二つに見えて、世界はひとつ

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ブリハッド•アーラニヤカ•ウパニシャッド

2022-10-26 11:41:00 | ヴェーダーンタ
ヤージュニャヴァルキヤが『ブラフマン』をジャナカ王に説く場面


 アートマン

 まるで蜘蛛が糸をたどって昇ってゆくように、細かい火花が火から飛び散るように、
このアートマンから一切の機能、 すべての世界、すべての神々、すべての存在が生じてくる。

 それは「真実の中の真実」と呼ばれる。 すべての機能は真実ではあるが、 アートマンはそれらの機能の真実なのだからである。
 ブリハッド•アーラニヤカ •ウパニシャッド2章1節−20

 主体者

 視覚の主体である視る者を、 あなたは見ることができない。 聴覚の主体である聴く者を、 あなたは聞くことができない。 思考の主体である思考する者を、 あなたは考えることはできない。 識別の主体である識別する者を、 あなたは識別することはできない。

 あなたのアートマン、それが万物の内にあるアートマンなのである。 それ以外のものは苦悩にゆだねられているのである。
       同 3章4節

 真のバラモン

 われらの眼の前に現れ、
姿を隠すことのないブラフマン、万物に内在するアートマン、それはあなたのアートマンである。それは飢渇、憂い、無知、 そして老いと死とを超越するものである。

 バラモンたちは、聖典を学ぶことにより、祭祀により、 布施により、苦行により、断食により、 それを知ろうと望んでいるのである。それを知ったとき、人は聖者となるのである。 遍歴者たちはこれのみを目的として、この世を遍歴するのである。

 古人はこのことを知っていたが故に、 子を望まなかったのである。 彼らは、息子を得たいという望み、あるいは財産を得たいという望み、
世間的なあらゆる望みを顧みることなく、食を乞いながら歩き回るのである。

 なぜなら、息子を得たいということは、 財産を得たいという欲望にほかならず、財産を得たいということは、死後の良き世界を得たいという
欲望にほかならないからである。それらはじつに同じものなのである。

 だからこそバラモン僧は学識を捨て、 愚かさに満足すべきである。さらに学識とか愚かさとかを捨て、彼は聖者となるのである。

 そして聖者とか聖者でないとかの立場も捨てたとき、 彼は真のバラモンとなるのである。
      同 3章5節

 内なる統率者 

 地の中にありながら地とは別のものであり、 地がそれを知ることもなく、 地がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 水の中にありながら水とは別のものであり、 水がそれを知ることもなく、 水がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 火の中にありながら火とは別のものであり、 火がそれを知ることもなく、 火がそれの身体であり、内から火を統率するもの、それがあなたの内なる統率者であり、不死なるアートマンである。

 太陽の中、月の中、星の中にありながら、 太陽や月や星とは別のものであり、 太陽や月や星がそれを知ることもなく、 太陽や月や星がそれの身体であり、 それらを内から統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 すべての世界の中にありながら、 すべての世界とは別のものであり、 すべての世界がそれを知ることもなく、 すべての世界がそれの身体であり、 内からすべての世界を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 気息の中、言葉の中、眼や耳や皮膚の中、 心の中、認識の中にありながら、 それらとは別のものであり、 それらがそれを知ることもなく、 それらすべてがそれの身体であり、内からそれらすべてを統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 それは他から見られることなく自ら見るものであり、 聞かれることなく自ら聞くものであり、 他から思考されることなく自ら思考するものであり、他から認識されることなく自ら認識するものである。

 それ以外に見る者も聞く者はなく、それ以外に思考する者も認識する者はない。それがあなたのアートマンであり、不死の、内なる統率者である。そして、これ以外のものは苦悩にさいなまれるのである。               
        同 3章7節

 不滅なるもの

 天より上にあり、地よりも下にあり、この天地がその中にあり、過去・現在・未来とよばれるものは、 空間の中において、縦と横に織りこまれている。そしてその空間は、 バラモンたちが「不滅なるもの」と呼ぶものによって、 縦と横に織りこまれているのである。

 その「不滅なるもの」とは、大きくもなく小さくもなく、長くもなく短くもない。 香りも味もなく、眼も耳もなく、影も闇もなく、風も空間もなく、 執着することがなく、接触がなく、香りも味もなく、眼も耳もなく、言葉もなく、心もなく、顔も名前もなく、 活動することがなく、生まれることも老いることもなく、 死ぬこともなく、恐れがなく、塵がなく、音声がなく、 覆いを取られることもなく、覆い隠されることもなく、以前もなく以後もなく、内もなく外もないもの...

