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大衆演劇《鹿島順一劇団》見聞録

全国に140以上ある劇団の中で、私が最も愛好している「鹿島順一劇団」の見聞録です。

芝居《永久保存版・三浦屋孫次郎》と劇団の「売り物」(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-11-15 20:35:22 | 平成21年正月公演・つくば

午後1時から、つくば湯ワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居の外題は「三浦屋孫次郎」。笹川繁蔵(春大吉)を暗殺(しかし、正面からの一騎打ち)した旅鴉・三浦屋孫次郎(花道あきら・好演)と飯岡助五郎一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「友情物語」で、「男の盃」を取り交わし、共に「あい果てる」という筋書きだが、開幕から閉幕まで「寸分の隙もない、一糸乱れぬ舞台」の連続で、それぞれの役者が「適材適所」に「えもいわねぬ」風情を醸し出していた。ビデオに収録、「永久保存」に値する出来映えであったが、座長の頭の中には「そんな野暮なこと」「みっともないこと」を行うつもりは微塵もない。芝居の出来不出来は「時の運」、「今日が駄目でも明日があるさ」といった「はかなさ」「いさぎよさ」を感じるのは、私ばかりであろうか。
 さて、この芝居についてはすでに見聞済み、当時の感想は以下の通りであった。(平成20年2月公演・川越三光ホテル小江戸座)
〈芝居の出来栄えは昼・夜ともに申し分なかったが、特に、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」は素晴らしかった。実を言えば、私は先日(2月15日)、この芝居と全く同じ内容の舞台を浅草木馬館で見聞していた。外題は「笹川乱れ笠」、劇団は「劇団武る」(座長・三条すすむ)。寸分違わぬ筋書で、私の感想は以下の通りである。「本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分ないのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある『楽しい』舞台を観たいのだ」。
 たしかに、「鹿島順一劇団」・「男の盃・孫次郎の最後」にも「笑い」はない。しかし、役者一人一人の「実力」「意気込み」「ひたむきさ」、相互のチームワークにおいて「全く違う」印象をもった。まさに「役者が違う」のである。この芝居の主役は、外題にもある通り、三浦屋孫次郎(花道あきら)だが、それを支える飯岡一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「演技力」が決め手になる。自分自身を「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム、しかし孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチシズムが「混然一体」となって、何ともいえない「男の魅力」を醸し出す。この用心棒の存在がなければ、芝居の眼目(男の友情・「盃」)は半減・消失してしまうのだ。「劇団武る」で、孫次郎を演じたのは座長(三条すすむ)、用心棒を演じたのは副座長(藤千乃丞)であった。台本に対する「解釈の違い」が、出来栄えの「差」に大きく影響していると思われる。もし、その配役が逆であっったら、どのような結果になったかわからない。全く同じ筋書の芝居でありながら、「鹿島順一劇団」は「横綱・三役級」、「劇団武る」は「関脇・前頭級」であることを、あらためて確認できた次第である〉
 当時、座長演じる用心棒について、〈「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム」〉、〈孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチズム〉と評したが、今日の舞台を見聞して、そのニヒリズムの根源をよく理解できた。つまり、この浪人、武家社会の「しがらみ」の中で、最愛の女を失い、その時の「地獄絵」が脳裡に焼き付いて、かた時も離れることがなかったのだ。座長の芝居は「いい加減」、その時の気分によって、セリフが「長く」なったり「短く」なったりする。(客が聞いていないと思えば、さっさと省略する)おそらく前回は、そこらあたりを「端折った」に違いない。それでも、浪人のニヒリズム、ロマンチズムは見事に「描出」されていた。それこそが、鹿島順一の「実力」に他ならないと、私は思う。今回、口上での座長の話。「うちの座員が、お客様に尋ねられたそうです。『おたくの劇団の《うりもの》は何ですか?』その座員が言うのです。『座長、うちの劇団の《うりもの》は何ですか?』私は答えに窮しました。みんな《うりもの》であるような、ないような・・・、強いて言えば、劇団ですから「劇」、「芝居」ということになるでしょうねえ・・・。でも、特に《うり》ということは考えていません。役者だってそうです。みんなが《花形》、みんなが《主役》だと思っています。なかには《ガタガタ》《花クソ》もいますけど・・・」
 私見によれば、「鹿島順一劇団」の《うり》は、①座長の実力(かっこよさ)、②座員の呼吸(チームワーク)、③舞台景色の「鮮やかさ」(豪華さとは無縁の艶やかさ)、④(垢抜けた)音曲・音響効果の技術、⑤幕切れ風情の「見事さ」、⑥「立ち役」舞踊の「多彩さ」等々、数え上げればきりがない。中でも、一番わかりやすく、誰もが納得できる《うり》は、「音響効果」、特に「音量調節」の「確かさ」であろう。私にとって防音用耳栓は、大衆演劇観劇の「必需品」だが、唯一、この劇団だけが裸耳(耳栓不要)で見聞できるのである。
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芝居《「新版・人生花舞台」と舞踊絵巻「忠臣蔵」》(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-09-12 21:18:18 | 平成21年正月公演・つくば

