ブラフマン
ブラフマンといわれるものは実に人の外にある虚空である。人の外にある虚空こそ、人の内にある虚空である。実に人の内にあるこの虚空こそ、心臓の中にあるこの虚空である。それは充満しているもの、変化しないものである。このように知る者は、満ち足りて変わることのない幸福を得る。
ブラフマンは一切のものである。 心の平安に達しようと思う者はそれをこそ崇めよ。そして人は意向によって成るものである。人がこの世においていかなる意向を持ったとしても、この世を去った後も、彼は同じ意向を持つ者となる。 だから人は意向を定めるべきなのである。
心から成り、生気を身体となし、光輝を姿にもち、真実を思い、虚空をその本性とし、一切の行為をなし、一切の欲望をもち、 すべての香りをそなえ、すべての味をもち、 これら一切のものを包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの•••
それが胸の奥にひそむ、わがアートマンである。 それは米粒よりも、麦粒よりも、 あるいは芥子粒よりもさらに微細であり、 どのような小さなものよりもさらに微細である。 しかしまた、それは大地よりも大きく、 虚空よりも天よりも大きく、 すべての世界よりも大きなものである。
一切の行為をなし、一切の欲望をもち、 すべての香りをそなえ、すべての味をもち、これら一切のものを包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの•••
それが胸の奥にひそむ、わがアートマンである。 そしてそれはブラフマンである。
この世を去った後に、それと合一したいという意向のある者は、 このことに関して疑いはない。
チャーンドギヤ•ウパニシャッド 3章12•14節
お前がそれだ!
あたかも蜜蜂が蜜をつくるとき、 まざまな樹木の液を集めて同じ味のものとし、しかも、その中で、「わたしはあの樹木の液である」「わたしはこの樹木の液である」、このように区別しあうことのないように、一切の生命あるものは、真の存在に合一し、しかも「われわれは存在に合一する」とは知らないのである。
この世において虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、その他のいかなるものであれ、それらはその存在そのままなのである。
かの微細なもの、これらすべてのものはそれを本質としている。 それこそ真に存在するものである。 それはアートマンである。 そして、それはあなたである。
東方にある川は東にむかって流れ、 西方にある川は西にむかって流れる。 それらの川は海から生じて海へと帰る。 そこにおいてそれらの川が、 「わたしはこの川である」とは意識しないように、 「わたしはあの川である」とは意識しないように、 まさにそれと同じように一切の生命あるものは、 真実の存在より生じながら、 「自分は存在より生じたものである」とは 意識しないものである。
たとえばこの大きな樹の根に、 誰かが斧で切りつけたとしても、 樹は生きながらえて樹液を流すであろう。 中ほどの所を切りつけたとしても、先端の所を切りつけたとしても、 樹は生きながらえていて、樹液を流すであろう。 樹に生命であるアートマンが満ちていて、 さかんに水分を吸収しながら、喜々として立っているのだ。
その一本の枝から生命が去れば、その枝は枯れる。 第二の枝から生命が去れば、それも枯れる。 生命が樹木からすべて去れば、すべてが枯れる。まことに、それと同じように、 生命が去ると、この身体は死んでしまう。 しかし、生命そのものが死ぬことはない。
この微細なものを知るがよい。 この世にあるすべてのものは、 それを本質としているのである。 それこそが真実の存在、アートマンである。そして、それはあなたである。
ここにニヤグローダの樹の実がある。 それを割れば、そこには小さな種がある。 その種を割ってゆけば何も見ることができなくなる。あなたの見ることのできない微細なもの、それからこのように大きなニヤグローダの樹が育ってくるのである。
あなたは信じなさい。この微細なもの、この世のすべてのものはそれを本質としている。それは真に存在するものである。 それはアートマンである。そして、それはあなたである。
両手を縛られた人が連れて来られ、人々は罵り騒ぐ。
「この男が盗んだのだ、この男を処刑するために、 斧を真赤に焼け」と。もしこの男が犯人ならば、彼はそのゆえにこそ嘘をつくのである。 彼は嘘の陳述をして、みずから嘘に包まれ、灼熱した斧をつかみ、焼かれ、殺されるのである。 しかし彼が犯人でない場合は、彼は真実を申し立てる。彼は真実の陳述をして、 みずからを真実で包んでいるために、たとえ灼熱した斧をつかんでも、 彼は焼かれず、放免されるのである。
この微細なもの、
