二つに見えて、世界はひとつ

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仏教哲学における理性と直観

2022-11-23 15:31:00 | 直接体験
 以下は鈴木大拙の英文の著作「Essays in East-west 
Philorsphy」の要約です。仏教思想を知らない欧米人に対して哲学用語を使ってわかりやすく説明しています。そこからいくつか選んでみました。prajñāはふつう智慧と訳されますがここでは直観になっています。

 理性と直観

 「直観」という言葉のかわりには、仏教では一般に「般若 (prajñā)」という言葉が用いられ、「理性」又は「思弁的理解」とい 代りには、「識 (vijñāna) (分別または分別意識)」という言葉を使う。識と般若の両者が常に対比されるわけである。

識 (vijñāna) 」は人間感覚と知性の世界ではたらく。 この「識」すなわち分別の世界においては、 見る者と見られる者とがあって、それらが対立する。 そういう二元論が根本的な性格となっている。しかし般若(prajñā)においてはそういう区別はないので、そこでは、見る者と、見られる者とが同一なのだ。見る者が見られる者で、見られる者が見る者である。 分別識の世界で起こるように般若が二つの要素に分析されてしまえば、もう般若は般若でなくなってしまう。般若は般若だけでよいのである。

 分けるということは分別の特徴であるのに反して、般若
(prajñā)は全くその逆だ。般若と分別を比較した場合、般若は全体が全体自身を知るのであるに対して、分別は部分に付いてまわるものである。

 統合と分析

 いろいろなものを区別し識別する分化作用というものは、何物かがあってそれが集成ないし統合するというはたらきをしなければ、分化作用は不可能なものであるということが納得されると、ここで分化作用をする分別識(vijñāna) の根底には般若 (prajñā)が在るということ、また、分別識の機能をして分化の原理としてはたらかしめているものが 即ち般若であるということは、わりあい容易にわかるものだ。

 主客の対立

 主体と客体の二項対立ということは、その背後に主体 でもなく客体でもない何かがなければ成立しない。この何かとは一種の場所であって、この場所で主体・客体が作用するのであり、そこで、主体が客体から分離され、又、客体が主体から分離されるのである。


 もし両者が何らかの形で 相関連していなければ、分離とか否定などということすらできないわけだ。そこには何か、客体の中に主体が、 主体の中に客体が、なければならず、そしてそれが分離または統合を可能ならしめているようだ。しかし、この何物かというものは、論理的判断の主題とすることはできないので、そこにはこの一番基本的な原理に到達すべき別の方法がなければならない。

 実のところ、それがあまりにも基本的であるので、かえって分析の道具を適用することができないのである。我々はどうしても般若直観に頼らなければならない。

 逆説的表現

 逆説的表現というものが、般若直観の特質である。般若は分別意識または論理というものを超越しているので、それ自身、自己矛盾することを少しも意に介さない。言いかえれば、矛盾とはものを分 けてみる分別作用の結果であり、それが「識」のはたらきであるということを、般若はよく承知しているのだ。般若は、 先に肯定したことを否定したり、また、否定したことを肯定したりする。これは、般若がこの二元性の世界を処理する独特の方法をもつているわけだ。

 換言すれば、分別意識によってなされた否定・肯定のどちら側に般若が現示されていようとも、般若はそれでいて決して分裂していないのである。 分別意識がそれそのものとなるには、どうしてもどちらかの一方に極性を与えなければならないのだが、般若は決してその合一的全体性というものを失わない。
          同2より

 方法論

 つまり、こういうことなのだ。般若の方法論が分別識または知性のそれと全然正反対なのである。この方法論の相違の故に、般若によって表現されることが、いつも知性にとってはまるで問題にならぬ馬鹿げたものに見え、従って、真剣に取り上げてみることさえなく拒否されてしまうのである。

