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大衆演劇《鹿島順一劇団》見聞録

全国に140以上ある劇団の中で、私が最も愛好している「鹿島順一劇団」の見聞録です。

芝居「浮世人情比べ」の名舞台(平成23年6月公演・大井川娯楽センター)

2013-08-31 00:00:00 | 平成23年6月公演・大井川

芝居の外題は「浮世人情比べ」。この演目は、近年、まったく上演することがなかったので、いわば「初演」と変わらない由、座員一同はすこぶる緊張気味とのことであったが、その出来栄えは、まさに「極上品」、また一つ「鹿島順一劇団」の「十八番」が増えた感がある。筋書きは、大衆演劇の「定番」で、他の劇団も数多く舞台に乗せているが、その出来栄えにおいては、他の追随を許さない、見事な舞台模様であった、と私は思う。京都・大原の山中で炭焼きを営んでいる兄・末松(座長・三代目鹿島順一)とその妹・お花(幼紅葉)の物語である。お花が自宅の玄関先で縫い物をしていると、京都で指折りの大店・エリショウの若旦那・床太郎(甲斐文太)と手代・菊次郎(赤胴誠)がやってくる。山中で道に迷い、疲れ果てた若旦那が「水が飲みたい、あの家で調達するように」と、菊次郎に言いつけた。この若旦那、見るからに「バカ旦那」然とした風情で、わがままで世間知らず、手代を「道具」のように酷使する。手代も手代で、こき使われながらちゃっかりと「先に水をのんでしまう」したたかな風情が可愛らしく、なんとも魅力的な舞台姿であった。まさに、師匠と愛弟子が「五分に渡り合う」、その「絡み具合」が絶妙で、入門当時の赤胴誠を知っている私は、涙が止まらなかった。彼にとって今は「正念場」、かつては蛇々丸?、春大吉?、藤千之丞?(誰でもよい)、大先輩が演じていたであろう「大役」に果敢に挑戦する、その意欲、気概が、観る人(私)を感動させるのである。菊次郎は、玄関先のお花を見て「一目ぼれ」、だがそのことはおくびにも出さず、遅ればせながらもお花を見初めた床太郎のために、「仲人役」を甘受する。その初々しく健気な景色は、「赤胴ならでは」(キョトンとした純情らしさ)の空気を醸し出す。また、この場の冒頭では、炭屋の使用人に扮した名脇役・梅之枝健が(チョイ役のお手本を見せるかのように)滝裕二を(仕入れに)引き連れて登場、ここが「京都・大原三千院界隈」であるという空気を漂わせる。また、滝裕二が「ことの他」(鄙にも稀な)お花(の様子)に関心を寄せている風情も鮮やかで、そのことでお花の可憐な姿がより際立つという趣向が心憎い。さらには、兄・末松の「実直な」男ぶりもお見事、通常なら「老け役」で対応するところだが、三代目鹿島順一、その初々しさに「渋さ」も加わって、文字通り「惚れ惚れするような」舞台姿であった。大詰めは、大店エリショーの大広間であろうか、冒頭で、番頭(?)役・花道あきらが、丁稚・見習い(?)の新人・壬剣天音に、座布団の敷き方を伝授しながら、若旦那の行状に呆れ果てている様子が面白かった。一見「なげやり」のような場面だが、実は、その「絡み」を通して、先輩の花道あきらが、新人の壬剣天音に、それとなく舞台での立ち位置、歩き方、姿勢、科白回し・・・等などを指導しているのだろう。少しでも「場数を踏ませようとする」楽屋うちの温かい配慮が感じられて頼もしかった。続いて床太郎の母親・おきん(春日舞子)登場、女中(春夏悠生)の尻を追い回しながら出てくる「バカ息子」に困惑しながらも、目を細めて眺めている「親バカ」振りが堂に入っていた。床太郎は公家のマネをして白塗りの化粧、袴は足を通さずに穿く、といった「ていたらく」であったが、おきんは、かいがいしく介助する。「よくできた、おまえはホントにお利口さんだね」という言い種が、今様のモンスターペアレント張りで、たいそうおもしろかった。