二つに見えて、世界はひとつ

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バガヴァッド・ギーター/宇宙普遍相

2022-10-30 08:07:00 | ヴェーダーンタ
 アルジュナは言った。

 私への好意により、あなたは「アートマン」についての秘奥な知識を説かれた。それを聞いて私の迷いは消え失せた。

 なぜなら、万物の生成と消滅について私はあなたからくわしく聞いたから。そしてあなたの不滅の栄光をも悟った。

 あなたがご自身について語られた、そのままである。至高の主よ。今、わたしはあなたの神としての姿を見たいと願う。至上のプルシャよ。

 もし、私が見ることができるなら、神秘の主よ、あなたのその不滅の姿を私にお示し下さい。

 一切相/宇宙普遍相

 聖なるバガヴァッドは答えた。

 よろしい、アルジュナよ、見るがよい。この幾百、幾千という神聖にして多様なる姿を。さまざまな色や形をそなえたこの姿を。

 アーディティヤ神群、ヴァス神群、ルドラ神群、アシュヴィン双神またマルト神群を。いまだかつてみたことのない、吉兆のしるしを。

 見たいものはすべてわが内に見よ。今あるもの、やがて来るべきもの、動くものも動かぬものも、すべてをわが内に見よ。

 アルジュナよ、人の眼では見えぬものを、わたしが与える新たな眼で見よ。最高の神としてのわが姿を見よ!




 アルジュナは見た。そのまばゆさはまるで同時に出現した千の太陽の輝きにも似ていた。

 その姿は多くの口と多くの眼をもち、輝く衣を身にまとい、あらゆる神々しさで身を飾り、神の武器を振りかざし、あらゆる方向へ広がっていた。

 アルジュナは神の内で世界がひとつになり、同時に多様に分かれているのを見た。彼は驚愕し、身の毛がよだった。彼は頭を垂れて礼をし、合掌して言った。

 神よ、私はあなたの内に多くの神々を見、命あるもののすべてを見る。そして蓮華座にあるブラフマン、聖仙たちや龍を見る。

 私は見る。多くの腕と腹と口と眼を持ち、あらゆる方角に無限の姿を示すあなたを見る。その始めもなく、中間もなく、終わりもない姿を。

 冠をいただき、こん棒を持ち、輪盤を持ち、一切の方角に輝きわたる光輝の塊であるあなたを見る。

 あたり一面に炎や太陽のように輝き、凝視しがたい、はかり知れないあなたを見る。

 あなたは不滅のもの、最高の知られるべき対象である。
あなたは全世界の最高の拠り所である。あなたは不変であり、永遠のダルマ(法)守護者である。あなたは永遠のプルシャ(神人)であると私は考える。

 その始まりも、中間も、終わりもなく、無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を目とし、炎を口とし、自らの光輝により、この全世界を熱しているあなたを私は見る。

 天地の間のこの空間、そしてすべての方角も、ただあなた一人によってあまねく満たされている。偉大なお方よ、
あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界はおののいている。

 多くの口と目、多くの腕と腿と足、多くの腹を持ち、多くの恐ろしい牙を持ったあなたの偉大な姿を見て、諸々の世界は私と同じようにおののく。

 ヴィシュヌ神よ、さまざまな色のまばゆい光を天空に放ち、口を大きく開き、眼はらんらんと燃えさかる。あなたのこの形相を見て私の心は恐怖にうたれ、激しくゆれ動く。

 神々の支配者よ、全世界の保護者よ、何とぞ私を憐んで慈悲をおたれください。激怒した死神のような御顔、すさまじい歯を見て私は恐怖に身がすくみ、どうしていいかわかりません。


 ドリタラーシュトラ王のすべての息子たちも、彼らと同盟した王たちも、ビーシュマ、ドローナ、カルナもみな、ああ、そして味方の将軍、戦士たちもみな、あなたの恐しい口のなかへと突入します。そして、あなたの歯にかかって、頭をかみくだかれた者たちも見える。

 河の多くの奔流が、ことごとく大海に呑みこまれるように、これらの偉大な戦士たちすべてが、燃え立つあなたの口に呑みこまれていく。

 燃えさかる炎のなかに蛾の群が飛びこんでいくように、人々はみな全力をあげてあなたの口の中に走りこんで死んでしまいます。

 ああ、ヴィシュヌ神よ、八方から来る人々を、あなたはすべてなめつくし、むさぼり食う。恐ろしいほどの光明を放って全宇宙をあなたの光輝でつつみ、あなたはいま恐るべき姿ををあらわされた。

 神々の主よ、ああ何という恐ろしい形相。あなたは誰なのか教えて下さい。伏し拝む私に何とぞ慈悲をたれたまえ。すべての始祖なる主よ、私はあなたを知りたい。あなたの 意図が私にはわからない。


 聖なるバガヴァッドは告げた。

 私はカーラ、すなわち”時”である。諸々の世界の大破壊者である。たとえあなたの手をかりなくとも、敵陣に並ぶ戦士たちは、生き残ることはできないのだ。

 それゆえに立ち上れ。戦って名誉を勝ちとれ。敵を征服して王国の繁栄を楽しむがよい。私によって彼らはすでに死んでいるのだ。アルジュナよ、あなたは戦いの“役者”であればよいのだ。

