた)筑紫から、韓国へ渡ろうとしたわが背は…、の省略形ではないか…」とされました。「天皇」を「現在の天皇の先祖代々」と解釈しても、そうであれば「天皇の遠い朝庭」とは「先祖代々にとっての遠の朝庭」あるいは「先祖代々がお仕えしてきた遠の朝庭」という意味でしょう。

6)最後は大伴家持の歌です。やはり長歌ですから一部だけ…。
元暦校本:追痛防人悲別之心作歌一首並短歌
    :天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日
       筑紫国波 安多麻毛流 …(後略)  (4331番歌)
通説:小学館本による
  表題:防人が悲別の心を追ひて痛み、作る歌一首並びに短歌
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ
       筑紫の国は 敵(あた)守る …(後略)
  小学館本:大君の 遠い役所であるぞと (しらぬひ)筑紫の国は
       敵を監視する …(後略)
 解説で、「防人の配属される太宰府は、天皇の出先の行政官庁であるぞと」の意味としています。また「敵守る」は「外敵の来襲を防ぐ」意味から、「監視する」こととなるそうです。上記5)で「スメロキ」を「天皇」と表記していましたが、この歌では原字がずばり「天皇」なのにどうしてわざわざ「大君」と表記したのかわかりません。「天皇」のままで、5)とまったく同じとしてもいいのでは…と思います。

 古田先生引用による旧大系本では、そのまま「天皇(すめろき)の遠の朝庭と…」となっているようです。そして古田先生は、「『遠の朝庭』が『筑紫の国』と関連して用いられている点、いままでの例と変わりはない」といわれました。

 さてこの「遠の朝庭」は、六例とも「筑紫」そのものを指すか、「筑紫」を前提として用いられている…といわれます。これが単に「近畿天皇家の(遠い)地方の役所」を指すのであれば、何故他の地方政庁(多賀城など)に対して使われた例が無いのか、何故万葉以降の古今集や新古今に現れないのか、何故伊勢や播磨などわりと近い政庁に対し「近つ朝庭」などの例が無いのか。これらに答えられないであれば、「大和の都より遠い地方の役所」などの通説は受け入れられません。
 やはり「筑紫」に関連してしか用いられていない以上、「遠の朝庭」は「筑紫・九州王朝、その都太宰府」を指す…とすべきです。
では「遠の」とはどのような意味でしょうか。単に「都より離れて遠い」という"距離的遠さ"でしょうか。もし「遠の朝庭」が「九州王朝あるいは太宰府」を指すとすれば、当然"距離的遠さ"もあります。しかしそれ以上に"時代的遠さ"も含まれているとともに、"他の王朝である遠さ"もある…と、古田先生はいわれます。
つまり「現在大和の大王・大君にとっての太宰府」、あるいは「大和の代々の祖先がお仕えしてきた太宰府」という意味が含まれている…と。
ですから3)で紹介しました聖武天皇の「遠乃御朝庭」という字使い、通説では気にも留めず、「御」字を説明できなかったことも古田説ではよく理解できます。
 明治の学者吉田東吾が著した「大日本地名辞書」の「筑前筑紫郡太宰府跡」によると、「またこの辺の田畠の字(あざ)を内裏(だいり)跡・紫宸殿(ししんでん)などいふといへり。そは安徳天皇しばらくこの所に鳳駕をとどめ給ひしによりての名なりぞ。(ここに内裏跡云々とあるは虚誕のみ(うそばっかり))」と憤慨しています。しかし「紫宸殿」とは、唐朝における天子の宮殿の呼び名です。やはりここ大宰府には、天子のおわした「朝庭(朝廷)」があったのです。

 ちなみに大伴家持が、継体天皇の出身地である「越(こし)」に対して使った二例の「とほのみかど」を紹介します。
A)大王乃 等保能美可度曾 美雪落
   越登名尓於敝流 安麻射可流 …(後略)   (4011番歌)
  大君の 遠のみかとそ み雪降る
    越と名に負(お)へる 天離(あまざか)る …(後略)
B)於保支見能 等保能美可等々 末支太末不
   官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来…(後略) (4113番歌)
  大君の 遠のみかとと 任(ま)き給ふ 官(つかさ)のまにま
    み雪降る 越に下り来 …(後略)

 「筑紫」に対する「とほのみかど」の他は、「越」の継体天皇の(豪族時代の)拠点に対して使われた上記二例だけだそうです。
しかしよく見てください。「みかど」に対し4331番歌のように決して「朝庭」は使わず、「美可度(等)」で代用させています。中国を含む東アジア世界で特別な意味を持つ「朝庭(朝廷)」は、越の場合には決して"使えなかった"のです。ですから「朝庭(朝廷)」は、筑紫・太宰府に対してだけ…。

 いかがでしたか、"いづこなる「朝庭}"は…。「近畿天皇家の大王・その先祖にとっての(筑紫の)朝庭(朝廷)…」、ですよね。