芝居の外題は「人生花舞台」。この劇団、この演目の見聞は3回目、今回の配役は大幅に様変わりした。元・歌舞伎役者(老爺)の主役が、座長・鹿島順一から蛇々丸へ、清水の次郎長が花道あきらから座長へ、一家子分の大政が蛇々丸から花道あきらへ、というように。その結果、これまでとは「全く違った趣き」の景色・風情が現出する。この劇団の芝居は、同じ演目であっても、その時、その場所、その空気、その客筋などによって「千変万化」することが特長である。言い換えれば、芝居の出来・不出来は「一期一会」、その日の「客との呼吸」によって決まることを、座長は熟知しており、またその思惑を座員全員が「心得」、つねに「最高の舞台」を作り出そうと「真摯」「懸命」な努力を重ねているということが、この劇団の「素晴らしさ」であり「実力」なのである。
 今回の舞台、主役・蛇々丸は、座長・鹿島順一の「舞台姿」を誠実に「なぞり」ながら、彼独自の「個性」も輝かせている。春大吉の「花形役者ぶり」にも、いっそうの磨きがかかり、「父子の再会」シーンが鮮やかな「絵巻物」のように観てとれた。加えて、その仲をとりもった清水次郎長(座長・鹿島順一)の風格・貫禄は「天下一品」、この芝居に「もうひとりの主役」が登場してしまう、という雰囲気であった。
 舞踊ショー幕開けの組舞踊「忠臣蔵」は、圧巻。「刃傷松の廊下」は、歌唱・鹿島順一、浅野内匠頭・三代目虎順、吉良上野介・蛇々丸、「浅野内匠頭切腹」は、春大吉、「立花左近」は、左近・鹿島順一、大石内蔵助・花道あきら、「俵星玄蕃」は三代目虎順、杉野十兵次・春大吉という役柄で、申し分ない。とりわけ、「刃傷松の廊下」の歌唱・鹿島順一は、元祖・真山一郎よりも「数段上」の実力、多くの観客は「鮒め、鮒め、鮒侍め!カッ、カッ、カッ、ペッ・・・」と罵倒する台詞の時まで、歌い手が誰かに気づかなかったのではないだろうか。欲を言えば「俵星玄蕃」の三代目虎順、その「心情表現」において、まだスーパー兄弟・南條影虎には及ばない。でも、つねに全身全霊で芸道に励む彼のこと、いつかは必ず「追いつき、追い超すだろう」ことを確信する。1月公演も前半を終了、ようやくこの劇団の「客席づくり」が軌道に乗ってきたようだ。開幕前のアナウンスで「拍手」、開幕で拍手、座長をはじめ各座員の登場で拍手、退場で拍手・・・、というように「客との呼吸」が「一致」しはじめた。浅草木馬館で「劇団竜之助」の座長・大川竜之助は、自らが先頭に立ってその「盛り上げ係」に徹していたが、この劇団は、「何もしない」。公演を重ねることによって、いわゆる「御贔屓筋」が「選別」され、「目利きの客」だけで「客席」が埋まるようになるのではないか。客筋は「量よりも質」、そのことが「舞台」を充実させる唯一の道であることを、この劇団は知っている。送迎バス運転手の話。「わざわざ、新潟から来られたお客さんがいるんですよ、どうしても鹿島劇団を観たいんですって。新潟にも劇場があるはずなのにねえ・・・」客席最前列で拍手と花(御祝儀)を贈り続けた、そのお客さんの話。「とうとう来てしまいました。新潟は大雪です。いつも体の調子がよくないんですが、この劇団の舞台を観ると『元気』がでるんです。ありがたいことです」。
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芝居《「六十一 賀の祝」・千秋楽前日の名舞台》(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-07-25 08:55:50 | 平成21年正月公演・つくば

