それに対して「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった」(ルカ24:17)のでした。何をそんなに議論しているのか、とイエスは口をはさみました。その歩みを止めよ、ということなのかもしれません。二人は暗い表情をしていました。そして、自分たちの中でばかり議論し合うのをストップしました。人間の知恵だけで夢中になって議論していたのでは、物事は解決しないものです。そのようなときには、イエスをイエスとして認めることもできていないのです。この辺りは盛んに話題転換しながら、「その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」」(ルカ24:18)と記されています。この人物については情報はありません。エウセビオスは、これをイエスの父ヨセフの兄弟だと記録しており、もう一人はその息子であるとしているそうです。しかも、この息子のほうは、エルサレム教会の監督に後になった人物であるとか。どこまで信じてよいのか分かりませんが、いろいろ教会の基盤を強固なものにしようと努力しているのかもしれません。聖書には謎がたくさんあります。人にはすべては分からないということなのでしょう。なお、ヨハネの福音書に、十字架を見守る女性の一人の名として、「クロパの妻マリア」(ヨハネ19:25)が挙げられており、クレオパと似ていることから、そのような伝説が語られたという可能性もあるようです。しかしわざわざ名前が記されたということは、この人物が後の教会に何らかの影響をもった人物であったということは、想像できるかもしれません。なおマルコ16:10-11に、このエマオの二人のことが記されていますが、こちらはマルコが当初から書いていたとは今では考えられておりません。明らかにルカの福音書の内容をそこに転載したものである、と。