二つに見えて、世界はひとつ

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アートマンはブラフマンである

2022-10-27 08:16:00 | ヴェーダーンタ

 アートマンはブラフマンである。

 このアートマンはブラフマンである。 それは認識からなり、思考作用からなり、 気息からなり、眼からなり、耳からなり、 地・水・火・風虚空からなり、 光からなり、光でないものからなり、 欲望からなり、欲望でないものからなり、 怒りからなり、怒りでないものからなり、 喜びからなり、喜びでないものからなり、正義からなり、正義でないものからなり、ありとあらゆるものからなるものである。 それは、「これより成り、あれより成る」とのものである。それは人の行為に従い、 その人の行なった通りに、それに応じたものになる。善いことを行なう人は善人となり、悪いことを行なう人は悪人となる。

 人は言う。「人間とは欲望よりなる」と。 人はその欲望のままにそれを意志し、その意志するとおりに実行し、 その行為に応じた報いを受けるのである。

 執着ある者は、その行ないとともに、その願望のしがみつく所へとおもむく。 この世においていかなることをなそうとも、その行為の極限に到達すると、新しい行為とその報いを積むために、 かの世からこの世へと再び戻ってくる。

 その心の中にひそむ欲望が、すべて無くなってしまった時、死すべき人間も不死となり、 この世においてブラフマンに達する。

 あたかも蛇のぬけがらが、 蟻塚の上に生命もなく横たわっているように、 それと同じようにこの身体も横たわる。 そしてこの身体をもたない生気こそは、 まさにブラフマンであり、まさに光輝そのものなのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 4章4節

 太古以来のひそかなる道は延々と連なり、 わたしに及び、実にわたしによって見いだされる。 この道を通って、賢明でありブラフマンを知る人は、この世から解放され、天上へと昇って行く。

 この道はブラフマンによって見いだされ、 その道を通って、ブラフマンを知る者、
善き行ないをなす者、光明にみたされた者は行く。

 無知の状態にいる人々は、暗黒の闇におちいる。 また、誤った知識に満足を見いだす人々は、さらに深い闇におちいる。それらの世界は「喜びのない世界」と呼ばれ、暗黒と闇とに覆われている。 無知であり目覚めることのない人々は、 死後にはそこへおもむくのである。

 もし人がアートマンを認識し、 「私はこれである」と確かに知るならば、その人は何を望み、何のために、 身体に執着して苦しむことがあろうか。この身体の奥深いところにある洞窟にひそむ、 アートマンを見いだし、確認した人、その人は一切のことを成しとげる人である。 なぜなら、その人は創造する者となるからである。 世界は彼のものであり、彼はまさに世界そのものである。

 まさしく現世にありながら、われわれはそれを知ることができるのである。もしそうでないとしたならば、われわれには無知と破滅とが残るだけである。そして、これらのことを知る人々は不死となり、 他の人々は苦しみにおもむく。

 このアートマンを神であると知り、 過去と未来の支配者として正しく認めるならば、 アートマンはもはやその人から離れ去ることはない。

 歳月は、その前で日々を重ねて回転する。神々はそれを光の中の光、不死なる生命として崇拝する。気息の本質・眼の本質・耳の本質、そして心の本質を知る者は、 変わることなき太初のブラフマンを知るのである。

 この世においては、いかなるものも多様には存在しない。 それはただ知性によってのみ考察される。この世において万物を多様性からのみ見る人、 その人は、死から死へと移り行くのである。 この滅びることのない永遠なるものは、ただ、「一なるもの」としてのみ見いだされる。それは汚れなく、虚空を超越し、 生じることなく、偉大であり、永遠なるものである。

 賢明な人はまさしくこれを知って、 叡知を自らの内に求めるべきである。 多くの言葉のみを考察すべきではない。 それは言葉をもつれさせるだけである。
        同 4章4節

 この生じることのない偉大なアートマンは、 もろもろの機能の中の認識の光であり、 一切の支配者であり、一切の統率者であり、 一切の君主なのであり、それは心臓の中の空間で安らかに身を横たえている。

 彼は善行によって大きくなることもなく、悪行によって小さくなることもない。彼は一切の主であり、主権者であり、万物の守護者である。 彼はもろもろの世界が潰滅しないように、 それらを互いに隔てている堤防である。

 このことを このように知る者は、心の迷うこともなく、平静で落ち着いており、 忍耐強く心の統一された者となる。自らの内にアートマンを見、 一切をアートマンと見るのである彼を悪が征服することはなく、彼がすべての悪を征服するのである。 彼を悪が焼きつくすことはなく、彼がすべての悪を焼きつくすのである。彼は悪を去り、汚れを離れ、 疑惑のなくなった真のバラモンとなる。そしてそれはブラフマンの世界なのである。
       同 4章4節

 実にアートマンこそ、見られるべきもの、聞かれるべきもの、 思考されるべきもの、瞑想されるべきものである。 実にアートマンが見られ、聞かれ、 思考され、瞑想されるとき、この世のすべては知られるのである
       同 4章~56節

 あたかも太鼓が打たれているとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、 太鼓を打つ者をとらえることにより、 音をとらえることができるように、あたかも法螺貝の吹かれるとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、 法螺貝を吹く者をとらえることにより、音をとらえることができるように、あたかも琴の弾かれるとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、琴を弾く者をとらえることにより、 音をとらえることができるように、あたかも湿った薪に火がともされるとき、 あらゆる方向に煙が立ちのぼるように、 もろもろのヴェーダ聖典、史詩、古伝話、 もろもろの科学、ウパニシャッド、格言、解釈、注解は、
大いなるアートマンの吐き出す息なのである。 この世のありとあらゆるものが、 アートマンの吐き出す息なのである。

 あたかも塩のかたまりが内もなく外もなく すべて味のかたまりであるように、 ああ、まさしくそのように、このアートマンも内もなく外もなく、 完全な叡知のかたまりそのものである。
          同 4章5節

 アートマンは消滅することのないもの、不滅をその本性とするものである。 たとえば二つの対立するものがある場合、その一方が他方を見、嗅ぎ、味わい、語り、聞き、思考し、触れ、認識するであろう。しかし、人にとって一切のものがアートマンになった その人は一体何によって何を見るのであろう? 一体何によって何を嗅ぎ、味わい、語り、 思考し、触れ、認識するのであろうか。

 この世のすべてのものを識別するそれを、 いかなるものによって識別できようか。
それはただ、「〜ではない、〜ではない。」と説かれるのみである。 それはとらえることができないからである。

 それはすべての束縛を受けず、動揺せず、なにものにも影響されず、決して破壊できないものである。ああ、すべてのことを知りつくすこの者を、だれが知ることができようか。

 あなたはまさに真実の教えを受けたのである。実に不死とは、このことなのである
         同 4章5節


ヤージュニャヴァルキヤはこのように語った。