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団塊世代 のアマチュア無線家

開局からの想い出と最近の出来事

バイトで垂直120m

2007年04月08日 | アマチュア無線
授業料・下宿代は親からの仕送りでなんとか賄えたが
小遣いは自分で稼ぐしかなかった

夜は丸の内の中央郵便局での区分け作業
今みたいに郵便番号なんて無い時代で全て手作業!

ここでアマチュア無線の「JCC」が役立った
宛先に県名が無く**市や**郡で始まる郵便物の区分け!
いちいちアンチョコを見なくとも大抵の市は区分け出来た。

昼はと言うと運送トラックの助手!免許は高3の春休みに取得していたが、
運転歴はZEROに等しく、ましてやここは東京のど真ん中
運転は諦めて幌付き2トン(エルフだったか?)の助手に専念。
仕事内容は新宿・渋谷・池袋&銀座の大手デパートへ買い物袋の納品が主。

バイトで忘れられないのが一つだけある
電気興業(株)の下請け(鉄塔アンテナの保守会社)での事。

ニッポン放送の送信アンテナに登ったのだ
当時送信所は足立区にあった。(現在は千葉県木更津市
夜が明け始めた月曜日の早朝 放送休止を合図に開始された。
垂直120mを素手で!命綱を頼りに梯子階段を1歩1歩
時間にして4~50分掛かったと思うが定かではない。
ローディングコイルの交換作業でした。

作業終了後、50KWのAM送信機の試験電波発射を目前で見ることが出来
高周波電流計が「ビョーン」と大きく振れたのを覚えている。

アイボールQSO

2007年04月07日 | アマチュア無線
高校時代に7MHzのAMでQSOしたラグチュー仲間の何人かとは
時を同じくして進学の為上京して居りアイボールQSOの機会に恵まれた
「元JA2CXR」N氏,「元JA5BBH」S氏 
「JA5WU」岡上氏(当時のリグ電源
「JA7BVO」山内氏(今でも現役?)

それに目黒在住の「元JA1OHV」W氏や池袋在住の「元JA1SOY」Y氏
等々、全員を思い出すのは極めて困難である。
が、たくさんの方とアイボールQSOすることが出来た!

お空では何十回とQSOしていたが、GNDで会うのは皆始めて
面と向かうと不思議な空間であったが、目を閉じて声だけ聞けばイメージが湧き
本人であることを直ぐ確認出来た

アイボールQSOの後、またON AIRで会えるのが楽しかった

3畳一間

2007年04月06日 | アマチュア無線
プロの通信士を目指して上京

待っていたのは3畳一間の下宿生活。
共同トイレに共同炊事場(勿論自炊!)
風呂などある筈が無い。

それで当時の相場は¥1000/畳+¥500(管理費)
従い月々¥3500の必要経費!

そんな事はさて置き通信士のは毎日が充実していた

故郷を離れ一人での生活!(寂しくないと言ったら嘘になるが)
高校の先輩でもある「元JA1LVJ」のS氏が同じ下宿に居り
同郷の「JA1NRQ」菅谷氏が同級生にいたのだ。

学校で「ツー・トン」下宿で「ツー・トン」毎日がモールスの練習である。
英文は既にマスターしていたが和文は
「ツートトツーツーツー」である。
「好きこそものの上手なり」覚えるのに時間は要らなかった

上京後しばらくは学校と下宿の往復のみ。
日曜日も朝から晩までモールスの練習で時間が過ぎた。

が、アマチュア無線を忘れられる筈が無い
どこでどうしたか記憶は定かで無いが画像のリグで
50MHzのAMでON AIR!
7MHzに出たくてもアンテナが立てられる状況ではなかった
聞くことだけは出来たが、、、。

JA1QNX開局

2007年04月05日 | アマチュア無線
昭和39年(1964)9月20日 13:39

記念すべき1’stQSOは「JA3HYQ」7MHzのA3最初のログ
開局時のリグは当時のスタンダードTX88AVFO19R59
それに実験局(?)からのグレードアップバージョン裏から見た画像

同時期に開局した高校の同級生にJA1QJJ(廃局)JA1QJUが居た。
又、ローカルには一足早く開局していた「元JA1NUP鉄骨や」もいた。

晴れの開局の割りに感激はあまり無かった!何故か?

「ハローCQ スタンディング・バイ」のある日、何処か(?)で聞いたことの
あるボイスそして独特の喋り方の持ち主「JA1WFH(廃局)」からBKコール!