芝居の外題は「六十一・賀の祝」。還暦を迎える父(座長・鹿島順一)とその息子たち(兄・花道あきら、弟・春大吉)の物語である。兄は、父の羽振りのよかった時期に物心ついたので、好条件の教育を受けられたが、弟は父の凋落時に生まれ、養育を大工の棟梁に任せられる始末、未だにうだつが上がらない。その結果、兄は弟を「あざけり」「そしる」、弟は兄を「うらみ」「あらがう」という関係に・・・。その様子を周知している父、二人がそうなったのも「みんな自分の責任」と弟に謝り、還暦の祝に招待した。兄にしてみれば、せっかくの、めでたい席を弟に汚されたくないという思い、祝の当日、はち合わせるやいなや、怒鳴る、殴るの兄弟げんか・・・。仲裁にかけつけた父、たまらず、二人の腕を手拭いで「固結び」、「もしほどいたら、二人とも勘当だ!よーく、頭を冷やして考えろ」と言い残し退場。残された、兄と弟。しばらくは「反発しあっていたが」、双方が、水を飲む、厠へ行く、飯を食べる、窒息しそうになる「相手」と「付き合わざるを得ない」うちに、次第に、幼かった頃の「兄弟愛」が蘇り、「仲良く家業を分担しよう」ということで、めでたし、めでたし。兄弟の嫁は、新人女優・春夏悠生、生田春美が担当、舞台に花を添えていた。
 1月公演も明日で千秋楽、どうやらこの劇場での観客動員数は(団体客を除き)、昼60人、夜30人というところで終わりそうである。しかし、その90人は、心底この劇団の「支持者」であることは間違いない。当所「初見え」の劇場でよく頑張った、と私は思う。とりわけ、三代目虎順を筆頭に、赤胴誠、春夏悠生、生田春美らの「若手」の成長が著しかった。今日の舞踊ショー、父・鹿島順一の歌声をバックに踊った、虎順「瞼の母」の舞台は、劇団の目玉として磨き上げてもらいたい。歌声は、間違いなく「日本一」、舞姿の風情は、年格好からいって、まず蛇々丸あたりが「お手本」を示すべきかも。赤胴誠の「箱根八里の半次郎」は、デビュー当時の氷川きよしとイメージが重なり、その「初々しさ」において格別の舞台であった。春夏悠生、生田春美の「おきゃん」もそうだが、舞踊における「若手」の「立ち姿」が「絵になっている」ところが素晴らしい。その集中力・緊張感を「組舞踊」の「大勢」の中でも発揮できるようになれば、三代目虎順に「一歩ずつ」近づくことができるだろう。
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芝居《「源太時雨」》・座長「ちょい役」の意味(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-07-13 22:56:32 | 平成21年正月公演・つくば