 わたしがすでに討ち取ったドローナ、ビーシュマ、ジャヤドラタ、カルナおよび他の戦士たちを、あなたは殺せ、おびえてはならない。戦え!敵を征服せよ。

   ー中略ー


 聖なるバガヴァッドは告げた。

 アルジュナよ、大光明よりなり、すべてであり、限りなく、また太初でもあるこの至高の姿は見難いものである。

 わたしの恐ろしい姿を見
ても、おののいてはならない、取り乱してはならない。平静な心であなたは再び前と同じわたしの姿を見るがよい。ーこのように告げると、神は再び温和なクリシュナの姿に戻った。

 アルジュナは言った。

 クリシュナよ、あなたの人としての姿を見て、私はようやく安堵した。

 聖なるバガヴァッドは言った。

 ヴェーダによっても、苦行によっても、あるいは布施によっても、また祭祀によってもアルジュナよ、あなたが見たようなわたしの姿を見ることはできない。

 これはただ、わたしに対するひたむきな熱愛によってのみ、わたしを見ること、知ることができるのである。

 わたしために全身全霊を捧げ、あらゆる執着を離れ、何ものをも厭うことなき者、そのような者は、究極に到達する。



バガヴァッド・ギーター

2022-10-29 12:09:00 | ヴェーダーンタ
 バガヴァッド・ギーター
はインドの代表的な古典で紀元前1世紀ころの成立。叙事詩『マハーバーラタ』の一節に組み入れられ、全18章700詩からなる宗教•哲学詩。

 物語りの舞台はパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が決戦に臨む前のところから始まります。両軍の布陣も終わり、まさに戦いを始めようとする場面なのに、パーンダヴァ軍のアルジュナは同族同士で争うことに疑惑を抱いて憂悶し、「私は戦いたくない」と御者であり師であるクリシュナに告げます。クリシュナは人間の姿をしていますが、実は神様(ヴィシュヌ神)の化身です。クリシュナは、彼の疑惑と憂悶とを晴らすため、世俗の死生観を離れ、武人の本分を全うすべきであることを、様々なヨーガの道を説きながら諭していきます。

 聖なるバガヴァッドは言った。

 アルジュナよ。憂えるべきでもないことについてあなたは憂いている。 しかし知者は、生きている者のためにも、 死んでしまった者のためにも憂えるようなことはない。

 わたしはいかなる時も存在しなかったことはない。あなたも、そしてここにいる王侯たちも いまだかつて存在しなかったことはない。 そして、わたしたちすべての者は、 これから後にも存在しているのである。

 あたかもこの肉体が、 子供から大人となり、やがて老人となってゆくように、 形有るものは他の形にと変化してゆくのである。 聡明な者はこのことに関して惑うことはない。

 しかしながら、物質的な領域とふれあうことは、 寒さや熱さを感じさせ、苦痛と快感とを人に与える。しかしそれらは現れては消える一時的なものである。 あなたはそれらすべてに忍耐強くあるべきなのだ。

 そのようなことに心を悩まされることのない人が、人々の中でもすぐれた人なのである。幸福にも不幸にも動じることのないような人、 そのような人こそが不死を得るにふさわしいのだ。

 かりそめの存在であるものは決して永続することがなく、 真に存在しているものは決して消滅することがない。 このふたつの事がらの究極は、真理を見る人によってのみ見ぬかれるのである。

 すべてのものを覆いつくしているこれは、不滅なものであると知るがよい。 これを破壊することのできるような人は誰もいない。

 死滅するものはただ肉体だけである。肉体を身にまとっているものは永遠の存在であり、 それは変化することもなく、破壊されることもなく、 はかり知ることのできないものである。だから戦うのだ!アルジュナよ。

 これを殺すと考えている者も、これを殺されると考えている者も、どちらも共に知らないのである。これは殺すこともできなければ、殺されることもない。

 これは生まれたこともなければ、死んだこともない。 過去に生じたこともなく、未来に現れることもない。これは生まれることのないものであり、永遠であり太古より変化したこともない。たとえ肉体は殺されても、これは決して殺されはしない。

 これを破壊することのできない永遠のものであると知り、生じたものでもなく、変化するものでもないと知る者が、いったい誰を殺すと言うのか、誰に殺されると言うのか。

 人が古くなった衣服を捨て去って、新しい衣服を身に着けるように、この身体を身にまとう者は、古くなった肉体を捨て去り、別の新しい身体を受け取るのである。  

 それはいかなる剣でも切ることができず、 猛火でも焼きつくすことができず大水でも崩壊することができず、暴風でも吹き散らすことができない。

 それは切ることができないものである。 焼くことも、濡らすことも、乾かすこともできない。 それは一切のものにゆきわたり、 変化することも動くこともない永遠のものである。

