やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(19)

2007-07-26 19:29:07 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その一)

 しばらくお目にかかれませんでした。いえサボりではなく、柿本朝臣人麻呂の歌で表題と歌の内容が合わないのがもっとあったはずだ…と探していたのです。古田先生の著書「人麿の運命」でもなく、「古代史の十字路―万葉批判」でもない…。
わたしの本棚にある著書で、人麿について書いてあったなぁ…という記憶を頼りに、片っ端から探しました。諦めてプララのブログに書いている物語「瀛(大海人)の皇子」で少し調べることがあったので(このブログは書き溜めていた物語を引き写しているので、めったに調べることはないのです)、「壬申大乱」(東洋書林、2001.10)を手に取ったところ、何とこの著書にありました!
で、もう一度読み込みましたので、再開します。

 結論から言えば、九州王朝の存在を抜きにしては理解できない…歌です。通説と比較しながら、古田先生の論証の跡を紹介しましょう。以下の四首は、広野姫(大海人・天武の妃、持統と諡)の時代におかれてあります。

 通説は、「壬申大乱」中の旧大系本、わたしの持つ新大系本(いずれも岩波書店(新)日本古典文学大系)および小学館本(小学館日本古典文学全集)とします。

元暦校本:幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
    八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 国者思毛 澤二雖有
       山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃国之 花散相
       秋津乃野辺尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖
       旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
       弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡 不飽可問  (36番歌)        ―反歌―
    雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟    (37番歌)

    安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多芸津河内尓 
       高殿乎 高知座而 上立 国見乎為勢婆 畳有 青垣山
       山神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 
       逝副川之 神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 
       下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨  (38番歌)        ―反歌―
    山川毛 因而奉流 神長柄 多芸津河内尓 船出為加母   (39番歌)
これらの歌は、番外編(17)で紹介しました「万葉29、30および31番歌のあとにあります。これらも意味深な歌でしたね。さて、今回はどうでしょうか。

通説:上記
  表題:吉野宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:旧大系本により、相違がある場合に( )内に新大系本また小学館本
     を記す。また( )には、カナ遣いも記す。
    (36)やすみしし わご(が)大君の 聞こしめ(を)す 天の下に
       国はしも 多(さは)にあれど 山川の 清き河内(かふち)と
       御心を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺に 宮柱
       太敷きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(な)めて
       朝川渡り 舟競(きほ)い 夕河渡る この川の
       絶ゆることなく この山の いや高知らす 水(みな)激(たぎ)
       つ(そそぐ) 瀧の都(みやこ)は 見れど飽かぬかも
    (37)見れど飽かぬ 吉野の河(川)の 常滑(とこなめ)の
       絶ゆることなく また還(かへ)り見む

    (38)やすみしし わご(が)大君 神ながら 神さびせすと
       吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち
       国見をせせば 畳(たたな)づく(はる) 青垣山
       山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 
       春べは(じぇには) 花かざし持ち 秋立てば
       黄葉(もみぢ)かざせり 逝き副ふ(行き沿う) 川の神も
       大御食(おほみけ)に 仕え奉ると 上つ瀬に 鵜(う)川を立ち
       下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる
       神の御代かも
    (39)山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 舟出せすかも

  意味:(旧大系)(39)山も川もあい寄ってお仕えする神にまします大君は、
        水のたぎち流れる吉野川の深い淵に船出あそばすことである。

     (新大系)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天の下に国は
        数多くあるが、山や川の清らかな河畔の地として(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に宮柱を太く宮殿をお建てになっ
        たので、(ももしきの)大宮人たちは舟を並べて朝の川を渡り、
        舟を競って夕べの川を渡る。この川のように絶えることなく、こ
        の山のようにいよいよ高くお治めになる(水そそぐ)瀧の離宮は
        いくら見ても見飽きることはない。
          (37)見ても飽きることのない吉野川の常滑のように、常に
        絶えることなくまたこの地に帰って来て見よう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神の御心まかせに、神ら
        しく振る舞われるべく吉野川の水が激しく流れる河の内に高殿を
        高くお作りになり、登り立って国見をなさると、幾重にも重なる
        青垣のような山々は、山の神が奉る貢物として、春には花を髪に
        挿し秋になるともみじをかざしている。離宮に沿って流れる川の
        神も大君の贄(にえ)にご奉仕しようと、上流の瀬で鵜川狩(う
        かわかり)をし、下流の瀬に小網(さで)を張り拡げる。山神も
        川神も心から服従してお仕えする、神の御代であるよ。
          (39)山川の神も臣従する神の御心のままに、大君は激流の
        中に船出をなされる。

