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大衆演劇《鹿島順一劇団》見聞録

全国に140以上ある劇団の中で、私が最も愛好している「鹿島順一劇団」の見聞録です。

競演・「宝海劇団」・《芝居「吉五郎懺悔」の名舞台と宝海大空の魅力》

2014-08-21 10:09:58 | 付録
【宝海劇団】(座長・宝海竜也)〈平成24年1月公演・佐倉湯ぱらだいす〉
芝居の外題は「吉五郎懺悔」。配役は、木鼠吉五郎に座長・宝海竜也、茶店の老婆(実は吉五郎の母)に宝海真紀、老婆の息子・新吉に宝海大空、十手持ち親分に若座長・早乙女紫虎。本来なら、吉五郎に早乙女紫虎、十手持ち親分に座長・宝海竜也というあたりが順当・妥当だと思われるが・・・、そうか、今日の舞台、人物も筋書きも余計なものは省けるだけ省き、吉五郎と母の出会い、義弟・新吉との「絡み」に焦点を絞り、座長みずからが吉五郎の演じ方を、若座長に伝授する魂胆か・・・。お尋ね者の盗賊・木鼠吉五郎は生みの親を訪ねる道中、立ち寄った茶店の老婆がお目当ての人、その人に息子がおり、十手持ちの役人だとやら、それでは「親子名乗り」もできない。せめて、息子のお縄にかかって「親孝行」させようという吉五郎の「心象」描出が、芝居の眼目である。座長・宝海竜也扮する吉五郎は、どこか「中谷一郎」然、すばしっこく身軽に「非道を重ねてきた」風情が、鮮やかであった。加えて、間抜けな役人(実は吉五郎の義弟)に扮した宝海大空も素晴らしかった。彼はまだ弱冠16歳、にもかかわらず父・宝海竜也と「五分に渡り合って」母親との「親子名乗り」を遂げさせようとする。口跡といい、表情(目線)といい、姿といい、申し分なく、「ちゃらんぽらん」だった若造が、瞬時にして、兄思い母思いの青年に「変化」(へんげ)する様を、迫真の演技で描出する。なるほど、彼は今やマスコミの人気者、時代の寵児、「宝海劇団」に出演する機会も減りつつあるようだが、その人気は、確固とした「実力」によって培われたものであることを、心底から納得した次第である。その「証し」は、第二部・舞踊ショーにおいても遺憾なく発揮されていた。個人舞踊立ち役の「黒田の武士」は、先輩格・三代目鹿島順一(「鹿島順一劇団」座長)に勝るとも劣らない出来映えであった。さらに女形舞踊「独り寝の子守歌」も絶品、その清純な色香は、あのスーパー兄弟(龍美麗・南條影虎)を凌いでいたかもしれない。私が「宝海劇団」の舞台を初めて観たのは三、四年前、当時の宝海大空は12、3歳で、ほとんど記憶に残っていない。だとすれば、以後の彼の成長はめざましく、それが劇団発展の原動力になったことは間違いないだろう。事実、兄・早乙女紫虎、宝海大地、宝海太陽、宝海蘭丸、山下和夫といった座員の面々も、それぞれの個性が輝いて魅力的、紫虎、大地の扇子使い、太陽の「バック転」はお見事!、それに蘭丸の可憐さと和夫の「歌声」が加わって、舞踊ショーは百花繚乱、居眠りをしている暇などなかった、のであった。座長・宝海竜也は、劇団ホームページ座員紹介の詳細で、「今、勉強していることは? 人の使い方」と記しているが、「宝海劇団」は文字通り「宝の(海ならぬ)山」で、人材に事欠かない。「人の使い方」イコール「人の活かし方」、それぞれが自信を持って、のびのびと自らの個性を磨き合い、座員のチームワーク、役者の「呼吸」を大切にすれば、さらなる発展・成長が期待できる。そのことを念じつつ帰路に就いた次第である。
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名舞台・芝居「木曽節三度笠」(平成25年3月公演・湯ぱらだいす佐倉)