  分別識は二元対立の原則であり、また、 概念構成の原則でもあるわけであるから、我々日常生活の諸事象を取り扱う上になくてはならぬ重要な武器となっている。ゆえに、我々はいつしか知性というものを、この相対性の世界を処理する一番肝腎な方法と考えるようになって来たのであるが、しかしながらこの場合一つの大事なことを忘却しているのだ。

 それはつまり、この相対的な世界は、 人間知性よりもさらに深い所に根ざしている「あるもの」によって創造されているのだということである。実際、知性自体が、その存在理由と、そしてあらゆる機能を、この不可思議な「あるもの」に負うてあるのである。一方、この分別識すなわち人間性が行う価値付けの方法というものは、一種の悲劇にほかならぬ。なぜならば、それは、我々の心情に又は精神に、何ともいいしれぬ不安をひき起し、この人生というものを悲惨事に満ちた重荷にしてしまうからである。

 しかしここに注意すべきは、この悲劇と不安あるが故にこそ、また、我々人間が反って般若経験の事実に目覚めるのだということである。

 般若は経験である

 心理学的に言えば、般若は一種の経験である。しかしながら、経験といっても、知的、感覚的、あるいは感情的などという我々の日常生活の諸経験と混同してはならない。 般若は実に一番基本的な経験である。この基本的経験の上に他のすべての経験が置かれている。 般若はいろいろな性格で規定される諸経験から切り離されたものと見なしてはならないのであるが、また一方、それは識別を超越した純粋経験である。

 般若は常に直接性を要求するものであり、いかなる反省も許さない。花を見る場合、見るものは直下にそれを花だと知る。また、冷水に手を入れた瞬間ただちに冷たいと知る。これは即座に、直接であって、決して思考する一瞬の余地もない。この点で般若直観は知覚作用に似ている。

 しかし、般若直観と知覚作用との相違は、知覚が感覚を出ないというのに反して、直観は更に深く根ざしていることだ。 知覚作用がこの根底に触れた時に、それが般若直観になるのである。

 具体的なもの

 般若は「空」の自覚である。この自覚なくして、人間の精神生活というものはありえず、人間のいかなる思想も感情も、あたかも繋ぎの綱を失った小舟のごとく、はたらきの中心を失ったものとなってしまう。般若は統一と平等の原理である。 我々はそれをある抽象的理念と考えてはならないので、決して理念ではなくて、言葉のもつあらゆる意味において最も具体的なものであるということができよう。その具体性によって、般若は世界中で最もダイナミックなものなのである。
      
 しかし、般若の作用を考えることさえ、それはやはり分別識のはたらきなので、この意味から般若は分別識からのがれることはできないだろう。般若直観(prajñā)と理性の分別作用(vijñāna)とはいづれも大切なもので、統合的な哲学の建設には欠くことのできないものである。
          同4より


(参)世界大百科事典内のプラジュニャーの言及
【知恵】より
 知恵は現実のさまざまな現象を識別するとともに,それを統合して理解するはたらきであるために,現実の感覚的なはたらきを超えて,全体を把握する超越的な意味も含んでいる。仏教では知恵をものごとの識別に使われる智(ジュニャーナjñāna)と,統合的で識別的な機能を超える般若の智慧(プラジュニャーprajñā)とに分けて考えた。また,先天的に備わっている生得慧,他人の教えから得られる聞所成慧,内的思索によって得られる思所成慧,修行の実践の中で得られる修所成慧の4種類に分類している。




直観と概念

2022-11-22 10:15:00 | 直接体験
直観と概念 

188
 もちろん、形而上学にも概念は必要である。なぜなら、他のすべての科学はごくふつうに概念に基づいて仕事をしている。形而上学はそうした諸科学なしにすませるわけにはいかない。

 しかし、形而上学の本来の面目は、概念をこえ、あるいは少なくとも、こわばった出来合いの概念から自由になり、いつも私たちが手にしているものとはまるで違う概念、しなやかでよく動き、ほとんど流動的であり、直観のとらえがたい形にいつでも型を合わせるような表象を創造するところにある。