待つほどに、炭焼きの末松登場、ひととおりの挨拶の後、いよいよ、花嫁役のお花、登場。大店の母子、固唾を呑んで待ち受けたが、その大きくバランスを欠いた「歩様」に、びっくり仰天、とたんに「縁談は破談」となった。「それでは話が違う」と激高する末松、あわてて菊次郎が飛び出し、「お待ち下さい、若旦さん、どうかお花はんをお嫁に・・・」と懇願するが、おきんいわく「何をいってるのや、庄太郎は世間知らず、手代のお前が、よく調べもせずに話を進めるから、こんなに話がややこしくなるんや。お前は、いわば「仲人」、石橋を叩いて渡らなければならん時に・・・」。菊次郎、庄太郎に向かっていわく「若旦さん、あの時、『ぜひ話をつけろ』と仰ったやおまへんか」と迫るが、庄太郎、文字通り「バカ旦那」然としていわく、「何をいうのや、お前はナマコ・・・」おきん「違う違う、ナコウドや」「え?なんやて」「ナ!、コ!、ウ!、ド!」と口移しする。その様子に、菊次郎、いや赤銅誠、顔が上げられない。体裁は「泣いて」いるのだが、心は「笑いを懸命に堪えている)。かまわず床太郎、「そうやナ・コ・ウ・ドや、いいか、お前はワリバシを叩いて渡らなあかん・・・」おきん制して「違う、違う、イシバシや!」「そうや、イシバシの穴に落っこちるんや・・・」といった、母・子(実は夫婦の舞子・文太)の「絡み」は抱腹絶倒の連続で、客席は大笑い、菊次郎は最後まで顔を上げられなかった。大店の切り盛りを一手に引き受け、息子に対しては「溺愛の極地」、他人に対しては「胴欲極まりない」といった(金持ちならではの)風情の描出は、まさに春日舞子の独壇場であった。かくて、菊次郎はその場で即刻クビ、うつむいたまま、静かに前掛けをはずして、丁寧にたたむ姿が、ことのほか「絵」になっていた。一方、その様子を観ている末松とお花、全くの無表情で「冷たい視線」を送るだけ、その見事なコントラストに、私は身震いするほどの感動を覚えた。片方では、大爆笑の喜劇が演じられ、片方では「コケにされた」兄妹の「悲劇が展開する。妹のお花、庄太郎に向かっていわく「若旦那様、私のような者を(一時でも)気に入ってくださってうれしゅうございました。お花は淋しく大原に帰ります。秋になり、奥山で鹿の鳴く声が聞こえましたら、私の泣き声だと思ってくださいねえ・・・」と泣き伏す。客席からは、割れるような拍手。庄太郎、瞬時、その心に打たれたかの気配もあったが、「否、否!」と頭を振って応じない。「さあ、こんなところに何時までもいられない、大原に帰ろう」とする末松に向かって、菊次郎、渾身の一声、「待って下さい、お兄さん!」「何だって?あんたにお兄さんと呼ばれる筋合いはない」と突っぱねたが、「お兄さんにお願いがあります、どうかお花はんを私のお嫁にしてください!」と言い放った。菊次郎は(今度は本当に)泣いている。その眼、涙を見て末松は、心底から納得、お花も承知とあって、この(貧乏人同士の)「縁談」は成立した。床太郎とおきん、その様子を見て「嘲笑」する。「菊次郎もバカなやつだ。あんな娘を嫁にするなんて」「ホントにそうだ、そうだ」。末松、「では三人で大原に(走って)帰ろう。お祝いだ。菊次郎さん、お花の手をとってください。ここら当たりをぐるっと回って帰りましょう」。お花立ちあがって、菊次郎が手をとる。おそるおそる歩き出した二人、だが、その様子を見て、床太郎とおきん「・・・・?、・・・・?」、今度は言葉を失った。お花の歩き方に何の異状もなかったのである。あわてて、「待ってください、お花さんはどこも悪くないようだが・・・」と呼びとめるおきんに向かって、末松いわく「あたりめえだ、お花の仕事は、都で花を売り歩く『大原女』さ。人を見た目で判断するようなおまえさんたちに、大事な妹をやれるもんか!どうやら金持ちと貧乏人の『人情比べ』は、あっしたちに分があったようですね」。