エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

教会へ語る預言者

2017-02-26 | メッセージ
ゼカリヤ7:1-14

 
一応、時代背景を確認しておきます。B.C.5518年初冬の頃だと記録されており、アケメネス朝ペルシア第三代の王ダレイオス1世の時。すでにB.C.538年にバビロン捕囚からの最初の帰還があり、B.C.520年に神殿再建が始まります。このときゼカリヤの預言活動も始まっています。人々の再建への意欲は芳しくなく、そのためゼカリヤの鼓舞がなされるという構図でした。
 
ベテルの町から、ここらで断食については一区切りつけてもよいのではないか、ともちかけてきます。捕囚の期間、民は断食を遂行してきたようです。半世紀以上にわたり、その惨めな生活の中で悔い改めの思いを抱く人々があり、そのときにユダヤ教がユダヤ教として構築されていったとも考えられていますが、断食の習慣もそこで定着してきたようなのです。
 
エルサレムが焼き払われた月、それからユダの総督ゲダルヤが暗殺された月が断食の月として挙げられています。ゲダルヤは、バビロンの傀儡政権として立てられたのでしたが、エレミヤと同じくその実安定した忍耐の期間を見ていた人物でした。しかし王家の血筋を引くものではなかったこともあり、過激な右派に暗殺され、ユダはいよいよ細々と歴史の陰に一時隠れることになってしまいました。
 
ですが、いま神殿再建が始まりました。捕囚中の断食がエルサレム再建についてのいわば願掛けのようなものであったなら、もうそれが叶ったのですから、断食をストップしてもよかろうという提案だったのです。これに対してゼカリヤは、肯定はしませんでした。そもそもこれまでの断食とは何だったのか、と問いかけます。確かに断食が布告され、実施されてきたのでしょう。ちゃんとした苦行であったと思われます。しかし、その背後に何があったか、ゼカリヤは鋭く指摘します。
 
社会的弱者に対して、虐げがなされていたのではないか。エリートや富裕層は断食しても生活は守られますが、弱者への顧みがあったのかどうか。断食していたゆとりの層は、もしや自己満足の手段として断食をしていたのではないのか。こんなに自分は誠実ですよと周りに見せ、また自分でも、よくやっているぞと自分を褒める。困窮する同胞にはまるで関心をもつことなしに、自分かわいさの儀式としての断食だったのではないか、と問うのです。
 
これは、まるでイエスがファリサイ派やサドカイ派を非難しているようではありませんか。弱者を扶けるのが律法の規定の目的であり精神であるのを、自分のためにだけそれを利用するとは何事だ、と。神の論理からいえばそれをすでにゼカリヤが訴えていたことになり、人間的時間順からすればゼカリヤの預言をイエスが再現したと見えるかもしれません。
 
他人事ではありません。現代の教会が問われているのです。立派な教会堂を建てて礼拝を守り、ハレルヤと喜んでいる一方、教会の裏にはひもじい思いをしている人々や虐げられている子どもたちがいて、教会がそれに見向きもしないでいるとなれば、どうなのでしょう。あまつさえ自分たちは礼拝を捧げて敬虔なクリスチャン生活をやっているなどと自己満足していたとしたら、目も当てられません。
 
震災の募金について話し合いましょう、という提案を、自分は教会の会計システムは絶対こっちがいいと思うなどと言い張る話を延々と続けたために、そんな話し合いはもうする必要がない、と蹴散らす様を見て、ここはもう教会であることをやめたのだ、と思ったことがありました。旧約の預言者は、いまの私たちにも呼びかけています。私たちにとり、本当の神殿再建とは、キリストのからだを立てあげることではないでしょうか。
コメント
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