 それは人の思いをはるかに超えたものである。 それは変化しないものである。 それをこのようなものであると知って、あなたは憂えてはならない。

 もしそれを、「次々と生まれては次々と死ぬものである」と、 たとえあなたがそのように考えているとしても、 仮にそれがその通りであったとしても、あなたは憂える必要はなにもないのだ。

 なぜなら生じたものは必ず消滅するように、 人にとっては誕生と死は必然のことなのである。 避けることのできないことについて、 あなたは憂えてはならないのだ。

 生じてくるすべてのものは、 その始まる以前においては形なく、その中間においてのみ形をあらわし、その終わりもまた形がなくなるものである。 それゆえ、どうして憂えることがあろうか。

 これを見る者はまれである。 これについて語る者もまれである。 ある人はそのことについて聞くが、 多くの人はたとえ聞いたとしても、全く理解できない。

 すべての人の内に宿るこれは、 永遠に殺されることはないものである。 だからすべての生けるものについて、
あなたはもう憂えるのをやめるがよい。
    ギーター 2章11-30

 ヨーガを修めよ

 人は自ら自己を高めるべきであり、決して堕落させてはならない。 人にとっては自己こそが真の友なのであり、 自己こそが敵なのである。

 自己を克服した人にとっては、 自分自身が最良の友となり、自己を克服することのない人にとっては、 自分自身が最大の敵となる。

 自己を克服し安らぎに満ちた最上の人は、 寒さにも暑さにも、順境にも逆境にも、 あるいは尊敬されようとも軽蔑されようとも、つねに平静さを失わない。

 知性による認識に満足し、 くびきにつないだように正しく感官を支配する者は、「ヨーガを修める者」と呼ばれ、 土も黄金も平等に見るのである。

 友人、親切な仲間たち、関わりの無い者、 どちらつかずの者、敵意をもつ者、親族たち、 そして善人に対しても悪人に対しても、平等に接する人は、まことにすぐれている。

 ヨーガを修める者は、ひとり静かな場所で自分の心を引き締め、 なにものにも引かれず、なにものも受けつけず、 ただ自分自身にだけ注意を集中するのである。

 清浄な場所において、 自分のために高すぎることもなく、低すぎることもないように、 布や皮や草を敷いてしっかりした座をつくり、 そこにしっかりと坐り、意識を一点に集中し心と感覚の活動を抑制し、自己を清めるためにヨーガを修めるのである。

 体と首と頭が一直線になるようにし、動くこともなく、周囲を見ることもせず、ただ自分の鼻の先端をじっと見つめよ。心を静め、恐れをなくし、 心を統一して坐るのである。禁欲の生活を守り、"わたし"に心を集中させ、 "わたし"を目標にするのである。

 このようにつねに自己を修練し 静かに心身の活動を制する者は、"わたし"の住まいである最高の平安に到達する。

 ヨーガを修める者は、あまり多く食べ過ぎてはならず、あまりに節食してもならない。眠りにふけるのもいけないし眠らないのもいけない。

 ヨーガの修行においては、
適度な食事を取り、規則正しく仕事をし、 節度ある休養や睡眠を身につけることが、
苦しみを滅することになるのである。

 心の動きを抑制し、 自己自身に満ち足りるとき、人は一切の欲望から離れ、ヨーガを達成したといえるのである。

「風のない所にある灯火は決して揺らめくことがない」、
これは、心を支配したヨーガを修める者の比喩として伝えられている。

 ヨーガの修練によって、 心の活動は一切のものから遠ざかる。その状態において確かに人は、 内なる自己を見つつ、それに満足する。

 知性によってのみ理解し、捉えることのできる、この無上の幸福を知り、そこに止まり、もはや真理から離れることはない。

 人はそれを得れば、これ以上にまさるのは他に何もない」と確信し、 不幸にであっても、どんな困難にであっても、もはや動じることはない。

 苦しみから離脱することが、 ヨーガであると知るべきである。 このヨーガは堅い決意と不屈の心をもって 修められなければならない。

 心から生じてくる一切の欲望を捨て去り、 あらゆる方面よりすべての感覚器官を統御し、 確信によって守られた知性によって、一歩また一歩と、心を自己に固定させ、 他のなにものをも思わず考えるな。

 心というものは不安定であり、信頼し難きものである。
心はゆらゆらとあちらこちらへ揺れ動く。しかし、あなたはそれを引き戻し、断固として自己の支配下に置かなくてはならない。

 激情が鎮静され心が静寂になった人は、 汚れなき者となり、ブラフマンに没入して無上の幸福に到達する。

 このようにヨーガにより、つねに自己を修め、罪過から遠ざかり離れた人は、ブラフマンと絶えず接して、 無上の幸福に到達するのである。

 ヨーガにより自己を修めた  人は、あらゆるものを同一に見る。自己を全世界の中に見、 全世界を自己の中に見るのである。

 わたしを一切の中に見、 一切のものをわたしの中に見る人、 その人にとってわたしは失われることなく、 わたしにとってもその人は失われることはない。

 わたしを一切の生存するものの中にあるとして、熱心に愛し崇め、すべてのものを平等に見る人、 そのような人はどのように生きようとも、 わたしの中で生きているのだ。

 自分自身と引き比べて見て
すべてのものの苦楽をまるで自分のことのように見る者は、 完全にヨーガを修めた者と言えるのだ。

 アルジュナは言った。

 おお、クリシュナよ、心は実にゆれ動き、落ち着かず、
とても頑迷であり、 まるで風をとらえるようなものである。

 聖なるバァガヴァッドは言われた。

 偉大な勇者よ、確かに心というものは、ゆらゆらとして守り難いものである。 しかし、たゆまぬ努力と、そして離欲によって可能なのである。

(46) ヨーガを修める者は、苦行者よりも偉大である。 賢者たちよりも、有能な働き手よりも偉大である。それゆえアルジュナよ、あなたはヨーガを修める者となれ。
        6章5-32