その「決めぜりふ」を残して颯爽と花道に消える三代目・鹿島順一の姿は「天下一品」であった。大店の若旦那、その母親は、あっけにとられたまま、あえない閉幕となったが、観客の多くが「涙していた」ことを、私は見逃さない。芝居の景色は「時代人情喜劇」と銘打ってはいるが、眼目はあくまでも「弱者への共感」、炭焼きの兄妹、手代・菊次郎の「舞台姿」が、一際「絵になっていた」からであろう。閉幕後の喫煙室、白髪の常連いわく「やあ、座長は素晴らしい。あの若さでこんな芝居ができるなんて・・・。歌舞伎役者だって及ばない。これから年数を重ねれば、親父以上の役者になることは間違いネエズラヨ」。おっしゃるとおり、座長はもちろん素晴らしかった。加えて、赤胴誠も素晴らしかった。幼紅葉も素晴らしかった。滝裕二も素晴らしかった。春夏悠生も素晴らしかった。壬生天音も素晴らしかった。それを支えているのが、甲斐文太、春日舞子、梅之枝健、花道あきらの「実力」に他ならないことをあらためて確認、今日もまた大きな元気をいただいて帰路に就いた次第である。
【追記】舞踊ショーで、新人・壬剣天音(15歳)の初舞台を観た。演目は「雨の田原坂」(作詞・野村俊夫、作曲・古賀政男)、この名曲をデビュー作に選んだことは申し分ない。歌手は市丸(気高く)?、それとも神楽坂はん子(情感豊かに)?、いずれでもよい。敗色の濃い戦場で、必死に闘う「散るも覚悟の美少年」の姿が彷彿とする。天候は「雨」、場所は「坂」「城山」、登場するのは「傷ついた友」そして「馬」、右手に血刀を持ち、髪は乱れているが、口を一文字に結んだ美少年の姿を、どのように描出するか・・・。演奏時間は3分余り、その中に渾身の血を込めて、「西南の役」という歴史ドラマ(の一コマ)を創り出せるかどうか。御贔屓筋の話では「回を増す毎に上達して、涙が止まらない」とのこと、立派だと思う。
今日の舞台、視線がしっかりと定まっているところがよかった。基本通りの「振り付け」を忠実に守り、稽古・精進を重ねれば、おのずと「姿」「形」が「絵になってくる」(腰が決まってくる)ことは間違いないだろう。折り紙にたとえれば、まだ「奴さん」レベルだが、その「折り目」がキチッとしていることに好感がもてた。師・三代目鹿島順一の舞踊「忠義ざくら」は「国宝」レベル、その舞姿を目指して、この作物を極めていただきたい。
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芝居「新月桂川」・《春夏悠生、二年目の「大変化」(へんげ)》(平成23年6月公演・大井川)

2013-08-26 00:00:00 | 平成23年6月公演・大井川

芝居の外題は「新月桂川」。私はこの芝居を、ほぼ2年前(平成21年7月)、ここ大井川娯楽センターの舞台で見聞している。以下はその時の感想である。〈芝居の外題は「新月桂川」。敵役・まむしの権太、権次(二役)を好演している春大吉が、「配偶者の出産」のため、今日は、花道あきらが代演したが、これまた「ひと味違う」キャラクターで、出来映えは「お見事」、例によって「新作」を見聞できたような満足感に浸ることができたのである。前回(11年前)来た時、三代目虎順は6歳(小学校1年生)、まだ舞台には立っていなかったという。したがって、今回は、桂川一家の若い衆・銀次役で「初お目見え」(初登場)となったが、「全身全霊で臨む」のが彼の信条、その舞台姿は、親分(蛇々丸)のお嬢さん(春夏悠生)を思う直向きさ、どこまでも兄貴分・千鳥の安太郎(鹿島順一)を慕う純粋さにおいて、座長(父・鹿島順一)と十二分に「肩を並べ」、時には「追い超す」ほどの迫力があった、と私は思う。願わくば、安太郎が「惚れて惚れて惚れぬいた」お嬢さんの風情が、「今一歩」、「振った女」より「振られた男」の色香が優るようでは、「絵」にならないではないか。