この世のすべてのものはそれを本質としている。 それは真に存在するものである。
それはアートマンである。
そして、それはあなたである。
同 6章9-16節
人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しない場合、 それが豊富ということである。人が他のものを見、他のものを聞き、 他のものを認識する場合、 それが欠乏ということである。 じつに豊富とは不死なるものであり、 欠乏とは死すべきものである。
真に見る者は死を見ることはない。病いを見ず、苦境を見ることもない。真に見る者は一切を見るのである。 そして、あらゆる場所において一切を得る。
同 7章24節
ブラフマンの城(身体)の中には、 蓮華の形をした家屋(心臓)があり、 その中に小さな空間がある。 その中に存在するものこそ、人の探求すべきものであり、まさに認識されるべきものである。
この心臓の中にある空間の広さは、この虚空の広さと同じである。 この虚空の中に天と地は包含されている。 太陽も月も、星も稲妻も、火も風も、 人がこの世において所有するものも、所有しない すべてがその中に包含されているのである。
それはは老いによって、 衰弱することもなく、死ぬこともない。その中にもろもろの願望が包含されているのである。 それを悪を絶滅し不老不死であり、 憂いも苦しみも離れ、飢渇を感じることもなく、 真正な願望と真正な思慮をもつアートマンである。
この世において
この世において祭祀によってかち得た世界が滅びるよう あの世においては、善行によってかち得た世界は滅びる
この世においてアートマンと真正なる願望を知ることなく、あの世におもむく者は
、 一切の世界において行動の自由を得ることはない。
この世においてアートマンと真正なる欲望を知って、 あの世におもむく者は、 一切の世界において行動の自由を得るのである。
そのような者はいかなる者であれ、 彼の欲するものは、彼が心に思い浮かべるだけで、 彼の目の前に現れる。願うだけで、すべてがかなえられる。彼はそれを得て、祝福された者となる。
この肉体から外に出て、最高の光明に合致したのち、 ありのままの自己の姿で現れる、あの完全な心の平安、それがアートマンである。
このように知る者は、
じつに毎日毎日、天の世界におもむくのである。
同 8章1•2•3節
アートマン
アートマンは、さまざまな世界が混じり合わないように防ぐ、 一つの壁であり、境界線である。昼もこの壁を越えることはない。 夜もこの壁を越えることはない。 老いも死も、憂いも悲しみも、 善行ないも悪い行ないも、その壁を越えることはない。
あらゆる邪悪なものは、そこから引き返す。 なぜならば、かのブラフマンの世界は、 すべての悪を断ち切っているからである。
この壁を越えるとき 、目の見えない人は、目が見えるようになり、 傷ついている人は、その傷が癒され、病気の人は健やかになる。
この壁を越えるとき、あらゆる闇は真昼のごとくになる。かのブラフマンの世界は、一瞬のうちにすべてを明るくするからである。
清らかなる生活を営む人によってのみ、 このブラフマンの世界は見いだされる。 そしてそれらの人々は、すべての世界において行動の自由を得る。
同 8章4節
この身体は死すべきものであり、死にとらえられている。 しかし、それは不死であり身体を持たないアートマンの住む家である。身体をもつものは、好悪の二者によってとらえられる。身体をもつ以上、それを断ち切ることは不可能である。しかし、身体のないものには、好悪の二者も触れることはない。
風は形なきものである。雲•稲妻•雷鳴なども形なきものである。あたかもこれらのものがあの虚空から現れ、最高の光明に達し、それぞれの形で出現するように、まさに、それと同じように、完全なる心の平安は、この身体から上昇して最高の光明に達し、ありのままの姿で出現する。
眼は見るためだけのものであり、耳は聞くためだけのものであり、 鼻は嗅ぐためだけのものである。 見ようと意志する者、聞こうと意志する者、 嗅ごうと意志する者、あるいは喋ろうと意志する者、 考えようと意志する者、それがアートマンである。 心はアートマンの眼である。 この眼によってそれはその欲望の対象を見て、満足するのである。
ブラフマンの世界にいる人々は、 このアートマンを神として崇拝する。このアートマンを見いだして認識する者は、 一切の世界と一切の願いを達成するのである。
同 8章12節
虚空は実に主体の世界と客体の世界とを実現させる。 その中間にあるもの、それがブラフマンである。 それは不死であり、それはアートマンである。
同 8章14節
ウッダーラカ・アールニ
紀元前8世紀のインドの哲学者。ヤージュニャヴァルキヤとならび、初期のウパニシャッドに登場する古代インド最大の哲人のひとり。ヤージュニャヴァルキヤの師と伝わる。生没年不詳。(wiki)