カタ•ウパニシャッド

2022-10-28 20:28:00 | ヴェーダーンタ
『カタ・ウパニシャッド』は聖仙ウッダーラカ・アールニの息子と、死神ヤマとの死に関する問答。ヤマ( Yama)は、インド神話における人類の始祖であり、また死者の主。仏教の閻魔はヤマに由来する
  

 言葉も思考も及ばぬもの

 一方には精神的な幸福があり、他方には肉体的快楽がある。 この二つのものはそれぞれ異なった目的をもってはいるが、 どちらも人を引き寄せ束縛する。この二つのものの中で、幸福を選ぶ人には善いことがあり、 快楽を選ぶ人は人生の目的からはずれる。

 幸福も快楽も人に近づいてくる。 賢明な者はこの両者の相異を熟慮したうえで、精神的な幸福を選ぶ。しかし愚かな人は、快楽を選ぶ。

 無知として知られるもの、知恵として知られるもの、 この二つのものは全く異なっていて互いに遠く離れている。 無知の中で暮らしていながら、自分は賢者であり学識あると思い込んでいる愚かな者は、盲人に案内されている盲人のように、あちらこちらとさ迷い歩く。

 富に対する妄想に目をくらまされ、 軽薄に生きている愚かな人には、かの世界のことは意識にのぼってこない。 この世があるだけで、他に別の世界があると考えない人、
そのような人は死神にとらえられる。

 多くの人々にとっては聞くことさえできないもの、たとえ聞いても知りえないもの、 それを語る人はまれであり、それを得る人はまことの賢者である。賢者に教えられて知る人もまれである。

 これは普通の人に説き示されたとき、 熟慮に熟慮をかさねたとしても、 容易に理解できるものではない。 しかし、説き示してもらえなければ、 そこに到達する道はない。それはいかなる小さなものよりなお微細なものであり、 言葉も思考も及ばないものであるからである。

 秘奥にかくれ、胸の奥の深淵にひそみ、姿を見せないこの太古以来の者••• この者を、自己に関する瞑想の達成により、 神であると知り、人は喜びも悲しみもともに離れる。
  カタ・ウパニシャッド 2章

 アートマン

 アートマンは生まれもせず、死ぬこともない。 これはいずれより来たのでもなく、いかなるものにも成ることはない。 この太古以来のものは生じることなく、 減することなく、永遠なものである。
 
 殺害者が殺そうと思い、
殺された者が自らを死んだと思っても、 両者はともに知らないのである。 これは殺しもせず殺されもしない。

 極微なものよりなお微細であり、 極大なるものよりもなお大きなもの。 それはすべての生命あるものの 胸の奥深くにかくれ潜んでいる。

 真実の自己に目覚めた者、
憂いを離れ、苦しみを離れ、欲望を超越した者は、 創造神の恩恵により、偉大なアートマンを見る。

 坐っていながら遠くにおもむき、 臥していながらあらゆる所を行きめぐる。 歓喜でもあり歓喜でもないその神を、 わたし以外の誰が知るであろうか。

 アートマンは身体の中にあって身体なく、 ゆれ動くものの中にあって不動である。 すべてのものにあまねくゆきわたるものである。 賢者はこのように洞察し、すべての憂いを捨てさる。

 このアートマンは教えによっては得られない。 知性によっても、博識によっても、 聖典を広く学ぶことによっても得られない。 それはただ、アートマンが選ぶ人にのみ得られる。 そして、その人にだけアートマンは自らの姿を現す。

 悪い行為をやめない者、心が安らいでいない者、 心が統一できていない者、思慮の定まっていない者、 そのような者は、単に理知だけによっては、 アートマンに達することはできない。 彼のいる場所を誰が真実に知っているだろうか。
          同 2章

バガヴァッド・ギーターにも引用されている馬車のたとえ。

 馬車のたとえ

 アートマンは馬車に乗る者であり、身体は馬車であると知れ。 そして理性が御者であり、心が手綱であると知れ。 もろもろの感覚器官は馬であり、 精神 その対象の中を馬は駆けめぐるのである。

 アートマンと感覚器官と心とが一体になったもの、 それが「人」であると賢者は呼ぶ。 分別もなく、つねに心の手綱を引き締めない者は、 あたかもあばれ馬を制することができないように、 自らの感覚器官によって振りまわされる。 しかし、分別ありつねに心の手綱を引き締めている者は、 あたかも御者が良馬を制するように、自らの感覚器官を制するのである。