     (小学館)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天下に国はた
        くさんある中で、特に山も川も清い谷間だとして(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりと建てら
        れたので、(ももしきの)大宮人は舟を並べて朝の川を渡り、舟
        を漕ぎ競って夕べの川を渡る。この川のようにいつまでも絶える
        ことなく、この山のようにいよいよ高くお作りになった水流の激
        しい瀧の離宮は、いくら見ても見飽きないことだ。
          (37)見飽きない吉野の川の常滑のように、絶えることなく
        また立ち返ってみてみよう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神であるままに神らしく
        振る舞われるべく、吉野川の渦巻き流れる谷間に高殿を高々と建
        てられて、登り立ち国見をなさると、幾重にも重なった青垣山
        は、山の神が捧げる貢物はこれですと、春のころは頂に花を飾
        り、秋になると色づいた黄葉(もみじは)を飾っている。御殿に
        沿って流れる川の神もお食事に奉仕しようと、上の瀬で鵜川狩を
        催し、下の瀬に小網を張り構える。山や川の神までもこのように
        心服して仕えるさまは、これが神代というものであろうか。
          (39)山川の神も心服して仕える神であるままに、渦巻き流
        れる谷間で舟遊びをなさることだ。

  解説(抄録):(新大系)これらは、吉野(大和の吉野)讃歌であり、また天
        皇賛歌である。それにふさわしく「山川の清き河内」「御心を吉
        野の国の」「花散らふ秋津の野辺に」「宮柱太敷きませば」「水
        激つ(そそぐ)」など、賛辞に満ちている。離宮があるという
        「秋津の野辺」は未詳。「常滑」は常に滑らかな状態、またその
        岩。「山の神は春秋の花ともみじを奉り、川の神は鵜で捕った魚
        や小網で捕った魚を献上する」…と。この天皇讃歌という背景に
        は、書紀による持統の三十一回に及ぶ吉野幸(みゆき)がある…
        という。
     (小学館)古代の天皇は、山川などの自然神に対しても長くその下位に
        あったが、天武天皇のころから現人(あらひと)神として君臨
        し、自然神に対しても優位に立ってきた。この(38)の歌は、そ
        れらの自然神の奉仕ぶりを具体的に述べることによって、天皇権
        力の強大さをたたえた讃歌である。「河内(かはうち)」は、川
        上の谷あいの平地。「舟競ひ」は競争する意。「御調」の「調」
        は貢物。「鵜川を立ち」は、上流から鵜で魚を追わせる川漁。大
        和吉野川上流では、近年まで行われていた…という。「依りて仕
        ふる」は、帰順して・服従して仕える…の意。「神の御代かも」
        は、これぞ伝え聞く神の御代ではないかと天皇の威徳を称えたも
        の…と。

 いかがですか、皆さん。吉野讃歌、天皇讃歌…。(旧大系本による読み・解説は、『壬申大乱』にはほとんどありませんでした。)
しかし上記四首、特徴ある描写がありますね。これらは「吉野川」を特定し得る特色ある地形・情景だと思われます。いかが思われますか。
  (36):「舟並めて朝川渡り」「舟競ひ夕川渡る」。「瀧の都」
  (37):「吉野の川の常滑の」
  (38):「激つ河内に高殿を」「逝き副ふ(行き沿う)川の」「上つ瀬に鵜川
      を立ち」「山川も依りて仕ふる神」
  (39):「山川も依りて仕ふる神」「激つ河内に舟出せすかも」

 古田先生は当然、大和「吉野」を舞台とした歌…と思っておられたそうです。そこでさっそく吉野へ赴き、実地を見て歌の世界に浸りたい…と思われました。そこで四人の仲間と出かけられました。すると…、
1)何と、肝心の「瀧」がない! 上記「意味」でもあるように、「(水そそぐ)瀧
 の離宮」を、「吉野川の激しく流れる河内の(側の)高殿」を、「水流の激しい
 瀧の離宮」を、「吉野川の渦巻き流れる谷間の高殿」を…彷彿とさせるような
 「瀧」がなかった! いや、「宮瀧」という地名はあった。また高さ3mほどの
 「堰(せき)」はあった。しかしこれが「瀧」とは…。吉野歴史資料館の学芸員
 の方も、「瀧はないんです」といわれたとか…。
2)次に「大宮人が朝も夕も船で川を渡る」ほどの水域・川幅、「大君が激流の中
 を船出される」また「渦巻き流れる谷間で舟遊びをする」ほどの水域・川幅もな
 かった! 大和の吉野川は、そのような大きな川ではなかったのだ。宮瀧から車
 で15分くらいの上流に、「蜻蛉(せいれい)の瀧」はある。高さは45mくらいだ
 が、そうめんが落下しているような細い瀧だそうだ。瀧壷もなく、船出はとうて
 い無理…。状況が、歌の内容と合わない…。
3)「天武天皇のころから現人神として自然神に対し優位に立ってきた」という理
 解は、番外編(8、9)で紹介した"万葉235番、241番歌"(阿諛追従の歌と理解さ
 れる)を無批判に信じているから!ではないのか。しかしわたしたちはいま、そ
 の呪縛から解き放された自由の身なのだから…。
4)「山川も依りて仕ふる神…」を、上記を踏まえ「山川の自然神が、服従・心服
 して仕えている神(すなわち天皇)…」と理解できるのか。人麻呂は、ここでも
 「あなたさまは(自然神をも超える)現人神であらせられ…」と追従しているの
 だろうか。人麻呂はそのような「超天皇主義者」だったのか。しかし235番およ
 び241番歌から導かれたことは、「人麻呂は決してそのような歌人ではない」と
 いうことではなかったか。

 さてこのような疑問を、先生はどのように解きほぐされたのでしょうか。この続きは次回で…。