二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

大霊

2024-07-16 08:00:00 | 西洋神秘主義
大霊 The Over-Soul
     

 そのような短い瞬間には深遠さがあり、その瞬間を体験するとき、私たちは、その体験には他のどのような体験よりも大きな真実性がある、と感じることを余儀なくされる。


地球が大気の柔らかな腕に抱かれるごとくに、私たちは大いなる自然の中で安らいでいる。この大いなる自然が、「統一」、「大霊」であり、その中で、すべての人間の個々の存在が、他のあらゆる存在と一つになっている。


私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、思慮深い静寂、普遍の美が存在し、どの部分、どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。


 私たちはこの深遠な力の中にあって、その力のもたらす至福をすっかり手に入れることができる。そしてこの力は、どの瞬間にも自己充足し、完璧であるのみならず、見る行為と見られる対象、見る者と見られる光景、主観と客観とが一つになっている。私たちはこの世界に存在するものを、太陽、月、動物、木•••というように別々の現象としてとらえる。だが、これらの輝かしい部分のすべてが一つになっている全体、それこそが魂なのである。


 はっきりしているのは、人間の内なる魂は私たちの存在の背景であり、現象のすべてはそこに内包されているということだ。その広大さは私たちの理解を超えている。内側あるいは背後から発せられる光は、私たちを通じて輝き、物事を照らし出す。そのとき私たちは、自身は無であり、光がすべてであることに気づかされる。一人の人間は、あらゆる叡智、あらゆる善が納められた神殿を外から見た一面である。


 魂が人間の理知を通じて呼吸をするとき、それは才能となり、人間の意志を通じて呼吸をするとき、それは徳となり、人間の情の中を流れるとき、それは愛となる。


 この純粋な性質を、すべての人間はいつかは感じるようになる。それを言葉で言い表すことはできない。あまりに微妙なものであるから。それはとらえどころがなく、計り知れないものだが、それが私たちの中に充満し、かつ私たちがその中に包含されていることに、私たちは気づいている。人間の内側にはあらゆる霊的存在があることを、私たちは知っている。


 私たちは一面では、深遠な霊的本質に、神の性質に開かれているのである。

  

*ラルフ・ウォルドー・エマーソン(1803- 1882年)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。




ある数秒間の体験

2024-07-16 07:59:00 | 西洋神秘主義
   
   

 ドストエフスキーは、ロシアの小説家・思想家。代表作は「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」など。19世紀後半のロシア小説を代表する文豪。


 ある数秒間が来る

 それは一回にせいぜい5秒か6秒しか続かないが、その時突如として永遠の調和が完全に獲得され直感されるのだ。

 それはもはや地上のものではない、が、さりとて天上のものだというのでもない。ただ現在あるがままの人間には到底堪えられないものなのだ。こちらが肉体的に変化するか、それとも死んでしまうか二つに一つだ。

 その時の気持ちは、もうまったく明澄そのもので、そこに議論をさしはさむ余地なんか全然ありはしない。

 まるで全宇宙をそっくりそのまま直観して『そうだ、これでよし』と肯定するような気持なんだ。それは調度神が世界を創造する時に、創造の一日一日の終わるごとに『然り、これでよし』と言われたのと同じようなものだ。

 それは単に有頂天になってしまうことではなくて、何となくただしいんと静まり返った法悦なんだ。その時には、人はもはや赦すというようなことはできない。なぜって赦すべきものなんか何一つ残らないんだもの。
 
 また、それは愛することとも違う。いや、愛どころか、そんなものよりずっと上なんだ。そして何より恐ろしいのはこの気持ちが実に素晴らしく鮮明でしかも得もいわれぬ歓喜に溢れていることなのさ。もしこの状態が5秒以上続いたら魂はもうもちこたえられないで消滅して仕舞うだろう。

 この5秒間のうちにぼくは一つの全生涯を生き通してしまう。そのためなら僕は一生を放棄したってちっとも惜しくないくらいだ。
 ドストエフスキー「悪霊」より


 照明

 その時、脳が一時にぱっと燃え上がるようにはたらき始め、生命力が猛烈な勢いで一挙にひきしめられる。

 生命の感覚と自意識が普段の何倍も力を増す。はげしい光が魂を照明し、あらゆる不安が解消して、崇高な静かな境地が現出する。そして理性の働きは、『究極因』までつかむことができるかと思われるほど高められる。
      同「白痴」より




マンレサの体験

2024-07-16 07:58:00 | 西洋神秘主義
    

イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラ(1491- 1556)のマンレサでの体験です。


マンレサの体験

 …あるとき、マンレサから1.5キロ位のところにある聖パウロ教会に出かけた。そこへの道は川に沿っていた。敬けんな思いにひたりながら歩いて行く途中、下の方を流れる川に向かい、しばらく腰をおろした。

