二つに見えて、世界はひとつ

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チャーンドギヤ•ウパニシャッド

2022-10-25 15:55:00 | ヴェーダーンタ
 ブラフマン

 ブラフマンといわれるものは実に人の外にある虚空である。人の外にある虚空こそ、人の内にある虚空である。実に人の内にあるこの虚空こそ、心臓の中にあるこの虚空である。それは充満しているもの、変化しないものである。このように知る者は、満ち足りて変わることのない幸福を得る。

 ブラフマンは一切のものである。 心の平安に達しようと思う者はそれをこそ崇めよ。そして人は意向によって成るものである。人がこの世においていかなる意向を持ったとしても、この世を去った後も、彼は同じ意向を持つ者となる。 だから人は意向を定めるべきなのである。

 心から成り、生気を身体となし、光輝を姿にもち、真実を思い、虚空をその本性とし、一切の行為をなし、一切の欲望をもち、 すべての香りをそなえ、すべての味をもち、 これら一切のものを包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの•••

 それが胸の奥にひそむ、わがアートマンである。 それは米粒よりも、麦粒よりも、 あるいは芥子粒よりもさらに微細であり、 どのような小さなものよりもさらに微細である。 しかしまた、それは大地よりも大きく、 虚空よりも天よりも大きく、 すべての世界よりも大きなものである。

 一切の行為をなし、一切の欲望をもち、 すべての香りをそなえ、すべての味をもち、これら一切のものを包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの•••

 それが胸の奥にひそむ、わがアートマンである。 そしてそれはブラフマンである。
この世を去った後に、それと合一したいという意向のある者は、 このことに関して疑いはない。

チャーンドギヤ•ウパニシャッド 3章12•14節


   お前がそれだ!

 あたかも蜜蜂が蜜をつくるとき、 まざまな樹木の液を集めて同じ味のものとし、しかも、その中で、「わたしはあの樹木の液である」「わたしはこの樹木の液である」、このように区別しあうことのないように、一切の生命あるものは、真の存在に合一し、しかも「われわれは存在に合一する」とは知らないのである。

 この世において虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、その他のいかなるものであれ、それらはその存在そのままなのである。

 かの微細なもの、これらすべてのものはそれを本質としている。 それこそ真に存在するものである。 それはアートマンである。 そして、それはあなたである。

 東方にある川は東にむかって流れ、 西方にある川は西にむかって流れる。 それらの川は海から生じて海へと帰る。 そこにおいてそれらの川が、 「わたしはこの川である」とは意識しないように、 「わたしはあの川である」とは意識しないように、 まさにそれと同じように一切の生命あるものは、 真実の存在より生じながら、 「自分は存在より生じたものである」とは 意識しないものである。

 たとえばこの大きな樹の根に、 誰かが斧で切りつけたとしても、 樹は生きながらえて樹液を流すであろう。 中ほどの所を切りつけたとしても、先端の所を切りつけたとしても、 樹は生きながらえていて、樹液を流すであろう。 樹に生命であるアートマンが満ちていて、 さかんに水分を吸収しながら、喜々として立っているのだ。

 その一本の枝から生命が去れば、その枝は枯れる。 第二の枝から生命が去れば、それも枯れる。 生命が樹木からすべて去れば、すべてが枯れる。まことに、それと同じように、 生命が去ると、この身体は死んでしまう。 しかし、生命そのものが死ぬことはない。

 この微細なものを知るがよい。 この世にあるすべてのものは、 それを本質としているのである。 それこそが真実の存在、アートマンである。そして、それはあなたである。

 ここにニヤグローダの樹の実がある。 それを割れば、そこには小さな種がある。 その種を割ってゆけば何も見ることができなくなる。あなたの見ることのできない微細なもの、それからこのように大きなニヤグローダの樹が育ってくるのである。

 あなたは信じなさい。この微細なもの、この世のすべてのものはそれを本質としている。それは真に存在するものである。 それはアートマンである。そして、それはあなたである。

 両手を縛られた人が連れて来られ、人々は罵り騒ぐ。
「この男が盗んだのだ、この男を処刑するために、 斧を真赤に焼け」と。もしこの男が犯人ならば、彼はそのゆえにこそ嘘をつくのである。 彼は嘘の陳述をして、みずから嘘に包まれ、灼熱した斧をつかみ、焼かれ、殺されるのである。 しかし彼が犯人でない場合は、彼は真実を申し立てる。彼は真実の陳述をして、 みずからを真実で包んでいるために、たとえ灼熱した斧をつかんでも、 彼は焼かれず、放免されるのである。

 この微細なもの、
この世のすべてのものはそれを本質としている。 それは真に存在するものである。
それはアートマンである。
そして、それはあなたである。
       同 6章9-16節