2014-07-21 21:31:21 | 付録

芝居の外題は「木曽節三度笠」。私が。この芝居を見聞するのは3回目だが、その間、配役に大きな変化はない。ある材木問屋の若旦那・新太郎に花道あきら、その弟(といっても腹違い)喜太郎に三代目鹿島順一、喜太郎と相思相愛の娘・おきぬに春夏悠生、材木問屋の女主人・喜太郎の母に春日舞子、仇役・鮫一家親分・五右衛門 に甲斐文太、その子分たちに赤胴誠、梅之枝健、幼紅葉、壬剣天音、という、不動の面々である。そのためか、舞台模様には寸分の隙もなく、今日もまた珠玉の名舞台が展開されていた。筋書きは単純。できの悪い兄・新太郎と、できの良い弟・喜太郎が、可憐な娘・おきぬをめぐって対立する物語。喜太郎とおきぬは「相思相愛」、末は一緒にと約束していたが、兄の新太郎もまた、おきぬに恋している。それを知った母親は喜太郎に「おきぬのことはあきらめなさい」と説得する。なぜなら、この親子、今は亡き材木問屋の主人に拾われて、現在に至っている。「大恩あるお方のためならば、命を捨てたって報いなけれなならないのが、人の定め。新太郎さんは御主人様の忘れがたみ、ここはおまえが退かなければなりません」。喜太郎は「生木を裂かれる」思いで、旅に出る覚悟をしていたがそんな折も折、おきぬが鮫一家の子分衆に囲まれた、「親分が、手つかずの生娘を連れてこい」との由。そばに居合わせた新太郎、必死におきぬを守ろうとしたが、歯が立たない。連れ去られようとしたその時、飛び出してきたのが喜太郎。そうはさせじと、子分衆に立ち向かう。相対したのが、たこの八(壬剣天音)、匕首で斬りかかり、しばらくもみ合ったが、結果は意外にも喜太郎の勝ち・・・。人を殺めてしまった恐ろしさに呆然とする姿が、一際絵になっていた。「すまない。私たちのために、こんなことになるなんて・・・」と謝る新太郎の言葉を背中に聞きながら、喜太郎は凶状旅に出立する。二景は(それから数年後の)材木問屋の店先、今では家督を新太郎夫婦(妻はおきぬ)に譲り、隠居の身となった女主人が、鮫一家親分・五右衛門と話をしている。「新太郎さんが、ウチの賭場に遊びに来て、150両の借金をこしらえた。分割でもよいから返しておくんなさい」。女主人、寝耳に水の態で「私は、新太郎さんから何も聞いておりません」と突っぱねるが、脇に控えていた子分の一人・鰯の某(赤胴誠)が「何だとこのババア!親分が嘘をついているとでもいうのか」と凄んで、つかみかかかろうとする気配。五右衛門、静かに制して「ウチには、こんな短気な野郎がいるんで危なくていけねえ。まあ、あっしが来たことだけは、新太郎に伝えておくんなさい」と、念書を置いて退出する。鰯の某、「オイ、ババア、喜太郎がこの近くまで戻ってきているらしい。帰ってきたら、必ず(たこの八の)仇を討ってやるから、そう思え!」と捨て台詞を残して出て行った。やがて、おきぬ登場、新太郎と祭り見物に行ったが、人混みに紛れて独り帰宅した様子、「おっかさん、ただいま。お茶でも入れましょう」と言っているところに、新太郎も追っかけて帰宅、「なんだねえ、おきぬ。わたしを置いてどんどん帰ってしまうなんてひどいじゃないか」などと愚痴る姿が、夫婦の「不和」を浮き彫りにする。「二人でまた、私の悪口を言っていたんでしょう」という言を遮って、女主人「さっき、鮫の親分が来て、これを置いていきましたよ」。新太郎、一瞬ギクッとするが、念書を見て平静を装い「なんですねえ、150両くらいの端金、すぐに出してやればいいものを・・・」などとノーテンキなことを言っている。