次善とはいえ、鳥追い女(春日舞子)との「旅立ち」が、殊の外「決まっていた」ことがせめてもの「救い」だったと言えようか。春夏悠生、今後の奮起・精進に期待したい〉。当時は、主役・千鳥の安太郎に二代目鹿島順一(現・甲斐文太)、その弟分・銀次に三代目虎順(現・三代目鹿島順一)、桂川一家親分に蛇々丸という配役であったが、今回は千鳥の安太郎が座長・三代目鹿島順一、銀次が赤胴誠、桂川の親分が甲斐文太と「様変わり」し、敵役の蝮の権太、権次は花道あきら、親分の娘・おみよは春夏悠生、安太郎を慕う鳥追い女・お里は春日舞子という配役は「当時のまま」であった。なるほど、話の筋からいえば、安太郎と銀次の「(義)兄弟コンビ」は今回の方が真っ当である。親分の娘に焦がれる「青春」の息吹きが双方に感じられて、一段と清々しい景色であった。義理と人情の板ばさみで、複雑に揺れ動く安太郎の心情を、三代目鹿島順一は「所作」と「表情」だけできめ細かに、また初々しく演じ切ることができた。お嬢さんと銀次が「できていた」ことを知らされてから、ふっと力が抜けていく(「振られた男」の)無力感」の風情が鮮やかに描出されていた、と私は思う。。加えて、春夏悠生の「変化(へんげ)振り」も見事であった。2年前に私が期待した「奮起・精進」はしっかりと実行され、安太郎が「惚れて惚れて惚れぬいた」お嬢さんの風情、文字通り通り「鬼も十八番茶も出花」といった景色が、その表情、所作の中に表われる。2年前の舞台とは「似ても似つかない」「見違えるほどの」成長振りで、私の涙が止まらなかった。また、安太郎と銀次が帰ってきたことを知らせに来るだけの「ほんのちょい役」、百姓に扮した滝裕二も立派、その懸命な姿に、客から(引っ込みで)大きな拍手がわきあがるほどで、大筋には無縁な役柄こそが、舞台の模様を引き締めるという、何よりのの証であった。親分役・甲斐文太と鳥追い女役・春日舞子は、いうまでもなく劇団の「二本柱」、その気合、姿に申し分はないのだが、それに応える若手陣との「差」は大きく、芝居全体の出来栄えとしては、まだ2年前の舞台に及ばない。やはり安太郎は甲斐文太、追いかけるのは春日舞子でなければならない。親分の娘から「げじげじ虫より」嫌われるのは、甲斐文太の安太郎でなければならない。なぜか。(甲斐文太の)安太郎には人を殺めても「平然」としていられる、アウトロー的な(崩れた)空気が、おのずと漂う。その風情こそが、(まだ「小便くさい」)娘・おみよから嫌われる所以であり、また「酸いも甘いもかみわけた」「すれっからし」の鳥追い女からは「惚れられる源になっているのだから・・・。それ(アウトロー的な崩れた空気)を三代目鹿島順一が今後どのように描出するか、そこらあたりが、これからの課題といえようか。さて、今日の舞踊ショー、これまで以上に「気合」が乗っていた。特に目についたのは、「殿方よお戯れはなし」の春夏悠生、幼紅葉、「御意見無用の人生だ」の滝裕二、その表情、所作、振り・・・等など、無駄がなく流れ、歌の想いが凝縮された見事な作品に仕上がっていた、と私は思う。加えて、いつもながらのことだが、甲斐文太の「河内おとこ節」(歌・中村美律子)、春日舞子の「芸道一代」(歌・美空ひばり)は、斯界・個人舞踊の「お手本」といえよう。、歌を聴くだけなら「なんぼのもん?」と思われる歌謡曲を、「踊り」を添えることによって珠玉の「名品」に豹変させてしまう。まさに「踊り」が「歌」を超えているのである。その景色・風情は「筆舌に尽くしがたく」、(ましてDVN、VHSなどその記録物が皆無とあれば)現地に赴いて、じっくりと鑑賞する他はないのだが、今日もまたその「至芸」を堪能できたことは、望外の幸せであった。感謝。
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