 分別も思慮もなく、つねに汚れている者は、かの場所に至ることなく、くり返し迷いの世界へとおもむく。 しかし分別あり思慮をそなえ、つねに清らかな者は、 かの場所に到達し、そこからさらに生まれることはない。 理性を御者とし心を手綱とする者は、目的地に到達する。 そこはヴィシュヌ神の住まう場所なのである。

 実に、感覚器官よりもその対象がすぐれ、 その対象よりも心が上位にある。 しかし心よりも理性がすぐれ、 理性の上に大いなるアートマンがある。 大いなるアートマンよりも、 「現れざるもの」が上位にあり、「現れざるもの」より「プルシャ」はさらにすぐれている。そして「プルシャ」にまさるものは何もない。それは究極の頂点であり、 それこそは最高の拠りどころである。

 このアートマンは、この世に存在するすべてのものの中にひそんでおり、 決してその姿を現すことはない。 しかし明晰な観察力をもつ者たちによって、その鋭く聡明な理性によってそれは見いだされる。

 英知ある者は、言葉と思考とを抑制せよ。 それを知恵としてアートマンの中に抑制せよ。 大いなるアートマンの中に。平安なるアートマンの中に。

 立ち上がれ、目覚めよ! 恩恵を得て悟れ。 この鋭いかみそりの刃のような細い道は、 とても渡るのが困難である。 すぐれた人々はそれを行路の難所と言う。

 音もなく、感触もなく、味もなく、香りもなく、 姿も形もなく、変化することもなく、 始めもなく終わりもないもの、 大いなるものよりさらに上にあり、動くことのないもの。 人はそれを見ることによって、死より解放されるのである。
        同 3章


 死霊の縄

 神は外の世界に向けて孔をあけた。 それゆえに人は外を見るのであるが、 内なるアートマンには眼を向けることがない。 ある賢者は、不死を求めて、 眼をひるがえし、内にアートマンを観察した。

 愚かな者は外に向かってさまざまな欲望のあとを追う。 そして彼らは、あらゆる所に張りめぐらされている 死霊の縄にとらえられる。 しかし、賢者たちは不死を知り、 この世において移ろいゆくものの中に 永遠なるものを求めることはない。
         同 4章

 吸いこむ息によっても、吐き出す息によっても、 人は生きているのではない。人はこの二者のより所である別のものによって生きているのではある。

 たとえ人が眠っている間も目覚めており、 欲するままにその姿を現すプルシャ それこそが光であり、ブラフマンであり、不死である。 全世界はそれをより所としているのである。 それを越えることのできるものは何もない。

 一つの火が生物の中に入り、それぞれの形に応じたものとなるように、一つの風が生物の中に入り、息となり、
それぞれの形に応じたものとなるように、万物の内にあるアートマンは一つのものでありながら、それらの中に入り、それぞれに応じたものとなる。しかもそれらの外にあるのである。この世の眼である太陽が、人の眼の欠陥によって汚されることがないように、万物の内にあるアートマンも、この世の不幸にも汚されず、その外にあるのである。

 この世のあらゆるものの内にあるアートマンは、唯一の支配者であり、その一つの姿を多様に現す。 それが自分の内に存在するのを洞察する賢者たち、 永遠の幸福は彼らとともにあり、他の者にはない。 言葉では言い表わせないような無上の歓喜を「これがそれだ!」と彼らは思う。

 そこではもう太陽も輝かない、月も星も輝かない。 かの光り輝くものの輝きを反映させながら、 一切のものは輝き、全世界はきらめくのである。
        同 5章

 われ『あり』

 この世において、肉体からの解放に先立って知ることができたなら、その後に天上の世界で身体を得るにふさわしい。

 これは鏡に映る自分の姿のようであり、祖霊の世界では夢のように見られ、ガンダルヴァの世界ではあたかも水面に映るかのように見られ、ブラフマンの世界では白日のもとで見られる。

 実に、感覚器官よりも心がすぐれている。しかし心よりも理性がすぐれ、理性の上に大いなるアートマンがある。 大いなるアートマンよりも、 「現れざるもの」がさらに上位にあり、「現れざるものよりも、 全く特徴をもたない「プルシャ」はさらにすぐれている。 このことを知って人は不死となる。
 
 彼の姿は秘められたものであり、 だれも見ることはできない。 それは心によって、思考によって、理性によってのみ捉えることができる。そしてそれを知る者となる。

 五感の働きが心とともに静まり、理性すら動かぬようになったとき、それを最高のものへの没入と人は言う。
感覚を働かせず、すべてを静止させることがヨーガであると人は理解する。そのとき、人は心を散らさなくなる。 ヨーガとは実に内なる力の発現であり、 また、内なる力への没入である。

 言葉によっても思考によっても視覚によっても、 アートマンは得られない。それは、「ある」という以外には、 どのようにして理解されよう。「ある」ということのみによって、 それは理解されるべきである。