やはりそうだった電気ナマズ」こと栃木県大田原市のOさんでした。
そんな奇妙な再会が他にもたくさんあった。

アマチュア無線&オーディオ漬けの高校生活を送った結果、気が付けば学業
成績は入学時とは正反対!後ろから数えて何番目の世界でした(笑)

大学進学なんて夢のまた夢!入試の無かった東京は中野のツー・トン学校へ!
無線が職業になる第1歩を踏み出したのであります。

待ちきれません

2007年04月04日 | アマチュア無線
開局資金集めの為、春休み夏休みともなれば町の電気屋でアルバイトに明け暮れる日々!

TVのアンテナ立てやら照明器具の交換取り付け、テレビ&ラジオの修理は言う
に及ばず果ては井戸水ポンプの設置から水道工事まで
色んな事を勉強させてもらった(そのKnow Howは後々多いに役立つことになる)

時給は確か¥300位だったと思う(?)が
高校の授業より遥かにおもしろく何よりも楽しかった

そうして稼いだ金は全てRig.の製作部品代に消えた!

そして作ったのが終段5933シングルの7MHz用送信機と807シングルの
AMハイシング変調器。(変調トランスは高くて買えなかった

受信機は5球スーパーを2バンド(BC/SW)に改造。バーニアダイヤルでファ
インチューニング出来るようにしマジックアイ6E5も付けた。が、
感度、選択度共に力不足部室に眠って(?)いた9R42Jを拝借

アンテナ(画像)は田舎の地の利を存分に活かしケヤキの木に竹竿を縛りつけて
地上高20mのダイポール。3C2V同軸給電(当時同軸は¥90/m)

これだけ揃えばもう待てません!電波少年実験局の開局です

局免来るまでの数ヶ月間、充分な運用実験が出来ました。Hi.

高校生活=アマチュア無線

2007年04月03日 | アマチュア無線
電波少年も人並みに入試勉強に励んだ結果、高校生
入学式の数日後、部活の勧誘説明会その中に「無線クラブ」があった。
具体的な活動内容を知るまでも無く迷わず入部!

1坪ほどの狭い部室に案内され
最初に目に入ったのが三和の「NR-409
高1中2のオールバンド受信機!見るも触るも初めての体験である。

「モノの本」によりアマチュア無線の知識は多少あったが、実際に交信を聞いた時「これはオモシロイぞ」とワイヤレスマイクを知った時より遥かに感動した

それが切っ掛けで、高校生活は勿論、青春時代の大半をアマチュア無線に費やすことになろうとは
それから暫くは教科書(モノの本)も「CQ Ham Radio」に変わり
授業はそっちのけ放課後が待ち遠しい毎日でした。

そんなある日7MHzをワッチしていると「ハローCQ こちらはJA10***」 ナヌそんなプリフィクスあったかな?
3年生の先輩が詳しく教えてくれた「アンカバー」の手ほどきを!

当時、既に開局し夜な夜なラグチューに花を咲かせていた先輩に「JA1LVJ」「JA1OKJ」(共に現役引退)それに現役バリバリの「JA1PMN」各局がいた。

高1の夏休み、入試勉強以上に「無線工学」「電波法令」を学びその年の国家試験に無事合格「電話級アマチュア無線技士」の免許を取得したのである。

飛距離を求めて

2007年04月02日 | アマチュア無線
ゴルフのドライバー飛距離じゃない!ワイヤレスマイクの通達飛距離である。

最初は30Cm位のビニール線アンテナ。飛距離はせいぜい10数m?

鉱石ラジオから並四ラジオ、5球スーパーへとステップ・アップする過程で
アンテナを「長く高くすれば受信感度が上がる!」

ラジオ少年時代に育んだKnow How?が役立った。
家の中に張り巡らした鴨居アンテナにつないでみた。
すると飛距離は確実に伸びた(当たり前だが)

次に庭のビワの木から軒下に引き込んだ針金アンテナに接続!
マイクの代わりにプレイヤーの出力をつないで音楽放送?

トランジスタラジオ片手に何処まで聞こえるか?と自転車で走り回ったのが懐かしい(そこまでやるか!)
その後ワイヤレスマイクの実験は続き、低周波電力増幅管6ZP1を実装するに至る

次回から電波少年本番です。(当時家の屋根から見た田園風景)

電波少年誕生

2007年04月01日 | アマチュア無線
ドンシャリ音を追いかけていたある日、ふと目にした「モノの本」に
ワイヤレスマイクの製作記事があった。
今、ワイヤレスマイクと言えばTVスタジオやカラオケその他色々な場所で使われているコード無しのハンドマイクのことである。が、それは違っていた?