「おまえさん、ウチには、もうそんなお金はありません」と言うおきぬを急き立てて奥に入ってしまった。独り残された女主人、嘆息して「いったい新太郎さんはどうしてしまったんだろう。こんなときに喜太郎が居てくれれば・・・」と独りごちして仏壇に手を合わせれば、「おっかさん!」という喜太郎の声が聞こえた。振り返ったが姿は見えず、気のせいかと再び仏壇に向かったが、「おっかさん!」、今度は、はっきりと姿を現した。女主人、母の風情が蘇って「喜太郎!帰ってきてくれたのか」と喜べば、「おっかさん、お久しぶりでござんす。それにしても、ずいぶんおつむに白いものがふえましたねえ・・・」と、抱き寄せる。縞のカッパに三度笠、以前とは見違える喜太郎の姿は、一際あざやかであった。その気配に出てきた新太郎を見て「兄さん、お久しぶりでござんす」。「おまえは喜太郎!よく帰ってきたな」と、新太郎、一度は喜びの素振りを見せたが、様子はみるみるうちに一変、「そんな姿で何しに帰ってきた。ここは堅気の大店、おまえのようなヤクザ者の来るところではない。出て行ってくれ」と追い返す。「なさけねえ、ただ逢いに来ただけなのに・・・」と、喜太郎、嘆じたが、新太郎は図に乗って「そうだ、おっかさんも一緒に出て行くがいい。二人で仲良くお暮らしなさい」と強弁。「そうですかい。・・・おっかさん、出て行きましょう」。母、凜として「私は出て行かない。大恩ある御主人様(の位牌)を誰が守るというのか」。そのやりとりを見ていた新太郎、「何をごちょごち言ってるんだ、早く出て行かないか}と言って、母を突き飛ばす。その仕打ちに、堪忍袋の緒が切れたか、喜太郎、咄嗟に長ドスを抜いて新太郎に斬りかかった。「よくも、やりやがったな。殺してやる!」と迫るのを必死で止める母、「喜太郎、何をするんだ。謝りなさい」「いやだ」「謝りなさい」「いやだ」「いいから、謝りなさい」と泣き崩れる母の姿に、喜太郎もまた、泣きながら「ごめんなさい」。(斬りかかられて)固まっていた新太郎、「ああ、びっくりした。殺されるかと思った」と(言いながら)奥に入った。すべてを諦めた喜太郎、母に向かって「では、おっかさん、いつまでもお達者で・・・」と別れを告げているところに、新太郎が飛び出してきた。「たいへんだ、おっかさん!おきぬが鮫一家に連れて行かれた」。驚愕する母、どうすればいい?「喜太郎!」と声をかけるが、「お取り込みのご様子ですが、あっしには何の関わりもないこと、これで失礼いたしやす」と言って応じない。「そんなこと言わずに、おきぬさんを助けておくれ」。「おきぬさんは新太郎さんの女房、新太郎さんが助けるのが筋だ」新太郎「私は堅気、助けられるわけがない。相手はヤクザ、ヤクザにはヤクザのおまえが一番だ。どうか助けておくれ」と懇願するが、「嫌でござんす。それでは御免なすって!」と立ち去ろうとするのを、母、「喜太郎!おまえはこれが目に入らないか」と、亡夫(亡父)の位牌を差し出す。喜太郎、それを見て、雷に打たれたようにひれ伏し、「おとっつあん、あなたは新太郎さんと私を、分け隔て無く育ててくれました。そのあなたから助けてくれといわれりゃあ、嫌とは言えません」と、翻意した。かくて三景は、鮫一家との喧嘩場。(喧嘩支度に)身を固めた喜太郎を迎え撃つ鮫一家、親分・五右衛門、前に出て「やい喜太郎!おまえは何しにキタロウ」という名文句に、ずっこける子分衆の景色は、相変わらず魅力的であった。以後は、鮫一家連中を、見事な包丁(太刀)捌きで、手際よく料理、(改心した)新太郎とおきぬの仲を取り持って、思い入れたっぷりに(再び凶状旅に)出立する喜太郎の姿は天下一品、おのずと私の耳には、あの名曲「木曽節三度笠」の一節が流れてきたのであった。