198
 概念はふつう対をなし、対立する二つのものを示している。どのような具体的実在も、相反する二つの視点から同時に見ることができ、したがって対立する二つの概念に包摂できる。

 ここから、定立と反定立を和解させようとするむだな努力が延々となされるが、その理由は簡単である。概念あるいは視点でものをつくることは決してできないからだ。

 しかし、直観でとらえた対象からは、たいていの場合、二つの反対概念へ容易に移行できる。
 
 そのように実在から定立と反定立があらわれることがわかるので、両者がどう対立しどのように和解するかも同時に把握できる。

 そのためには、知性の通常の働きを転倒させる必要がある。考えるとは通常、事物から概念へではなく、概念から事物へ進むことである。

「認識」という言葉のふつうの意味において、実在を認識するとは、既成の概念を手にして、それを調合して組み合せ、実在の実用的等価物をつくり出すことである。

199
 知性の正常な働きが利害にとらわれたものであることを認めよう。一般に私たちは、認識のための認識を目指していない。そうではなく、立場を決め、利益を得、関心を満たすために認識している。対象がどの点まで“あれ”であり”これ“であるか、既知のどのジャンルに当てはまり、どんな行動や手続きや態度を私たちに取らせることになるのか、それを知ろうとしているのである。そうした可能的行動や態度が私たちの思考の概念的な方向であり、そしてそれは一度にすべて決定される。後はそれについていくだけである。概念を事物に適用するとは、まさにそうしたことである。

直観と分析

202
 分析は不動のものに働きかけ、それに対して直観は動きのなか、あるいは同じことだが持続のなかに身を置くのである。

 ここに直観と分析との明快な境界線がある。私たちは実在的もの、生きているもの、具体的なものを、それが可変性のものであるという点において認める。

 要素というものを、それが変化しないものであるという点において認める。要素とは図式であり単純化された再構築物であり、たいていの場合は記号であり、いずれにせよ、流れる実在に向けられた一つの眺めであり、定義からいって変化しないものである。

 図式的もので実在的なものを再構成できると思うのは誤りである。これはいくら繰り返し言ってもいい。

 直観から分析に移行できるが、分析からは直観に移行できない。
 「形而上学入門」より

 直観について

27
 私の語る直観は何よりもまず内的な持続へ向かう。直観がとらえるのは並置ではなく継起であり、内からの生長であり、絶え間なく伸びて現在から未来へ食い入る過去である。

 直観とは精神による精神の直接的な視覚である。そこにはもはや何ものも介在しない。空間を一面とし言語を他面とするプリズムを通した屈折も起こらない。
状態が状態に隣り合い、それが言葉となって並置される代わりに、そこには分割できず、したがって実体的で、内的生命の流れの連続性がある。

 それゆえ直観とはまず何より意識を意味するのだが、しかしそれは直接的な意識であり、対象とほとんど区別のつかない視覚であり、接触というより合一する認識である。

28
 ついで、直観とはひろがって無意識のふちに迫る意識である。無意識は譲歩し、抵抗し、屈服し、そして捉えられる。そうした光と闇のすみやかな交代を通して、直観は無意識の存在を私たちに教える。

 厳格な論理に反して、直観は心理現象がどんなに意識的なものであるにせよ、心理的な無意識が存在することを私たちに教える。

 しかし直観はもっと先まで行けないだろうか。直観とは私たち自身の直観にすぎないのだろうか。自分の意識と他の意識との区別は、自分の身体と他の身体との区別ほどに明確ではない。なぜなら、明確な区別をおこなうのは空間であるからだ。

 無意識的な共感や反感はしばしば予見的なものであり、人間の意識のあいだで相互貫入が起こることを示している。

 実在は経験のうちにしか与えられない

50
 実在は経験のうちにしか与えられない。その経験が物質的なものを対象とする場合は、視覚、触覚、あるいは一般に外部知覚と呼ばれ、精神に向けられる場合は直観と呼ばれる。
 思考と動き」序論(2)より