芝居の外題は「源太時雨」。配役は、主役の源太・春大吉、その親分・蛇々丸、盲目の浪人・三代目虎順、その妻・春夏悠生という顔ぶれであったが、肝腎の座長・鹿島順一は悪役の親分(蛇々丸)に「おい、野郎ども! やっちまえ!」と呼ばれて、幕切れ直前に登場する、「野郎ども」(その他大勢の「ちょい役」)に甘んじる。ここらあたりが、この劇団の「実力」というものであろう。どこの劇団でも、座長が「その他大勢」の「ちょい役」ですませられるところはない。わずかに、「春陽座」の初代座長・澤村新吾が「ちょい役」に回ることがあるくらいである。「鹿島順一劇団」の実力は、座長が「ちょい役」に回っても、その他の座員だけで「十分に見応えのある」舞台を作り出せる点にあるのだ。「みんなが花形」「みんなが主役」「芝居はみんなで作るもの」といった理念にもとづいて、それが言葉だけでなく、いつでもどこでも「具現化」できることが素晴らしいのである。筋書は、大衆演劇の定番、行き倒れになった盲目の浪人とその妻、二人の間にできた乳飲み子を救ったのは土地の親分、しかし、それは形ばかりで、実はその妻と密通、ひそかに浪人を「消してしまおう」というもくろみ。恰好の人物として白羽の矢をたてられたのが、子分の「源太」、五両の礼金で「仕事」を請け負った。出かけようとすると浪人の妻が言う、「あの、赤ん坊も一緒に殺っておくんなさい」。「えっ?何ですって」と耳を疑う源太、しかし「子ども料金もいただけるなら・・・」と同意する。かくて、眼なし地蔵の前、源太の「盲目浪人・父子殺しの場」が現出するはずであったが、赤子の「火の付くような泣き声」に押されて、どうしても太刀が下ろせない。その泣き声は「チャンを、殺らないで!」(武家風に言うなら、「お父上をお助けください!)というように聞こえた、という。その「感性」こそが、この芝居の眼目に他ならないが、若手・春大吉の「所作」「表情」は、源太の「改心」を見事に描出していた、と思う。源太は浪人父子に五両まで手渡して解放、野良犬を斬り捨てて、刀の証拠作り、親分からさらに五両せしめる「したたかさ」、刀と着物を返せという親分に「怪談話」をでっちあげて「震え上がらせる」ドタバタ場面が「絵」になっていた。悪役が「途端に三枚目化する」蛇々丸の「至芸」は、相変わらずの出来栄え、しかも今回は妻・春夏悠生の風情に「変化」が出てきた。「冷酷」さのなかに「悔恨」の雰囲気を醸し出せれば申し分ないのだが・・・。
盲目浪人の目が明いて、源太とともに、めでたく「間男成敗」の場面で、この「勧善懲悪」劇(秀作)は終幕となったが、ふりかえってみれば、春大吉、三代目虎順、蛇々丸、春夏悠生の四人だけで十二分の「舞台作り」ができてしまった、背後には座長、春日舞子、花道あきら、梅之枝健といった「そうそうたるメンバー」が控えているにもかかわらず、という点が「ものすごい」(この劇団の実力のすごさ)、と私は思う。
 舞踊ショーに登場した新人、赤胴誠、春夏悠生、生田春美の「成長」「変化」にも、目を見張るものがある。何よりも、舞台での「立ち姿」、「所作」一つ一つの「基礎・基本」が身につきつつある点が、たのもしい。「形は形」なのだが、「形だけでない形」(形に込められた気持ち)を学ぶことが、今後の課題だと思われる。彼らは、まさに「発展途上」、ますますの「成長」「変化」「おお化け」が楽しみである。
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芝居《花の喧嘩状》正月公演、座長「敵役」でスタート(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-05-21 21:08:20 | 平成21年正月公演・つくば

昨日に引き続き、午後1時から、つくば湯ーワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)この劇場は「初お目見え」とあって、客の反応がどのようなものか、それがどのように変化していくか、を見たいと思い来場してしまう。今日も、客席は「大入り」、芝居の外題は「花の喧嘩状」。筋書きは大衆演劇の定番、二代目(主役・花道あきら)が男修行の旅に出ている留守をねらって、その親分(梅之枝健)を闇討ちする敵役の浅草大五郎(座長・鹿島順一)、とどめを刺そうとしたが、代貸(春日舞子)と子分(三代目虎順)の登場であきらめる。親分、いまわの際に、苦しい息の中で「仇討ちをあせってはいけない、二代目が帰るまで待つように・・・」と言い残して他界した。親分の遺言を忠実に守りながら二代目の帰宅を待ち続ける代貸と子分二人。浅草大五郎の「いやがらせ」がエスカレートし始めたとき、やっと男修行を終えた二代目が帰宅。しかし、待っていたのは親分の位牌、代貸、子分だけ、二代目、悲嘆にくれたが、「親分をやられて、敵討ちをしないお前らは情ない、俺は再び旅に出る」といって立ち去る。残された代貸と子分、「そういうことなら、やるしかない!」と、浅草一家に殴り込みをかけた。大五郎、「待ってました」と返り討ちにしようとしたが、どこからともなく現れた二代目に突き飛ばされ、座敷からころがり落ちて一言。「チキショー!最後にちょっと出てきて、良い役取りやがって・・・。今日はまだ正月二日だというのに、昨日も悪役、今日も敵役。それもこれもみんな座員のため、座長はみずから貧乏くじを引いてるんだ。温かい思いやりに感謝しろ!どこの劇団だって、三が日は座長が主役を張るもんだ・・・」と愚痴って、笑わせる。二代目、代貸、子分の仇討ちは成功、座長「新年、キラレマシテ、おめでとうございます」と言いながら退場。二日目にしては、客席の「反応」も「まずまず」というところで、私自身は一安心できた次第である。開幕後、客席後方で「私語」が目立ち、それを止めさせようと、客同士の「小競り合い」(言い争い)があったが、それは吉兆、舞台に集中したいと思う客の反応として、今後が期待できる。
 今回の公演、座長の「歌唱」の方から先に「人気」が出たように感じる。歌謡ショーでは「冬牡丹」(梅之枝健の「舞踊」入り)と「無法松の一生」を用意したが、アンコールの声に応えてもう一曲披露した。めったにないことである。なるほど、この劇場では、芝居は昼の部1回だけ、舞踊(歌謡)ショーは昼・夜2回、座長の歌唱をバックに各座員が「とっておきの舞踊」を披露することも悪くない、と思った。
 帰りの送迎バス(つくば駅行き)がどこから出るのかわからず、路線バス(関東鉄道)で土浦に向かおうと停留所(気象台前)に向かった。時刻表を見ると17時26分発がある。その時刻まで30分、時刻後20分待ったがバスは来ない。暗がりの中で、よくよく停留所の看板を見ると、何かがぶら下がっている。なんと正月三が日は時刻表どおりではなく「特別運行」する旨が書いてある。やむなく、湯ワールドまで立ち戻り、18時20分発の送迎バスで帰路についた。
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芝居《新版・会津の小鉄》三代目虎順の挑戦(平成21年正月公演・つくば湯ワールド)