 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 天と地とは分かれて存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、太陽と月とは分かれて配置されているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 昼と夜、もろもろの月日、もろもろの季節もろもろの年が、それぞれに分かれて配置され存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 川は山から東へと、山から西へとそれぞれの方向へと この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、布施する者のところへは人が、祭祀を行なう者のところには神々が、 供養をする者のところには祖先の霊が、 それぞれ集まって来てほめたたえるのである。

 この「不滅なるもの」を知らずに、 たとえ千年もの間、この世で供犧を捧げ、祭祀を行ない、苦行したとしても、その果報はやがて失われてしまうものである。この「不滅なるもの」を知らずに、この世から去る者は、みじめな者である。 この「不滅なるもの」を知って、この世から去る者こそ、まことのバラモンである。

 この「不滅なるもの」は、
見られることのない見る者、
聞かれることのない聞く者、 思考されることのない思考者、認識されることのない認識者である。これ以外の見る者はなく、これ以外の聞く者はなく、 これ以外の思考者はなく、これ以外の認識者はない。

 虚空がそのものにおいて、 縦と横とに織りこまれているもの、それは、この「不滅なるもの」なのである。
        同 3章8節


 ブラフマンの世界

 太陽が沈み、月も沈み、あらゆる火も消えうせ、言葉も絶えてしまったとき、 人は何を光明とするのであろうか?

 それはアートマンである。
人はアートマンだけを光明として坐し、動き回り、仕事をし、そして帰って来るのである。

 アートマンとは、認識から成り、心臓の中において内なる光を発し、つねに同一の状態にありながら、 しかも、この世とかの世とを往復するのである。 彼は沈黙して瞑想にふけるかのようであり、
ゆらゆらと動くかのようである。夢見るようにこの世界を超越するのである。

 この人は生まれると同時に肉身を受け、 もろもろの悪と結合される。そして彼が肉身から離脱して死ぬとき、このもろもろの悪を捨てさるのである。 この人はじつに二つの状態をもつものである。
すなわちこの世とかの世の状態である睡眠の状態は第三のものであり、両者の中間の状態である。このとき彼は 夢見るときはみずからの光に包まれて眠るのである。 このときこの人はみずからを光とするのである。

 そこには車もなく車につなぐ馬もなくそして道もない。
彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには喜もなく喜びも享楽もない。 彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには泉もなく蓮の池も川もなく、 彼はそれらを自分で造りだすのである。 なぜならば彼は創造者なのだからである。

 もし人の世において成功を収め、 裕福な者となり、権力者ともなり、人としてのあらゆる享楽を完全に満たすなら、それは人としての最高の喜びであろう。しかしその百の喜びですら、みずからの世界をかち得た祖霊たちの たった一つの喜びに等しいものである。みずからの世界をかち得た祖霊の百の喜びも、 祭祀によって神のようになった者の一つの喜びにすぎず、祭祀によって神のようになった者の百の喜びも、半神たちの一つの喜びにすぎない。神およびに偽りなく欲望にとらわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎず、

 創造者の世界における一つの喜びにすぎず、偽りなく欲望にそこなわれていないヴェーダ学者の 一つの喜びにすぎない。

 創造者の世界における百の喜びは、ブラフマンの世界における、そして、偽りなく欲望にそこなわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎないのである。

 そしてそれこそが最高の喜びであり、それがブラフマンの世界なのである。
          同 4章3節


ヤージュニャヴァルキヤはこのように語った。



ヤージュニャヴァルキヤ(Yājñavalkya, 漢訳: 祭皮衣仙)は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人。およそ紀元前750~前700年の人物。ウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として著名である。太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれる。(wiki)