〈木曽の桟 太田の渡津  越えて鵜沼が 発ち憎い 娘ごころが しん底不愍 などと手前えも などと手前えも 惚れたくせ 袷ナー仲乗りさん 袷やりたや ナンジャラホイ 足袋を添えて ヨイヨイヨイ ハアヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ 盆がまた来た 今年の盆の 男涙にゃ 血がまじる にンまり笑った 笑いがすっと 引いてかなしい 引いてかなしい 山の月〉(詞・佐伯孝夫、曲・吉田正)。今日の舞台、堅気姿の次男坊から一転、目の覚めるような股旅姿に変身した、主役・三代目鹿島順一の雄姿が輝いて見えたが、同様に、脇役の面々も随所、随所で光っていた。責任者・甲斐文太、春日舞子の「実力」は、言うに及ばない。加えて、子分鰯の某を演じた赤胴誠、(かつての先輩・名優)蛇々丸の風情を踏襲しながら、必死にそれを超えようとする意気込みが清々しい。さらにまた、新太郎役の花道あきら、身勝手で小心者、「自己中」然とした愚兄の景色を、淡々と、飄々と描出する。どこか頼りない、どこか醒めている、どこか擦れている、その「今風」の気配が、喜太郎・母子の絆を、よりいっそう強固にする。その(「軽・重」の)コントラストが、(透明な)煙幕のように、舞台全体を彩る、といった案配で、そこはまた、花道あきらの「独壇場」でもあったのだ、と私は思う。今日もまた極上の舞台を満喫、大きな元気をいただいて帰路についたのであった。

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芝居「月の浜町河岸」の名舞台・平成25年3月公演・佐倉湯ぱら劇場

2014-03-24 20:52:57 | 付録
2013年3月4日(土) 晴
午後0時30分から、佐倉湯ぱらだいすで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・三代目鹿島順一)。芝居の外題は「月の浜町河岸」。幕が開くと、そこは浜町河岸の料亭・一力茶屋の玄関先。足に包帯を巻き、杖をつきながら登場したのは木場の職人(?)源吉(花道あきら)。一力茶屋の仲居頭・お蔦(春夏悠生)とは「いい仲」で、「仕事中に事故に遭ったケガをした上、高価な材木まで駄目にしてしまった。五十両工面して欲しい」という。お蔦、思案に暮れたが、茶屋の若主人(赤胴誠)に頼もうと決心した。今では、お腹の中に源吉の子まで宿しているのだから。しかし、この源吉は、とんだ食わせ者、お蔦の朋輩・おふく(幼紅葉)と示し合わせて、まんまと五十両を詐取、遁走してしまった。茫然自失のお蔦の前に現れたのが、スリの金太。すれ違いざまにお蔦の紙入れを掏りとったが、飛んで火に入る夏の虫、尾行していた目明かしの親分(甲斐文太)に、たちまち捕縛される。「オレは銭形平次の兄貴分だ。とうとう捕まえたぞ。神妙にお縄につけ」「ごめんなさい。ほんの出来心で。家には病気のおっかさんと十人の弟妹が、私の帰りを待っておりやす」「嘘つけ。この前、捕まえた時には、親に死なれた、野中の一本杉と言っていたじゃねえか」「ああ、あの時の親分でしたか」などという「やりとり」を聞いていたお蔦、「親分、いいんです。この紙入れは、私があげた物、その人の縄を解いてやってください」と言う。「えっ!?」、びっくりしたのは、金太と親分、そしてその子分(梅之枝健)、「本当にいいんですか」お蔦、金太の顔を見つめながら「根っからの悪人とは思えません。心を入れ替えて真人間になってください」。親分、しばし黙想した後、静かに縄を解き、「金太、オレは悪いクセがあってな、あることに夢中になると、しなければならないことを忘れてしまうんだ。