6番 畑に隠された宝
神の像、 神の子の姿は、魂の底に泉のようにあります。ところがもし誰かが土、すなわち世俗的な欲求を泉に投げ込むならば、その泉はそれによって妨げられ、塞がれてしまいます。
その結果、泉を知ることも気づくことも出来なくなってしまいます。それにもかかわらず、この泉そのものは生き続けるのです。
そしてこの泉は外から投げ込まれた土が取り除かれると、再び 姿を現わし、気づかれるでしょう。
もう一つのたとえ話があります。太陽が絶えず照っていても、一片の雲や霧でも私達と太陽との間にあれば、その太陽の光線を見ることができません。また、もし目自体が病気にかかったり、 弱くなったり、霞がかかったりしたならば、光を感知できないのです。
つぎもわかりやすい喩えでしょう。一人の名匠が木や石で像を造るときは、像を木の中に刻み入れるのではなく、むしろ像を覆い、隠している木屑を切り除くのです。木に何かを与えるのではなく、何かを取り除き、覆いをとり、錆を取り除くと、その下に隠されていたものが輝き出るのです。これが福音書にある「畑に隠された宝」なのです。
論文「高貴な人」より