知性と直観

2022-11-21 20:00:00 | 直接体験
  

 1 本能

 本能は生命の形式そのものにもとづいて形づくられる。

 もし本能のなかに眠っている意識が目覚めたならば、もし本能が外面化して行動となるかわりに内面化して認識となっていたならば、また、もしわれわれが本能に問いかけることができ本能がそれに答えることができたならば、本能はわれわれに生命の最も奥深い秘密を見せてくれることであろう。

 本能は共感である。もしこの共感がその対象をひろげ、また自己自身について反省することができたならば、この共感は、生命的な作用の鍵をわれわれに与えてくれることであろう。
  「創造的進化」2章より

 
   
2 直観

 知性と本能は、相反する二つの方向に、すなわち知性は物質の方へ、本能は生命の方へ向けられている。

 知性は対象のまわりをまわり、外からその対象についてできるだけ多くの観点をとるが、それを自分の方にひきよせるだけで、自分からそれのなかに入っていくことはしない。

 もっと適切にいえば 知性とはある対象を他の対象に関係させる能力である。知性はどんな事物にも適応されるが、つねにその事物の外にとどまっている。

 けれども、直観は生命の内奥そのものへわれわれを導いてくれるであろう。

 私がここで直観と言うのは、利害をはなれ、自己自身を意識するようになった本能のことであり、その対象について反省するとともにこれを無限に拡大することのできる本能のことである。

 世界を満たす物質と生命が、われわれの内にもある。万物の内に働いている力を、われわれは自分の内に感じる。

 存在するもの、生成するものの内的本質がどのようなものであろうと、われわれはこの本質をもっている。

 自身の内部に下降してみるとき、そのときわれわれが触れた点が深ければ深いほど、表面へ押し戻す上昇圧力は強くなる。哲学的直観とはこの接触のことである
『創造的進化2章』「哲学的直観」より

 

3 知性

 意識は、人間にあっては、何よりも知性である。思うに、意識は直観でもありえたであろうし、直観でもあるべきであった。

 直観と知性とは、意識的な働きの相反する二つの 方向をあらわす。直観は生命の方向そのものに進み、知性は逆の方向に向かう。

 完全な人間性があるとすれば、そこでは意識の二形態である知性と直観がともに十分な発達段階に達しているであろう。

 しかし、われわれの人間性においては、直観はほとんどまったく知性の犠牲になっている。

 意識は、物質の習性に自己を適応させ、物質の習性に自己のあらゆる注意を集中させている。要するに、意識は何よりも自己を知性として規定しているのだ。
  『創造的進化』2章より

  

4 哲学

 なるほど、そこには直観がある。しかし漠然としており、とりわけ非連続的である。それはほとんど消えかかったランプである。

 ときたま燃えあがっても、ほんの束の間しかつづかない。しかし、このランプは生命的関心が働くときには、燃えあがる。

 われわれの人格のうえに、自由のうえに、われわれが自然全体のなかで占める位置のうえに、われわれの起源のうえに、またおそらくはわれわれの運命のうえに、このランプはゆらめく微光を投げかける。

 微光ではあるけれども、それは、知性がわれわれを置きざりにする闇をつらぬく。

 この消え去りがちな直観、対象をたまさかにしか照らしださないこの直観を、哲学はわがものとなし、まず直観を力づけ、ついでそれを拡大し、直観をたがいに結びあわせなければならない。

 哲学がこの仕事を進めていけばいくほど、それだけいっそう、哲学は、直観が精神そのものであり、ある意味では生命そのものであることに気づく。 

 知性は、直観から浮かびでる。直観のうちに身を置いて、そこから知性に進んでいくときに、はじめて、われわれは 精神生活の統一を認識する。

 これは知性を直観のなかにふたたび吸収しようとする哲学である。なぜなら、知性から直観へ移ることは決してできないであろうからである。
  『創造的進化』3章より

  

