エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

いつとは知れぬ時を

2017-02-16 | メッセージ
マタイ24:42-51

 
目を覚ましていなさい。何度かイエスは弟子たちに告げます。耳慣れてしまっていませんか。それ自体が、寝呆けているということになる、それを私は身を以て体験しました。なんで気づかなかったのだろう。今にして見れば簡単に分かるのに。あのとき、目を覚ましていれば、こんなことにならなかった。そう切実に思わされているのです。
 
これは終末の出来事です。それをイエスが語ります。マタイは、イエスの語った、終末についての言葉をまとめて提示しました。そこに流れる考えは、いつ終わりが来るかを人は誰も知らないが、いまできることをそれぞれが、いつもと同じように続けてやることだ、というものでしょうか。ただし、その兆候に気づくことは重要だ、とも言われているように見えます。
 
それでも、再臨のキリストは思いがけず来ると告げています。私が救われるときにも、主は突然に来ました。そろそろ救われたらいいのに、などと私が考えた計画に沿って主が来たのではありません。突如脳天を殴られ、神の前に引きずり出されたのです。このとき、神が主人となりました。言うなれば、神により私は選ばれ、引き寄せられたと考えるしかないのです。
 
人間は神の前には、奴隷のようなものです。しかしいつの間にか、人間が主人となり、神を奴隷のように見なしていることがあります。知恵の木の実の故かもしれません。自分でそれと気づかないでいるところが怖いものです。いまクリスチャンである者は、先に神に召されました。自分がそうならないように気をつけながら、地に置かれている以上、まだ神と出会っていない人々、自分が主人であると勘違いしている人々に対して、何かしら世話をする役を任されている、と自覚することが必要です。
 
そのとき、主人たる神の命じたことに信頼を寄せ、忠実であるということが、私たちクリスチャンの唯一必要な姿勢です。主人がいつ戻ってきても、その忠実さは伝わるでしょう。このようにして、しばしば「信仰」と訳されているギリシア語は、案外「忠実」と訳したほうがしっくりくることがあるという意見があります。すでに、信仰は「信」一文字のほうがよい、という提案があり、私はそれを好むのですが、それでも、それだとどこか観念的なもののように聞こえるかもしれません。
 
信仰は、観念だけのものではありません。信頼しているからこそ、何らかの行動に出ていくものです。祈りでも賛美でも、そして教会に通うということでも、忠実さとして現れることでしょう。信・忠実のない義務的な、あるいは自己目的的な善行で救われるというのは、確かに無理だとすべきでしょう。しかし、心で信じればあとは何をしてもよいのさ、と開き直るような態度が救いに相応しくないことについては、パウロも何度か叱責するように手紙に記しています。
 
他方、もし私が悪い僕であれば、つまり主に忠実でないとするならば、それは他人を打ちのめしている輩のことになるでしょう。人を裁き、言葉で殺すような言動をとります。それでいて「神よ」などと言うのは、まさに偽善者にほかなりません。だから、偽善者と同じ目に遭わせるのだ、とイエスの物語は指摘します。ファリサイ派の中には当時、そのような精神を具現する者がいたというわけです。
 
ここから、幸いな僕であるための知恵を戴きましょう。辛くて我慢ができない、と思うことが人生には多々あるでしょうが、その時にはイエス・キリストという模範がいます。主イエスはどのようにして地上で振る舞っていたでしょう。いつとは知れぬ時を待つ私が、いまここにおいて、そのイエスを見つめ続けていること。そこに、目を覚ましていることとはどういうことであるのか、を考える大きなヒントがあるように思うのです。
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