見てみろ、今宵の月はきれいだなあ・・・」と言いながら、「逃げろ!」と所作で暗示する。金太、「信じられない」という表情で逃げ去ったが、「親分、金太が逃げましたよ、いいんですかい!?」という子分の声に「えっ?逃げた。ちっとも知らなかった。金太、待ちやがれ!」。その一声を聞いて、あわてて立ち戻る金太、それを見てずっこける親分、バカ、早く逃げねえか、お蔦さんの気持ちがわからねえのか!といった「人情」が、いとも鮮やかに描出される。二、三度と繰り返される絶品の名場面に、私の涙は止まらなかった。なるほど、この親分、銭形平次に「銭の投げ方」を伝授しただけの貫禄はある。舞台は二景(前景から1年後)、その親分が、なぜか、意気消沈、川に身投げをしようとする様子(実を言えば大事な十手を盗まれた由、死んでお詫びをする他はないという存念)、「よしなせえ。何をするんだ」と止めに入ったのは、誰あろう、一年前、お蔦と親分の情けで解き放たれた金太、一年前とは打って変わり、こざっぱりとした堅気風情の旅姿、腕利きの(簪の)飾り職人に成っている。「おまえは金太!ずいぶんと立派な姿になったもんだ」「ありがとうございます。おかげさまで、生まれ変わることができました。手先の器用さを活かして、簪を彫っております」「うーん、見事だ」、その出来映えに元気づけられてか、親分の気持ちも変わった。「失敗は誰にもある。やり直すことが肝腎だ。身投げをやめて手柄を立てよう」。思い直して立ち去る親分、彼を見送る金太の姿には「お蔦さんはお達者か・・・。まだ独り身でいるだろうか・・・。この簪をぜひさしてもらいたい」という心中も、仄見えたのだが・・・。そのお蔦、今では一力茶屋の女将に収まって、若主人、生まれた子どもと三人、幸せな日を送っている。しかし、そこにやって来たのは、懲りない源吉、一年前とは打って変わり、よれよれの単衣に身をまとい、薄汚れた無精髭の(無頼の)風情で現れた。お蔦を呼び出して「お決まり」の恐喝、その様子を窺っていた金太、思わず、飛び出して源吉と渡り合う、といった場面で舞台は大詰めへ。またまた「野中の一本杉」に舞い戻ってしまった金太、一年前と同じように、浜町河岸の月は美しく輝き、縛られた手でお蔦の髪に差し掛ける簪の光がキラリと光る、見事な幕切れであった、と私は思う。この芝居の眼目は「許す」ことの大切さ、それが三つ巴になって、舞台は進行する。一はお蔦と金太、二は目明かしの親分と金太、三は茶屋の若主人とお蔦、三者が三様に「相手を許す」ことによって「救われる」のである。お蔦を演じた春夏悠生、まだ師・春日舞子の風情には及ばないとはいえ、「思い切った」「渾身の」演技は見事であった。加えて、一力茶屋若主人の赤胴誠、「つっころばし」の風情の中にも、凜とした芯の強さを窺わせ、たいそう魅力的であった。極め付きは、三代目鹿島順一の金太、堅気姿に生まれ変わった景色が、それだけで親分の「迷い」を払拭する(身投げを思い直させる)、溌剌とした清々しさを舞台一面に漂わせていた。また、大詰め、無言の「節劇」では、秘かに愛する人(お蔦)のため、(源吉を)「許せなかった」ことへの悔恨、所詮、自分は「野中の一本杉」に過ぎなかったという、どうしようもない「寂しさ」「虚しさ」を、ものの見事に描出する。その「実力」は半端ではない。休憩時、喫煙室での老女の話。「やあ、よかったよかった。初めての劇団だけど、はまっちゃったよ。お客が少なくて可哀想・・・」。おっしゃるとおり、でも、お客が少ないことと、劇団の実力は関係ない。むしろ、老女の「鑑賞眼」こそお見事!今日もまた、大きな元気を頂いて、帰路に就いたのであった。