5 知性の誤謬

 知性は外にまなざしを向け自己自身に対して自己を外的ならしめる生命である。

 知性は無機的自然の歩みを原理として採用することによって実際上この歩みを導いていく生命である。

 本能と知性は同じ一つの根源から分かれでた二つの発展である。この根源が、一方の場合には、自己に対して内的であるままにとどまり、他方の場合には、自己を外化し、ただの物質の利用に没頭する。

 知性は、科学というその作品を介して物理的作用の秘密をますます完全に明かしてくれる。

 しかし、生命については、知性は惰性的用語に言いかえたものをしか与えてくれないし、また、与えるつもりもない。

 知性は、物を扱うのにかくも巧みでありながら、ひとたび生物に触れると、たちまち自分の不器用さを暴露する。
 知性の誤謬の起源は、われわれが生命を物として取り扱い一切の実在を、いかに流動的な実在をも、まったく停止した固体の形式のもとに考えるわれわれ自身の頑迷さにある。

 われわれは非連続的なもの、不動なもの、死んだもののうちにおいてしか、くつろぎを感じない。知性は、生命についての自然的な無理解によって特徴づけられる。   『創造的進化2章』より

 

6 平面的思考

 古典的な考え方は生命を知性によって説明するので、生命の意義を不当にせばめてしまう。知性は、いっそう広大なものから切り取られたものである。

 あるいはむしろ、知性は、起伏や奥行きのある実在を、やむえず平面上に投影させたものでしかない。知性のすべての操作は幾何学を目ざしている。そこまでいってはじめて、知性はその完成を見るかのごとくである。

 古代人たちの科学は静的である。彼らの科学は「時間」を考慮に入れない。幾何学はまったく静的な科学であった。今日なお、われわれはギリシア人たちのようなしかたで 哲学している。

 動く実在の根底に不動のイデーを置くやいなや、そこからあらゆる自然学、あらゆる宇宙論、あらゆる神学が必然的に出て来る。
『創造的進化』「幾何学的秩序」
「プラトンとアリストテレス」より
 

7 動き

 時間のうちにあるすべては内的に変化する。決して同一の具体的実在が反復することはない。

 したがって、反復は抽象のなかにしかありえない。反復するのは、われわれの感覚やわれわれの知性が、実在から切りとったあれこれの相である。

 知性は反復するものに心を奪われ時間を見ることをやめてしまう。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく固体化させてしまう。

 われわれは真の時間を思考するのではない。われわれは真の時間を生きるのである。というのも、生命は知性の手から溢れ出るものだからである。

 生命の内的な運動をとらえなおすには、流動的なものを、役立てなければならないということを忘れている。

 知性が純粋な観照を目ざすなら、知性は運動のなかにこそ身を据えることであろう。なぜなら運動は、実在そのものだからである。     『創造的進化』より
 
  

8 自我

 知性は、区別しようとする飽くことのない願いにさいなまれて、現実に記号を置きかえあるいは記号を通してしか現実を知覚しない。

 このように屈折させられ、またまさにそのために細分化されてしまった自我は、一般の社会生活や特に言語の要求には、はるかによく応ずるものとなる。 

 それで意識はこのような自我の方が好ましいと思い、しだいに根本的自我を見失って行くのである。

 自我と外的事物との接触面の下を掘って、有機的で生命の通った知性の深みにまで多くの観念が重なり合いあるいはむしろ内的に融合しあっているのを目撃することになるであろう。

 そしてこれらの観念はひとたび分解されてしまうとお互いに排除し合って 理論的に矛盾しあう諸項という形を呈するようになる。    『時間と自由』2章より

  

9生命の根源にある意識

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・

 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう。

 実のところ、生命は 心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。

 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。

 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。

 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。

 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。

 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。
  『時間と自由』2章
  『創造的進化』3章より

   