 理解するものと理解されるものの同一である状態として ただ「ある」というように理解されたとき、ブラフマンとアートマンの本質が知られる。

 心によって生じるあらゆる欲望が制せられるとき、死すべき者は不死となり、この世においてブラフマンを得る。この世において心の結び目がすっかり解きほどかれるとき、死すべき者は不死となるのだ。
          同 6章


 

アートマンはブラフマンである

2022-10-27 08:16:00 | ヴェーダーンタ

 アートマンはブラフマンである。

 このアートマンはブラフマンである。 それは認識からなり、思考作用からなり、 気息からなり、眼からなり、耳からなり、 地・水・火・風虚空からなり、 光からなり、光でないものからなり、 欲望からなり、欲望でないものからなり、 怒りからなり、怒りでないものからなり、 喜びからなり、喜びでないものからなり、正義からなり、正義でないものからなり、ありとあらゆるものからなるものである。 それは、「これより成り、あれより成る」とのものである。それは人の行為に従い、 その人の行なった通りに、それに応じたものになる。善いことを行なう人は善人となり、悪いことを行なう人は悪人となる。

 人は言う。「人間とは欲望よりなる」と。 人はその欲望のままにそれを意志し、その意志するとおりに実行し、 その行為に応じた報いを受けるのである。

 執着ある者は、その行ないとともに、その願望のしがみつく所へとおもむく。 この世においていかなることをなそうとも、その行為の極限に到達すると、新しい行為とその報いを積むために、 かの世からこの世へと再び戻ってくる。

 その心の中にひそむ欲望が、すべて無くなってしまった時、死すべき人間も不死となり、 この世においてブラフマンに達する。

 あたかも蛇のぬけがらが、 蟻塚の上に生命もなく横たわっているように、 それと同じようにこの身体も横たわる。 そしてこの身体をもたない生気こそは、 まさにブラフマンであり、まさに光輝そのものなのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 4章4節

 太古以来のひそかなる道は延々と連なり、 わたしに及び、実にわたしによって見いだされる。 この道を通って、賢明でありブラフマンを知る人は、この世から解放され、天上へと昇って行く。

 この道はブラフマンによって見いだされ、 その道を通って、ブラフマンを知る者、
善き行ないをなす者、光明にみたされた者は行く。

 無知の状態にいる人々は、暗黒の闇におちいる。 また、誤った知識に満足を見いだす人々は、さらに深い闇におちいる。それらの世界は「喜びのない世界」と呼ばれ、暗黒と闇とに覆われている。 無知であり目覚めることのない人々は、 死後にはそこへおもむくのである。

 もし人がアートマンを認識し、 「私はこれである」と確かに知るならば、その人は何を望み、何のために、 身体に執着して苦しむことがあろうか。この身体の奥深いところにある洞窟にひそむ、 アートマンを見いだし、確認した人、その人は一切のことを成しとげる人である。 なぜなら、その人は創造する者となるからである。 世界は彼のものであり、彼はまさに世界そのものである。

 まさしく現世にありながら、われわれはそれを知ることができるのである。もしそうでないとしたならば、われわれには無知と破滅とが残るだけである。そして、これらのことを知る人々は不死となり、 他の人々は苦しみにおもむく。

 このアートマンを神であると知り、 過去と未来の支配者として正しく認めるならば、 アートマンはもはやその人から離れ去ることはない。

 歳月は、その前で日々を重ねて回転する。神々はそれを光の中の光、不死なる生命として崇拝する。気息の本質・眼の本質・耳の本質、そして心の本質を知る者は、 変わることなき太初のブラフマンを知るのである。

 この世においては、いかなるものも多様には存在しない。 それはただ知性によってのみ考察される。この世において万物を多様性からのみ見る人、 その人は、死から死へと移り行くのである。 この滅びることのない永遠なるものは、ただ、「一なるもの」としてのみ見いだされる。それは汚れなく、虚空を超越し、 生じることなく、偉大であり、永遠なるものである。

 賢明な人はまさしくこれを知って、 叡知を自らの内に求めるべきである。 多くの言葉のみを考察すべきではない。 それは言葉をもつれさせるだけである。
        同 4章4節

 この生じることのない偉大なアートマンは、 もろもろの機能の中の認識の光であり、 一切の支配者であり、一切の統率者であり、 一切の君主なのであり、それは心臓の中の空間で安らかに身を横たえている。

 彼は善行によって大きくなることもなく、悪行によって小さくなることもない。彼は一切の主であり、主権者であり、万物の守護者である。 彼はもろもろの世界が潰滅しないように、 それらを互いに隔てている堤防である。

 このことを このように知る者は、心の迷うこともなく、平静で落ち着いており、 忍耐強く心の統一された者となる。自らの内にアートマンを見、 一切をアートマンと見るのである彼を悪が征服することはなく、彼がすべての悪を征服するのである。 彼を悪が焼きつくすことはなく、彼がすべての悪を焼きつくすのである。彼は悪を去り、汚れを離れ、 疑惑のなくなった真のバラモンとなる。そしてそれはブラフマンの世界なのである。
       同 4章4節

 実にアートマンこそ、見られるべきもの、聞かれるべきもの、 思考されるべきもの、瞑想されるべきものである。 実にアートマンが見られ、聞かれ、 思考され、瞑想されるとき、この世のすべては知られるのである
       同 4章~56節