 人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しない場合、 それが豊富ということである。人が他のものを見、他のものを聞き、 他のものを認識する場合、 それが欠乏ということである。 じつに豊富とは不死なるものであり、 欠乏とは死すべきものである。

 真に見る者は死を見ることはない。病いを見ず、苦境を見ることもない。真に見る者は一切を見るのである。 そして、あらゆる場所において一切を得る。
          同 7章24節


 ブラフマンの城(身体)の中には、 蓮華の形をした家屋(心臓)があり、 その中に小さな空間がある。 その中に存在するものこそ、人の探求すべきものであり、まさに認識されるべきものである。
この心臓の中にある空間の広さは、この虚空の広さと同じである。 この虚空の中に天と地は包含されている。 太陽も月も、星も稲妻も、火も風も、 人がこの世において所有するものも、所有しない すべてがその中に包含されているのである。

 それはは老いによって、 衰弱することもなく、死ぬこともない。その中にもろもろの願望が包含されているのである。 それを悪を絶滅し不老不死であり、 憂いも苦しみも離れ、飢渇を感じることもなく、 真正な願望と真正な思慮をもつアートマンである。

 この世において

 この世において祭祀によってかち得た世界が滅びるよう あの世においては、善行によってかち得た世界は滅びる

 この世においてアートマンと真正なる願望を知ることなく、あの世におもむく者は
、 一切の世界において行動の自由を得ることはない。

 この世においてアートマンと真正なる欲望を知って、 あの世におもむく者は、 一切の世界において行動の自由を得るのである。

 そのような者はいかなる者であれ、 彼の欲するものは、彼が心に思い浮かべるだけで、 彼の目の前に現れる。願うだけで、すべてがかなえられる。彼はそれを得て、祝福された者となる。

 この肉体から外に出て、最高の光明に合致したのち、 ありのままの自己の姿で現れる、あの完全な心の平安、それがアートマンである。

 このように知る者は、
じつに毎日毎日、天の世界におもむくのである。
        同 8章1•2•3節

 アートマン

 アートマンは、さまざまな世界が混じり合わないように防ぐ、 一つの壁であり、境界線である。昼もこの壁を越えることはない。 夜もこの壁を越えることはない。 老いも死も、憂いも悲しみも、 善行ないも悪い行ないも、その壁を越えることはない。

 あらゆる邪悪なものは、そこから引き返す。 なぜならば、かのブラフマンの世界は、 すべての悪を断ち切っているからである。

 この壁を越えるとき 、目の見えない人は、目が見えるようになり、 傷ついている人は、その傷が癒され、病気の人は健やかになる。

 この壁を越えるとき、あらゆる闇は真昼のごとくになる。かのブラフマンの世界は、一瞬のうちにすべてを明るくするからである。

 清らかなる生活を営む人によってのみ、 このブラフマンの世界は見いだされる。 そしてそれらの人々は、すべての世界において行動の自由を得る。
         同 8章4節

 この身体は死すべきものであり、死にとらえられている。 しかし、それは不死であり身体を持たないアートマンの住む家である。身体をもつものは、好悪の二者によってとらえられる。身体をもつ以上、それを断ち切ることは不可能である。しかし、身体のないものには、好悪の二者も触れることはない。

 風は形なきものである。雲•稲妻•雷鳴なども形なきものである。あたかもこれらのものがあの虚空から現れ、最高の光明に達し、それぞれの形で出現するように、まさに、それと同じように、完全なる心の平安は、この身体から上昇して最高の光明に達し、ありのままの姿で出現する。

 眼は見るためだけのものであり、耳は聞くためだけのものであり、 鼻は嗅ぐためだけのものである。 見ようと意志する者、聞こうと意志する者、 嗅ごうと意志する者、あるいは喋ろうと意志する者、 考えようと意志する者、それがアートマンである。 心はアートマンの眼である。 この眼によってそれはその欲望の対象を見て、満足するのである。

 ブラフマンの世界にいる人々は、 このアートマンを神として崇拝する。このアートマンを見いだして認識する者は、 一切の世界と一切の願いを達成するのである。
          同 8章12節

 虚空は実に主体の世界と客体の世界とを実現させる。 その中間にあるもの、それがブラフマンである。 それは不死であり、それはアートマンである。
       同 8章14節

 

ウッダーラカ・アールニ
紀元前8世紀のインドの哲学者。ヤージュニャヴァルキヤとならび、初期のウパニシャッドに登場する古代インド最大の哲人のひとり。ヤージュニャヴァルキヤの師と伝わる。生没年不詳。(wiki)




梵我一如

2022-10-25 08:47:00 | ヴェーダーンタ

 アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、心の最も深いところにある個の根源を意味します。「真我」と訳され、近年では「真実の自己」とも呼ばれています。