10 イマージュ

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。

 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。

 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。

 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。 
『哲学的直観』媒介的イマージュ

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。

 このようなイマージュが覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるかもしれません。

 イメージ画像はピカソ





二種の知識/鈴木大拙

2022-11-17 08:39:00 | 直接体験
 
 大略すれば、知識には三種ある。

 第一は、読んだり聞いたりすることによってうるものである。われわれはこれを記憶して、平素重要な所有物として持っているもので、いわゆる知識の大部分はこの種のものである。 われわれは地球上をくまなく歩きまわって、親しくこれを調査する訳にはゆかない。ゆえに、世界の知識については他人が備えてくれた地図に頼る。

 第二種類の知識は、科学的と普通いわれているものである。 観察と実験・分析と推理の結果である。 それは前者より強固な基礎を持っているが、ある程度体験的で経験的なところがあるからであろう。

  第三の種類の知識は直覚的な理解の方法によって達せられるものである。第二の形態の知識を重んずる人にしたがえば、直覚的な知識は事実に確実な基礎を有せぬから、あまり絶対的な信頼を置くことはできぬという。しかし、事実としては、いわゆる科学的知識は完璧なものではなくて、それ自身限界を有するものであるから、異変、とくに個人性異変の起った場合には、科学と論理はかねて貯えておいた知識を利用する隙がない、記憶している知識だけでは役に立たぬ。 かかる場合には、精神はあまりにとっさなので過去に貯蔵した記憶の一切を喚起することはできないからである。しかるに一方、直覚的知識はあらゆる種類の信仰、とくに宗教的信仰の基礎を形成しており、最も能率的に危機に応じ能うのである。

 禅が呼びさまさんとするところは、この第三の形態の知識であって、それは深く存在の基礎にまで滲透している、というよりはむしろ、われわれの存在の深いところからでてくるものなのである。

 鈴木大拙『禅と日本文化』
 一章「禅の予備知識」より

二種の知識

 われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。

 知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。

 逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。

 しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しも皆これを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。

 相対的と絶対的

 可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。

 絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。

 般若直観prajñā/paññā

 不可知的知識は直観的知識である。しかし般若直観は知覚作用としての直観とは全然違うものである。知覚としての直観の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直観は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直観でもなく数学的直観でもない。

 般若直観の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直観は派生的でなく原始的である、推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。

 認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。

  
純粋自己意識

 我々の内部には純粋自己意識とでもいうべき何ものかがある。この純粋自己意識とは、また、純粋経験・純粋自覚直観(むしろ、 般若直観というべきもの)といってもよい。これが我々の、あらゆる経験、あらゆる知識の真の基盤である。

 この基盤は概念規定をもっては捉えられない。なぜならば、概念規定とはそれを外部に持ち出し客観化することだからである。 この 「何ものか」 (something)が、 究極の真実であり、「主体性(subjectum)であり、即ち「空」なのである。ここ で最も大切なことは、これが実は自己意識だということである。自己意識といっても、それは相対的な意味のものではない。この自己意識が知である。

 知識とは、その一般に用いられている意味においては、主観と客観との関係である。こうしたニ岐の区別が存在
しないところに知識は成立することができない。 この二つのものの対立のないところに、何らかの叡智的なものがあるにしても、これを知識と規定すべきではない。これを知識ときめてしまえば結果は混乱を生じ、どうにも動きのとれぬ矛盾となる。

 絶えず代謝してゆく意識の過程の終末において、自己が自分の姿を意識する、この最後のところが最も深い意味における自己の意識だと私はいうのである。これがほんとうの自己意識である。

 そこには、主と客との分離はない、主が客であり、また、客が主となるところである。もしここに何らかの主•客の分岐を見出すならば、それはまだ意識の限界ではない。今や我々はこの限界を越え、そしてこの超越の事実を意識している。ここには、自己なるものは何の跡かたもありえず、無自己という無意識の意識があるだけである。それはもはや主•客相対の領域を越えているからである。