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芝居「夜鴉源太」の舞台模様・平成25年3月公演・佐倉湯ぱら劇場

2014-03-23 21:34:05 | 付録
2013年3月3日(日) 晴
午後0時30分から、佐倉湯ぱらだいすで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・三代目鹿島順一)。芝居の外題は「夜鴉源太」。登場人物は、渡世人・夜鴉源太(座長・三代目鹿島順一)、その弟分・十六夜の清吉(花道あきら)、長屋の娘(甲斐文太)、按摩の親分(梅之枝健)、巡礼姿の娘(幼紅葉)、その兄・人斬り某(赤胴誠)、按摩の子分(春夏悠生、壬剣天音)。いつもは長屋の娘を春日舞子が演じていたが、今月はまだ病気療養途中のため、甲斐文太が代演ということか。筋書きは単純、掛川の宿で別れ別れになった源太と清吉、一年ぶり(?)に常陸で再会した時には、清吉は盲目になっていた。常陸では、昔、源太の弟分だった按摩が、親分に成り上がって幅をきかせている。源太が帰着した折も折、按摩は「足を踏んだ」といって巡礼の娘に絡んでいる始末、源太、按摩を追い返し、娘から事情を聞くと、「兄を探す旅」とやら・・・。兄は数年前に近江の家を出て行き方知れず、まもなく母は亡くなり、生き残っている父が「ひと目、倅に会いたい」というので、こうして旅に出ています。「この地では顔が広い。探してあげよう」と源太は娘に約束する。そこにやって来たのが盲目の清吉、源太と再会したが、「兄貴、ひでえじゃねえか。なんでオレのことを置いてきぼりにしたんだ」。「いやあ、すまねえ。あの時は、宿代を稼ぎに遊びに行ったが、手入れが入って、山に逃げ込んだ。宿に帰ったら、おめえはもう居なかったんだ」「オレは兄貴が常陸に帰ったと思い、船で追いかけたが、途中、嵐に遭い、こんな姿になってしまった」「わかった、すまねえ。もうどこに行かねえよ」等と言いながら、清吉の長屋へ・・・。待っていたのは長屋の娘、清吉の身の回りをかいがいしく世話をしてくれているとのこと。「兄貴、オレその娘と所帯を持ちたいんだが、どんな器量だか見てくれないか」「わかった」と言いながら、源太、長屋を覗き込み、娘の顔を一目見るなり、(その不細工さに)笑いが止まらない。「清吉!所帯を持て、持て!」「そんなにいい女か?」「その反対だ」ずっこける清吉、「そんなら兄貴、追い出してくれ」源太、体よく娘を追い出したまではよかったが、腹が減った。しかし、食べるものは何もない。やむなく馴染みの寿司屋に買いに行く。「兄貴、ドスを置いていってくれ。くれぐれも酒をのむなよ」。そこに来たのが、按摩の用心棒・人斬り某、「源太を殺ってくれ」と頼まれたが、源太は留守、清吉に一太刀浴びせて帰っていた。清吉、手傷を負いながらも「兄貴を殺るなんてゆるせねえ」と、健気にも飛び出して行く。入れ替わりに帰ってきたのが源太、泥酔状態で足が立たない。飛び込んできた娘いわく「大変だ!清吉さんがドスを抱えて飛び出していった。按摩の用心棒があんたを殺しに来たんだよ」。源太、びっくり仰天、あわてて襷を足に巻き付けて、喧嘩場に駆けつけたが、万事休す。清吉は按摩一家のなぶり殺しに遭っていた。激高した源太、たちまち一家連中をなぎ倒し、大詰めは用心棒・人斬り某との一騎打ちに・・・。双方、激しく渡り合ったが、用心棒、刀を落とし、もはやこれまでと覚悟を決めた。源太、「清吉の仇!」と討とうとしたが、かすかに「兄さーん」という声、次第に大きくなって巡礼姿の娘が現れた。「そうだったのか。