古い5球スーパーの部品を流用して、「離れた場所でもラジオで聞くことが出来るマイク」なのだと???「面白そう」と手を出すのに時間はかからなかった。

6WC5-6ZDH3A-12Fの中波AM送信機(?)の完成である!

当時マイクなんてシャレたモノは無い。16Cmのダイナミックスピーカーがマイクの代用品!少し離れた場所に5球スーパーを置き周波数を1500KHzぐらいにセット。

マイク送信機のパディングコンデンサー(周波数調整用)を恐る恐る廻すと突然
ラジオのスピーカーから「ピー・ギャー」と発信音が聞こえたのだ。
(これが「ハウリング」だと言うことは既に知っていた)

慌てず騒がずラジオのVRをハウリングが止まるまで下げスピーカーマイクに向かって「本日は晴天なりただいま試験中」

聞こえる聞こえる離れたラジオから自分の声が

電波少年誕生の瞬間である。又、その後の人生を決定付ける出来事でもあった。

電波少年局(?)開局時のRig.(左から807変調器、9R42J、5933TX)

アンプの改造

2007年03月31日 | アマチュア無線
とにかく色んな事をやった!
「こうすると良くなる」とモノの本に書いてある事を!
所詮オトキチレベルの改造ではあったが、、、。

HiFi=高S/Nだと言われれば、S/Nを少しでも良くしようと
ハムバランサーなるものを付けた。

スピーカーに耳をひっつけて調整すると確かにあるポイントで
ハム音が最小になった
初段の12AX7をHiFi用と証するモノに交換しNF量を増大。
無入力でVRをあげた時のS/Nが改善された。

CR型トン・コンをNF型に、ラウドネス回路追加の為VRを
センタータップ付きに交換。

電源のレギュレーション改善に整流管6CA4をシリコンダイオードに変更。
シリコンダイオードを始めて知った頃は(500V・500mA)規格で1本
¥150はしたが、@¥50で買えるようになっていた。

ダイナミックレンジ拡大&低歪率化の為に終段のバイアスを固定バイアスにし
その電圧を変えることで、AB1級、B級そしてA級の各動作による音の違いを
実感出来た。

20年ぐらい前、久しぶりにそのアンプに火を入れた時の事。
VRをチョット廻しただけでスピーカーが壊れんばかりのガリガリノイズ
ボリュームがガリオームになっていたのは言うまでも無いが、
各段のカップリングコンデンサーが絶縁不良をおこしEpがリークしていたのだ。
コンデンサーをマイラーコンに替え修理完了

最終的には6RP15 3結PPのA級アンプとなり
作製から40数年たった今でもダンピングの効いた柔らかい音を聞かせてくれる。

当時良く聴いたレコード アイドルを探せ ワシントン広場の夜は更けて
燃える太陽

周辺機器とグレードUp.

2007年03月30日 | アマチュア無線
当時の音源はマジックアイ付きAMチューナーとコロンビアのクリスタルカートリッジの付いたプレイヤー(型番忘れた)でした。

音出しの前に「各部の電圧を測定」なんてことはせず、先ずはプレイヤーをつなぎスエーデンの城サン・トラ盤を聴いた。これは高音チェック用に好んで試聴したレコードで全編に亘るシンバルパートが大好きでした。
低音用にはザ・プラターズの「16トン」でハーバード・リードのバスパートがたまらなかった。

AMチューナーで音楽放送を聴くときは故意に同調をほんの少しずらし「高音が出る出る」と喜んだりトン・コンの低域、高域共にMaxにしドンシャリを楽しんだのである。が、あの電蓄の音にはマダマダ及びじゃなかった。

そこで考えたのが先ずはスピーカーのグレードUp!
欲しかったのはやはりパイオニアのPAX-20A秋葉原の店頭で試聴。
今はどうなってるか?だが当時は客の要望に応じ好きなスピーカーをワニ口クリップで端子をはさみ、とっかえひっかえ聴くことが出来た。

ソースが何でアンプがどんな物か知る由も無い。ただ言えることは どれもこれも真のHiFi音を知らない少年には素晴らしく良い音に聞こえた

PAX-20Aは¥200位の予算オーバーで買うことが出来ず
仕方なく買ったスピーカーはフォスターのPX-8Aだった。今でこそたった¥200だが田舎から秋葉原までの汽車賃が片道¥270の時代のことである。

後にそのスピーカーは15ミリ厚のラワン材に囲まれた大きなに住みついた。
家の中には吸音材の綿も敷かれており居心地は良かった筈だが
あのスピーカーBOXがその後どうなったか?今となっては脳みそメモリーから完全に消去されており復旧不可能!写真も見つからず残念無念

次はアンプの改造。まだまだ続くオトキチの想い出日記