2015-05-06 14:15:48 | 平成21年正月公演・つくば

午後1時から、つくば湯ーワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。荒川沖からの送迎車乗客は初老の女性一人。運転手に話しかける。「柏も、小岩も、佐倉も、みんなそこそこの劇団なのに、オタクは今月、貧乏くじ引いたわよね。まあ三日までは、そこそこ入るだろうけど、後はどうだか・・・。役者がいないもんね。座長も年取ってるし・・・。」私は、正直「この婆あ、殺したろか」と思い、「そんなら、見なけりゃいいじゃねえか!スッコンデロ!」と心の中で叫びつつ送迎車を降りた。劇場は1時間前から大入り満員。やっとのことで座席を確保したが、ここは公演中も「飲み食い自由」で食事の注文も受け付ける。舞台に集中できなくなるのでは?と、いやな予感がしたが、それは取り越し苦労、芝居「会津の小鉄」の開幕と同時に、「水を打ったように」静かになった。この演目は、「鹿島順一劇団」の「至宝」ともいえる十八番、今回は、はまり役・花道あきらに替わって三代目虎順が主役を務めた。「若き日の」会津の小鉄と副題にもあるように、十七歳・虎順の「舞台姿」には申し分ない。実母・春日舞子を「恋女房」に見立てた「絡み」も悪くない。課題はただ一つ、実父・座長の敵役・名張屋新蔵が「惚れ込んだ」その「侠気」をどこまで描出できるかどうか、三景・宮本むさくるし(蛇々丸)、佐々木こじき(春大吉)や新蔵の娘お京(春夏悠生)との「絡み」、四景・新吉との「立ち回り」などでは、花道あきらの「風情」には及ばない。まだ、口跡が「絶叫調」で単調、死んだ恋女房を思い出しながら、ある時は「抑えて」、「自分に向かって言い聞かせるような」語調が欲しい。今後の成長に期待したい。二景・お吉のセリフ「私の首を手土産に、男になっておくんなさい」が聞けずに閉幕になったのは残念、また京山幸枝若の「節劇」は、お吉自刃後の方が「絵になった」のでは・・・。いずれにせよ、今回も「新版・会津の小鉄」、つねに前を向き、新しい舞台作りを目指す「劇団」のひたむきな姿勢に脱帽する。帰りの送迎車、客の話。「来月は『美鳳』。きっと、大騒ぎだよね。今月の劇団は、どおってことなかっぺ」ええい、ままよ!迎えの時の客といい、送りの時の客といい、眉毛の下に付いているのは銀紙か、なるほど、「鹿島順一劇団」は人気がない。理由は簡単、座長自身、客の「人気」など歯牙にもかけぬ舞台生活を送ってきたのだ。「人気」など、何の役にも立たない。これまで何度「地獄」をみてきたことか。いっときの「人気」が何になるか。大切なのは「実力」だ、「実力」さえ磨いておけば必ず認めてくれる「お客様」がいる、そのことを誰にもまして熟知しているからこそ、「客に媚びる」ことをしないのだ。いざとなれば、誰も助けてくれないことを彼は知っている。自分の「実力」だけが頼り、ということを痛感している。「舞台を降り、化粧を落とせば五分と五分、役者も客もあったもんじゃあない」といった気概が座長・鹿島順一の真骨頂といえるだろう。さればこそ、その気概が彼の舞台姿をより一層「艶やか」にするのだ、と私は思う。「どおってことなかっぺ」とほざいた客が、いつかは必ず「おそれいりやした」と脱帽するであろうことを「夢見つつ」(確信しつつ)帰路についた。
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