やっぱり・・・」。源太は瞑目、清吉の面影を追いながら合掌、兄と妹が深々と頭を下げるうちに、幕は下りた。この芝居の眼目は「兄弟愛」、一方は、源太と清吉の義兄弟、他方は、近江百姓の兄妹。ともに兄を守ろうとする弟妹の「健気さ」を描出することが不可欠であろう。今日の舞台、義兄弟(座長・花道あきら)の風情は格別であったが、近江の実兄妹(赤胴誠・幼紅葉)の方は「今一歩」、再会したときの両者の「心模様」が判然としなかった。とりわけ、「人斬り某」と異名をもつ用心棒の風情には、「殺気」「無頼」「虚無」といった要素が必要だが、若手・赤胴誠には「荷が重かった」。ここは一番、甲斐文太の「出番」を願い、長屋の娘は春夏悠生に任せる、といった配役にしてみては、などと身勝手な妄想を抱いてしまった。舞踊ショー、甲斐文太の「安宅の松風」を観られたことは望外の幸せ、加えて、夜の部・芝居「武士道くずれ」まで見聞できようとは・・・。双方とも、斯界の至宝、文字通り「国宝級」の舞台を堪能して帰路に就くことができたのであった。感謝。

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《付録》・「大衆演劇雑考」・Ⅳ・大衆演劇の「芝居」

2013-11-25 21:04:17 | 付録
「鹿島順一劇団」が演じる「芝居」は、その主題、役者の演技力において他を凌駕している。大衆演劇の「芝居」の主題は、儒教・仏教・神道など、伝統文化に基づいた「礼節」「義理(仁義)」「忠孝」「因果応報」「滅私奉公」「報恩」といった価値観にかかわりながら、終局は「人情」(親子・兄弟の家族愛)の機微に帰結するのが通例だが、私は「鹿島順一劇団」の「芝居」の中に、「一味違う」景色を感じる。(「春陽座」(座長・澤村新吾、「近江飛龍劇団」にもその萌芽がみられるが・・・)具体例の演目は、時代人情劇「春木の女」「噂の女」「浜松情話」の三本、いずれも「障害者」が登場することが共通している。
従来、歌舞伎では「東海道四谷怪談」「籠釣瓶花街酔醒」、映画では「丹下左膳」「座頭市」、浪曲では「壺坂霊験記」など、障害者の「受難」「怨念」または非現実的な「活躍」(願望)を描いた作品は少なくない。大衆演劇の芝居でも「喧嘩屋五郎兵衛」という定番がある。 しかし、そのいずれもが「化け物七分で人間三分」といった(私たちの)偏見がいかに不当であるかを指摘するだけにとどまっており、そうした見方しかできない、私たち自身の中にある「化け物性」(無知・蒙昧・愚鈍)を省みる契機にはなっていないのではないか。そんな時、「鹿島順一劇団」が演じた三本の芝居は、私自身の中にある「偏見」を見事に払拭し、正に<功利を求めて汚れてしまった私(たち)の「心」を浄化し、助け合って生きる「元気」と「喜び」を>与えてくれたと言えるだろう。たとえば「浜松情話」、二代目を襲名した土地の親分・政五郎(花道あきら)は三下の子分(三代目虎順)を連れて「嫁探し」の旅に出る。頃合いの娘がいなくもなかったが、いずれも「ヘビに短しタヌキに長し」(虎順談)で目的を果たせず帰路についた。浜松宿を目前にした茶店、子分にせがまれて一休みする政五郎、ふと店先で縫い物をしている娘(春大吉)に目がとまった。茶を飲み終えて出立しようとする子分を引き寄せ、耳打ちする。「あの娘を嫁にしたい。おめえ、話をつけてくれねえか」、あっけにとられる子分、「親分、よしてください。三下のあっしには荷が重すぎる仕事です」「おれが頼むと言っているんだ、おれの話が聞けねえのか!」子分を恫喝した政五郎はそそくさと退場、後に残された子分は、渋々、茶店の親爺(座長・鹿島順一)に掛け合う。