 あたかも太鼓が打たれているとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、 太鼓を打つ者をとらえることにより、 音をとらえることができるように、あたかも法螺貝の吹かれるとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、 法螺貝を吹く者をとらえることにより、音をとらえることができるように、あたかも琴の弾かれるとき、 外に響く音をとらえることはできないけれど、琴を弾く者をとらえることにより、 音をとらえることができるように、あたかも湿った薪に火がともされるとき、 あらゆる方向に煙が立ちのぼるように、 もろもろのヴェーダ聖典、史詩、古伝話、 もろもろの科学、ウパニシャッド、格言、解釈、注解は、
大いなるアートマンの吐き出す息なのである。 この世のありとあらゆるものが、 アートマンの吐き出す息なのである。

 あたかも塩のかたまりが内もなく外もなく すべて味のかたまりであるように、 ああ、まさしくそのように、このアートマンも内もなく外もなく、 完全な叡知のかたまりそのものである。
          同 4章5節

 アートマンは消滅することのないもの、不滅をその本性とするものである。 たとえば二つの対立するものがある場合、その一方が他方を見、嗅ぎ、味わい、語り、聞き、思考し、触れ、認識するであろう。しかし、人にとって一切のものがアートマンになった その人は一体何によって何を見るのであろう? 一体何によって何を嗅ぎ、味わい、語り、 思考し、触れ、認識するのであろうか。

 この世のすべてのものを識別するそれを、 いかなるものによって識別できようか。
それはただ、「〜ではない、〜ではない。」と説かれるのみである。 それはとらえることができないからである。

 それはすべての束縛を受けず、動揺せず、なにものにも影響されず、決して破壊できないものである。ああ、すべてのことを知りつくすこの者を、だれが知ることができようか。

 あなたはまさに真実の教えを受けたのである。実に不死とは、このことなのである
         同 4章5節


ヤージュニャヴァルキヤはこのように語った。

ブリハッド•アーラニヤカ•ウパニシャッド

2022-10-26 11:41:00 | ヴェーダーンタ
ヤージュニャヴァルキヤが『ブラフマン』をジャナカ王に説く場面


 アートマン

 まるで蜘蛛が糸をたどって昇ってゆくように、細かい火花が火から飛び散るように、
このアートマンから一切の機能、 すべての世界、すべての神々、すべての存在が生じてくる。

 それは「真実の中の真実」と呼ばれる。 すべての機能は真実ではあるが、 アートマンはそれらの機能の真実なのだからである。
 ブリハッド•アーラニヤカ •ウパニシャッド2章1節−20

 主体者

 視覚の主体である視る者を、 あなたは見ることができない。 聴覚の主体である聴く者を、 あなたは聞くことができない。 思考の主体である思考する者を、 あなたは考えることはできない。 識別の主体である識別する者を、 あなたは識別することはできない。

 あなたのアートマン、それが万物の内にあるアートマンなのである。 それ以外のものは苦悩にゆだねられているのである。
       同 3章4節

 真のバラモン

 われらの眼の前に現れ、
姿を隠すことのないブラフマン、万物に内在するアートマン、それはあなたのアートマンである。それは飢渇、憂い、無知、 そして老いと死とを超越するものである。

 バラモンたちは、聖典を学ぶことにより、祭祀により、 布施により、苦行により、断食により、 それを知ろうと望んでいるのである。それを知ったとき、人は聖者となるのである。 遍歴者たちはこれのみを目的として、この世を遍歴するのである。

 古人はこのことを知っていたが故に、 子を望まなかったのである。 彼らは、息子を得たいという望み、あるいは財産を得たいという望み、
世間的なあらゆる望みを顧みることなく、食を乞いながら歩き回るのである。

 なぜなら、息子を得たいということは、 財産を得たいという欲望にほかならず、財産を得たいということは、死後の良き世界を得たいという
欲望にほかならないからである。それらはじつに同じものなのである。

 だからこそバラモン僧は学識を捨て、 愚かさに満足すべきである。さらに学識とか愚かさとかを捨て、彼は聖者となるのである。

 そして聖者とか聖者でないとかの立場も捨てたとき、 彼は真のバラモンとなるのである。
      同 3章5節

 内なる統率者 

 地の中にありながら地とは別のものであり、 地がそれを知ることもなく、 地がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 水の中にありながら水とは別のものであり、 水がそれを知ることもなく、 水がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 火の中にありながら火とは別のものであり、 火がそれを知ることもなく、 火がそれの身体であり、内から火を統率するもの、それがあなたの内なる統率者であり、不死なるアートマンである。

 太陽の中、月の中、星の中にありながら、 太陽や月や星とは別のものであり、 太陽や月や星がそれを知ることもなく、 太陽や月や星がそれの身体であり、 それらを内から統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 すべての世界の中にありながら、 すべての世界とは別のものであり、 すべての世界がそれを知ることもなく、 すべての世界がそれの身体であり、 内からすべての世界を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 気息の中、言葉の中、眼や耳や皮膚の中、 心の中、認識の中にありながら、 それらとは別のものであり、 それらがそれを知ることもなく、 それらすべてがそれの身体であり、内からそれらすべてを統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。