 ヴェーダの核心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的同一(梵我一如)の思想で、ウパニシャッド(奥義書)ではつぎのように説明されています。
 
 

 内なるアートマン

 神は外の世界に向けて孔をあけた。それで人は外を見るのだが、内のアートマンには眼を向けることはない。

 賢者たちは、不死を求めて、眼をひるがえし内にアートマンを観察する。

 愚かな人々は外に向かってさまざまな快楽のあとを追う。そして彼らはあらゆる所に張りめぐらされている死神の縄にとらえられる。

 しかし賢者たちは不死を知りこの世において移ろいゆくものの中に永遠なるものを求めることはない。
  カタ・ウパニシャッド 4章

 「これこそ、それである!」と、彼らは考える。

 言葉では言いあらわせない最高の幸福、それを人はどのようにして理解したらよいのだろうか。

 それは『存在する』という以外に、どうして理解されようか。

 『存在している!』 

 この言葉が得られたとき、その真の本質は明らかにされるのである。
        同 6章
 
 すべての者の内にあるアートマンは、その「一なる姿」をさまざまに現す唯一の支配者である。

 賢者たちはそれが自身の中にあると観じて、自らの平安を享受するが、他の者たちにとってはそうではない。

 恒常なものの中でも恒常であり、知恵ある者の中でも知恵すぐれ、彼は人々の願いを満たす唯一者である。

 賢者たちはそれが自身の内にあるのを観じて、永遠の静けさを享受するが、他の者たちにとってはそうではない。
         同 5章
 
  バラモン

 それは飢え、憂いに愚痴、さらには老いも死も超越するものである。

 実にこのようなアートマンを知る時、バラモンたちは息子を得たいとの願い、財産を得たいとの願い、そして世俗に対する願望を捨てて、食を乞うて歩き修行するのである。

 なぜなら息子を得たいとの願いは財産を得たいという願いにほかならず、財産への願望は世俗に対す願望でありこの二つの願いは実は同じであるからである。

 だからバラモンは学識を捨てて愚かさに満足すべきである。

 彼はさらに学識と愚かさとをともに捨てて聖者となり、聖者であることと聖者でないこととの両者を捨てて、かくて彼はバラモンとなるのである。
 ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド3章5節 

 アートマン

 ブラフマンの城の中にハスの花の形をした小さな家があり、その中に小さな空間がある。

 その中に存在するものこそ、あなたの捜さなければ
ならないもの、見つけなければならないものである。

 その小さな空間の広さは
目の前に広がる空間と同じ広さなのある。この中に天と地とが包みこまれている。太陽も月も、星も稲妻も、火も風も、人が所有するものも所有しないものも、すべてがその中に包みこまれている。

 それは老いによって衰えることもなく、もちろん死ぬこともない。このブラフマンの城の中に人の願いのすべてが包みこまれている。 

 それは悪を絶滅している。それは不老不死であり、何の憂いもなく何の苦しみもない。飢えることも渇くこともなく、真実なる願いと真実なる思いをもつ、アートマンなのある。
 チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章1節

 祝福された人

 この世において、
祭祀によりかち得た世界が
滅びるように、あの世においては善き行ないによりかち得た世界は滅びる。

 この世でアートマンと真実の願いを知ることなくあの世に向かう人が自由を得ることはない。この世でアートマンと真実の願いを知りあの世に向かう人は自由を得ることができる。

 そのような人は何であろうと欲しいものは心に思い浮かべるだけで目の前に現れる。ただ願うだけで、すべてがかなえられる。それを得てその人は「祝福された人」と呼ばれる。

 この肉体から外に出て最高の光と合体し、そののち、ありのままの自己の姿で現れるあの完全なる心の平安、それがアートマンなのである。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章 1~3節

  

 ブラフマンの世界

 アートマンはさまざまな世界が混じり合わないように防ぐ一つの壁であり境界線である。

 昼もこの壁を越えることはない。夜もこの壁を越えることはない。

 老いも死も、憂いも悲しみも、善い行ないも悪い行ないも、その壁を越えることはない。

 あらゆる邪悪なものはそこから引き返す。なぜならばブラフマンの世界はすべての悪を断ち切っているからである。

 この壁を越えるとき、
目の見えない人は目が見えるようになり、傷ついている人はその傷がいやされ、
病気の人は健やかになる。

 この壁を越えるときあらゆる闇は真昼のようになる。ブラフマンの世界は一瞬のうちにすべてを明るくするからである。

 清らかなる生活を営む人によってのみ、このブラフマンの世界は見いだされる。そしてそれらの人々はすべての世界において行動の自由を得る。
 チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章4節