 こうしてそこに坐っていると、理性の眼が開け始めた。しかし、そのときは至現を見たのではなく、霊的な事柄、信仰や学問に関する多くのことを理解し悟った。これによって非常に明るく照らされたので、すべてが新しく感じられた。

 このとき私が悟ったことは沢山あって、それらを詳述できない。理性に大いなる照らしを受けたことは確かである。

 したがって62歳を迎える今日までの生涯を通じ、神が教えて下さったすべてと、自ら学んだすべてを一つにまとめても、このとき一度で受けた照らしには遠く及ばないように思われる。

   (自叙伝30・2)



不可知の雲

2024-07-15 19:52:00 | 西洋神秘主義
おそらくそのとき神はときおり神との間に介在する「不可知の雲」を突き破って霊の光を放射し人の語ることのできない神の秘密の一部をあなたに示すであろう。 
 
  ウィリアム・ブレイク画      
 
 14世紀イギリスのキリスト教神秘主義的書物「不可知の雲」から、仏教の禅との類似を指摘される文章です。


 自己を忘れること

 …それ故に、あなたが持っているなにかある被造物に関する知識、特にあなた自身に関して所有しているすべての知識と感情を捨てなさい。なぜなら、一切の被造物にたいする知識と感覚は、すべて自己にかんする知識と感覚に依存しているからである。

 そして自己を忘れることにくらべれば、他の被造物を忘れるほうが比較にならないほど容易なのだ。

 あなたがこの試行に熱心にとりかかれば、すでに他の全被造物とその働き、およびあなた自身の活動を忘れてしまったあとでもなお、あなたと神とのあいだに、あなた自身の存在の赤裸な知識と感覚がのこっていることを見いだすであろう。

 あなたが観想活動の完成を感じるに先立ち、この自己にたいする知識と感覚を根絶することが必要である。43章)

 …これを「無」というのは誰であるか。それは、外的な人であって、内的な人ではない。内的な人は、それを「万有」と呼ぶ。(68章)


 自己を忘れること

 凡人は外のものを取るが道を求める人は内の心を取る。そして外も内も忘れてしまう。外のことを忘れるのはまだしも簡単だが心を忘れるのは至難のわざである。

 多くの人は心を忘れることができない。虚無に落ち込んでしまうと恐れるからである。

 ところが「空」には無なるものはなく、あるのは万有あるがままの世界なのである。
        伝心法要5


 
 黄檗希運、おうばく きうん、生年不詳 -(850年))は、中国唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師として知られる。


イスラムのスーフィーは、この主題を下記の一文に要約している:

 自己を忘れること

 ズィクルの最初の段階とは、自らを忘却することである。ズィクルの最後の段階とは、礼拝の際に礼拝行為をする自らを忘却し、礼拝行為を意識することもなく礼拝の対象に没入することである。このように没入する者は、礼拝する自分に再び戻らず永遠に没入することになる。これを「消滅からの消滅」(fana al-fana).と呼ぶ。


 ファナー(消滅)

 ファナーについてガザーリーは、次のようにいう。

 「スーフィーの目には一者以外には何ものもみえないし、また自己自身すらみえない。彼らはタウヒード(唯一性)の中に没入しており、そのために自己自身さえ気付いていない。その時、彼らはそのタウヒード体験の中で、自己自身から死滅している。自己をみ、他の被造物をみることからも死滅している。」

ガザーリーはその心理的特徴について、「畏怖の念で潰滅している状態」、「心は歓喜に満ちあふれ、それは身も心も崩れるばかりに強いもの」、「神の真性が完全に啓示され、・・・あらゆる存在の形式が心の中に開示されるほどに心が拡げられる」「太陽の灼光」のごときもの、と説明している。


生ける光の体験

2024-07-15 19:14:00 | 西洋神秘主義


   
 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179)

中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。史上4人目の女性の教会博士。 神秘家であり、40歳頃に「生ける光の影」の幻視体験をし、女預言者とみなされた。Wikipedia 
 

 生ける光

 「子供の頃から」と彼女は語った。
 
 私はいつも、私の魂の中に光を見るのです。それは外的な眼で見るのでもなければ、心の中の考えによって見るのでもありません。外的な五官は、この視覚には関係がないのです。

 …私が感じる光は

 場所的なものではなくて、太陽を運ぶ雲よりもずっと明るいのです。私はそこに、高さも広さも、あるいは長さも区別することができません。

 私がそういうヴィジョンの中で見たり学んだりすることは、いつまでも私の記憶の中に残っています。私は見、聞き、そして同時に知るのですが、私は、私の知ることをいわば瞬間のうちに学んでしまうのです。

・・・この光の中には、全くどんな形もみつけることはできません。もっともその中に、ときどき、私が生ける光と名づけた別の光を認めることはあります。

・・・私がこの光をみることに恍惚としているあいだ、あらゆる悲しみと苦悩は、私の記憶から消え去っているのです。 
 
彼女の描いたマンダラ