 それは他から見られることなく自ら見るものであり、 聞かれることなく自ら聞くものであり、 他から思考されることなく自ら思考するものであり、他から認識されることなく自ら認識するものである。

 それ以外に見る者も聞く者はなく、それ以外に思考する者も認識する者はない。それがあなたのアートマンであり、不死の、内なる統率者である。そして、これ以外のものは苦悩にさいなまれるのである。               
        同 3章7節

 不滅なるもの

 天より上にあり、地よりも下にあり、この天地がその中にあり、過去・現在・未来とよばれるものは、 空間の中において、縦と横に織りこまれている。そしてその空間は、 バラモンたちが「不滅なるもの」と呼ぶものによって、 縦と横に織りこまれているのである。

 その「不滅なるもの」とは、大きくもなく小さくもなく、長くもなく短くもない。 香りも味もなく、眼も耳もなく、影も闇もなく、風も空間もなく、 執着することがなく、接触がなく、香りも味もなく、眼も耳もなく、言葉もなく、心もなく、顔も名前もなく、 活動することがなく、生まれることも老いることもなく、 死ぬこともなく、恐れがなく、塵がなく、音声がなく、 覆いを取られることもなく、覆い隠されることもなく、以前もなく以後もなく、内もなく外もないもの...

 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 天と地とは分かれて存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、太陽と月とは分かれて配置されているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 昼と夜、もろもろの月日、もろもろの季節もろもろの年が、それぞれに分かれて配置され存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 川は山から東へと、山から西へとそれぞれの方向へと この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、布施する者のところへは人が、祭祀を行なう者のところには神々が、 供養をする者のところには祖先の霊が、 それぞれ集まって来てほめたたえるのである。

 この「不滅なるもの」を知らずに、 たとえ千年もの間、この世で供犧を捧げ、祭祀を行ない、苦行したとしても、その果報はやがて失われてしまうものである。この「不滅なるもの」を知らずに、この世から去る者は、みじめな者である。 この「不滅なるもの」を知って、この世から去る者こそ、まことのバラモンである。

 この「不滅なるもの」は、
見られることのない見る者、
聞かれることのない聞く者、 思考されることのない思考者、認識されることのない認識者である。これ以外の見る者はなく、これ以外の聞く者はなく、 これ以外の思考者はなく、これ以外の認識者はない。

 虚空がそのものにおいて、 縦と横とに織りこまれているもの、それは、この「不滅なるもの」なのである。
        同 3章8節


 ブラフマンの世界

 太陽が沈み、月も沈み、あらゆる火も消えうせ、言葉も絶えてしまったとき、 人は何を光明とするのであろうか?

 それはアートマンである。
人はアートマンだけを光明として坐し、動き回り、仕事をし、そして帰って来るのである。

 アートマンとは、認識から成り、心臓の中において内なる光を発し、つねに同一の状態にありながら、 しかも、この世とかの世とを往復するのである。 彼は沈黙して瞑想にふけるかのようであり、
ゆらゆらと動くかのようである。夢見るようにこの世界を超越するのである。

 この人は生まれると同時に肉身を受け、 もろもろの悪と結合される。そして彼が肉身から離脱して死ぬとき、このもろもろの悪を捨てさるのである。 この人はじつに二つの状態をもつものである。
すなわちこの世とかの世の状態である睡眠の状態は第三のものであり、両者の中間の状態である。このとき彼は 夢見るときはみずからの光に包まれて眠るのである。 このときこの人はみずからを光とするのである。

 そこには車もなく車につなぐ馬もなくそして道もない。
彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには喜もなく喜びも享楽もない。 彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには泉もなく蓮の池も川もなく、 彼はそれらを自分で造りだすのである。 なぜならば彼は創造者なのだからである。

 もし人の世において成功を収め、 裕福な者となり、権力者ともなり、人としてのあらゆる享楽を完全に満たすなら、それは人としての最高の喜びであろう。しかしその百の喜びですら、みずからの世界をかち得た祖霊たちの たった一つの喜びに等しいものである。みずからの世界をかち得た祖霊の百の喜びも、 祭祀によって神のようになった者の一つの喜びにすぎず、祭祀によって神のようになった者の百の喜びも、半神たちの一つの喜びにすぎない。神およびに偽りなく欲望にとらわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎず、

 創造者の世界における一つの喜びにすぎず、偽りなく欲望にそこなわれていないヴェーダ学者の 一つの喜びにすぎない。

 創造者の世界における百の喜びは、ブラフマンの世界における、そして、偽りなく欲望にそこなわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎないのである。

 そしてそれこそが最高の喜びであり、それがブラフマンの世界なのである。
          同 4章3節


ヤージュニャヴァルキヤはこのように語った。



ヤージュニャヴァルキヤ(Yājñavalkya, 漢訳: 祭皮衣仙)は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人。およそ紀元前750~前700年の人物。ウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として著名である。太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれる。(wiki)