マタイ3:1-12
マルコによる福音書はこの場面から始まります。マタイはその前に、イエス・キリストの系図という、日本人の心を挫けさせるようなところから入り、夢物語のようなイエスの誕生の経緯を置きました。実質的に聖書の物語はここに端を発し、天の国は近づいたというメッセージが告げ知らされます。マタイの「天」はもちろん「神」のことです。
マルコの、福音の始まり、という衝撃的なスタートにはなりませんでしたが、ヨハネの叫びの中に隠されています。逆に言えばそこに吸収されてしまいました。マタイはどうしたかったのでしょうか。ルカほどにヨハネの背景を探るようにはしていません。ただヨハネ自体よく知られていたはずで、近づく神の支配の概略を紹介したかったようにも見えます。
マルコによるよりも、マタイのヨハネは冗舌です。イザヤの預言はマルコも同じですが、ファリサイ派とサドカイ派の人々に攻撃を仕掛けるのは独自です。と、改めて気づくのですが、このエリートたち、ヨハネの許に洗礼を授けてもらうために大勢やってきていたのではありませんか。これは驚きです。罪を告白しに、多くの人々の中に紛れていたのです。
イエスと対決する彼らは、立派な行いを遂行しており、罪を犯さないような生活をしていたはずです。それで律法を守れない庶民を低く見ていたという非難をイエスに浴びていたわけです。しかしヨハネの許に、罪を赦してもらいにわんさか集まっている。自分は罪人だという自覚をもっていなければ、こんなことはやりますまい。
イエスが世に現れる前に、彼らはヨハネの前に頭を垂れていました。それほどにバプテスマのヨハネには権威があったという証左ではないでしょうか。そして後にイエスが言う以上に、このエリートたちのことをヨハネはぼろかすに言います。その舌の攻撃は、良い実を結ばないろくでなしだと彼らを呼び捨てているのです。
かつてイスラエルの預言者たちは、しばしばこのような非難の言葉をぶつけました。王や有力者たちに向けて、容赦なく主の裁きをすら告げましたが、このバプテスマのヨハネもよくぞここで命を狙われなかったものだと思いませんか。イエスは度々、殺されそうになったのです。
預言者マラキが、呼ばわる者を預言していましたが、そのほんの次の頁のようなところに、それがしっかりリンクされました。神の権威を有しつつ、エリートたちを断罪しました。これは今後イエスが言う内容でした。それをヨハネがダイジェスト版としてここで告げていたことになります。
ヨハネは、自分とは比較にならないような方がこれから現れるのだ、と予告します。遠い将来にではなく、もう間もなくです。ルカの記録によると、イエスはヨハネより半年ほど遅く産まれたに過ぎないのですから。ヨハネが予告したイエスの裁きは、さらにもっと遠い将来の出来事のはずです。ならば、今の私たちの木の根元にも、斧が置かれているはずです。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、
洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ…… (マタイ3:7)
マルコによる福音書はこの場面から始まります。マタイはその前に、イエス・キリストの系図という、日本人の心を挫けさせるようなところから入り、夢物語のようなイエスの誕生の経緯を置きました。実質的に聖書の物語はここに端を発し、天の国は近づいたというメッセージが告げ知らされます。マタイの「天」はもちろん「神」のことです。
マルコの、福音の始まり、という衝撃的なスタートにはなりませんでしたが、ヨハネの叫びの中に隠されています。逆に言えばそこに吸収されてしまいました。マタイはどうしたかったのでしょうか。ルカほどにヨハネの背景を探るようにはしていません。ただヨハネ自体よく知られていたはずで、近づく神の支配の概略を紹介したかったようにも見えます。
マルコによるよりも、マタイのヨハネは冗舌です。イザヤの預言はマルコも同じですが、ファリサイ派とサドカイ派の人々に攻撃を仕掛けるのは独自です。と、改めて気づくのですが、このエリートたち、ヨハネの許に洗礼を授けてもらうために大勢やってきていたのではありませんか。これは驚きです。罪を告白しに、多くの人々の中に紛れていたのです。
イエスと対決する彼らは、立派な行いを遂行しており、罪を犯さないような生活をしていたはずです。それで律法を守れない庶民を低く見ていたという非難をイエスに浴びていたわけです。しかしヨハネの許に、罪を赦してもらいにわんさか集まっている。自分は罪人だという自覚をもっていなければ、こんなことはやりますまい。
イエスが世に現れる前に、彼らはヨハネの前に頭を垂れていました。それほどにバプテスマのヨハネには権威があったという証左ではないでしょうか。そして後にイエスが言う以上に、このエリートたちのことをヨハネはぼろかすに言います。その舌の攻撃は、良い実を結ばないろくでなしだと彼らを呼び捨てているのです。
かつてイスラエルの預言者たちは、しばしばこのような非難の言葉をぶつけました。王や有力者たちに向けて、容赦なく主の裁きをすら告げましたが、このバプテスマのヨハネもよくぞここで命を狙われなかったものだと思いませんか。イエスは度々、殺されそうになったのです。
預言者マラキが、呼ばわる者を預言していましたが、そのほんの次の頁のようなところに、それがしっかりリンクされました。神の権威を有しつつ、エリートたちを断罪しました。これは今後イエスが言う内容でした。それをヨハネがダイジェスト版としてここで告げていたことになります。
ヨハネは、自分とは比較にならないような方がこれから現れるのだ、と予告します。遠い将来にではなく、もう間もなくです。ルカの記録によると、イエスはヨハネより半年ほど遅く産まれたに過ぎないのですから。ヨハネが予告したイエスの裁きは、さらにもっと遠い将来の出来事のはずです。ならば、今の私たちの木の根元にも、斧が置かれているはずです。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、
洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ…… (マタイ3:7)