 これがほかならぬ般若直観である。「分別識•差別的知識」に対する般若である。ここに人間の理解の域を越えた非合理性がある。知は般若の絶対の対象であり、同時に般若そのものでもある。中国の仏教哲学者は同義異語を反復して、これを「般若の智慧」という。 これは一般に解釈されているような般若からはっきり区別された智慧というものをもちたいからである。
 
  鈴木大拙全集第12卷
  「胡適博士に答う」より

イメージ図


上図の要素を重ね合わせた図です。


般若
仏教用語の般若とは、サンスクリット語: prajñā、パーリ語: paññāに由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと。 仏教瞑想の文脈では、すべての物事の特性を理解する力であるとしている。大乗仏教においては、それは空の理解であるとしている。(wiki)


二諦(世俗諦・勝義諦)

二諦(にたい)とは、仏教において真諦と俗諦のこと。真諦は勝義諦や第一義諦ともいい、出世間的真理を指す

俗諦は世俗諦や世諦ともいい、世間的真理を指す。真諦および俗諦の意味は緒経論において種々である。(wiki)





二種の知識/ベルクソン

2022-11-14 09:02:00 | 直接体験
二種の知識

 形而上学の定義と絶対についての考え方をいろいろ比べてみると、外見的な意見の相違にもかかわらず、ものを知るのに根本的に異なった二つの仕方があるという点で、哲学者たちの意見の一致していることがわかる。
 
 第1の仕方は、ものの周りをまわることであり、第2の仕方は、ものの中に入ることである。第1の仕方は、私たちのよって立つ視点と、私たちが表現に用いる記号とに依存する。

 第2の仕方は、どのような視点にも関係なく、どのような記号にも頼らない。
第1の認識は相対にとどまるが、第2の認識は可能であれば絶対に到着する。

 直観と分析

 絶対は直観のうちにだけあたえられる。それ以外はすべて分析の領分に属する。ここで直観というのは、対象の内部に身を置き、その対象がもつ唯一なもの、すなわち表現できないものと一致する共感である。

 それとは逆に分析とは、対象を既知の要素へ、いいかえれば他の対象と共通する要素な還元する操作である。したがって、分析はあるものをそれ以外のものとの函数において表現する。

 あらゆる分析は翻訳であり、記号への展開であり、新しい対象と既知の対象との接触を継起的な視点から記述して得られる表象である。

 分析は対象をとらえようとして、永遠に満たされない欲望をいだき、対象の周りをまわる運命を負わされ、視点の数をどこまでもふやし、つねに不完全な表象を完全にしようとし、記号を絶えず取りかえ、不満足な翻訳を満足にしようとする。こうして分析は無限に続く、しかし直観は、もしそれが可能ならば単純な行為である。

 実証科学は何よりも記号に基づいて作業する。自然科学のなかで最も具体的な生命の科学でさえ、生物の器官や解剖学的要素という目に見える形に依拠している。

 それらの形を相互に比較し、複雑なものを単純なものに還元し、最後には生命の働きを視覚的な記号というべきものにおいて研究する。

 実在を相対的に認識するのではなく絶対的に把握し、さまざまな視点をとるのではなく内部に入り、分析するのではなく直観する手段があるとすれば、つまり、いっさいの表現、翻訳、記号的な表象によらずに実在をとらえる手段があるとすれば、それはまさに形而上学である。すなわち、形而上学は記号なしにすませようとする科学である。 ベルクソン「形而上学入門」より

 
 ベルクソン (1859年〜 1941年)はフランスの哲学者。彼の「実在論」はすべてのものは単なる固定した事物ではなく、流動して持続する生命そのものであることを説いています。その世界観は仏教、特に禅に通じるものがあります。鈴木大拙と比べて読むと興味深いものがあると思います。