親爺曰く「うちの娘は、事情があって誰にも嫁にはやらない」、「そこをなんとか・・・」、食い下がる子分に、親爺は頑として応じない。しかたなく、子分は「話をつけられなければ、親分に合わす顔がない。ここで腹を切る」という。親爺、平然と「ああ、好きにしなせえ。本当に腹を切るところを見てえもんだ。死んだばあさんへの土産話になる」。万策尽きた子分は長ドスを腹に突き立てた。その直前、親爺の手がドスを振り払い「わかった、わかった、そこまで覚悟ができているのなら、娘に訊いてみる」。娘の回答は意外にも「諾」、親分のところに嫁入りすると言う。困惑する親爺、狂喜する子分。さっそく娘を「生き証人」として親分の所に連れて行こうとする。「待て」と親爺が止めるのも聞かず、娘は立ち上がり歩き出した。そのとたん、子分は驚愕し思わず叫んだ。「山が見えたり、隠れたり・・・」娘の「歩き方」は大きくバランスを欠いていたのである。(観客は「爆笑」していたが、私は涙が止まらなかった)子細を了解した子分は、親爺に平伏して誤る。「いやアー、すまねえ親爺さん、今の話はおれの作り話だ、無かったことにしてくれ」今度は親爺が激怒した。「無かったことにしてくれだと?あれほど断ったのに・・・」子分も人の子、冷静になって反省した。「そうだ、あんたの言うとおりだ。おれが親分に話をするから待っていてくれ」そう言って帰路につこうとし時、政五郎再び登場、「どうだ、話はついたか」「へい、つきました、それがねえ・・・親分」口ごもる子分を尻目に「ありがとうよ、じゃあ、親爺さんにあいさつをしなきゃなんねえな」、親爺の前に平伏する政五郎、「私、浜松一家の二代目・政五郎 と申します。このたび娘さんを嫁にいただきたくお願い申し上げます」、当惑する親爺、「あんたさん、娘のことをよーく知っているのか」「へえ。最前よーく見させていただきました」そのとき、再び「歩き出す」娘、政五郎はその姿を「平然」と、しかも「惚れ惚れと」見つめながら、「親爺さん、娘さんのお体が不自由なら、私が一生、手足となりましょう」と言い放つ。大切なことは、娘の「歩き方」を「平然」と、しかも「惚れ惚れと」見つめられる「感性」である。昔「土手の向こうをチンバが通る、頭出したり、隠したり」(デカンショ節)という戯れ歌があったが、「鹿島順一劇団」の主題(政五郎の「感性」)は、それと無縁であった。爆笑した観客の「感性」がどのようなものであったか、それがどのように変化したか、私にはわからない。しかし、「浜松情話」の底流には、江戸、明治、大正、昭和、平成と続く、私たちの「生活意識」を見つめ直し、時として跋扈する「差別感」(基本的人権の侵害)を「人情」(感性)という視点から克服しようとする誠実で真摯な姿勢が貫かれている、と私は思う。以下「春木の女」「噂の女」の主題も同様・同質で、珠玉の名品に値するが、あとは「見てのお楽しみ」として割愛する。                               大衆演劇の「芝居」といえば、勧善懲悪、義理人情を主題とした「クサイ」景色をイメージしがちだが、そんなことはない。視聴率稼ぎのために「低俗化」「醜悪化」「荒廃化」の一途をたどるテレビドラマとは無縁のところで、人知れず大衆文化の向上に貢献しているのである。
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《付録》・「大衆演劇雑考」・Ⅲ・大衆演劇の「役者」

2013-11-24 09:21:11 | 付録
大衆演劇の役者は、テレビ(映画)俳優と違って、「やり直し」(NG)ができない。また、歌舞伎、新派、新劇などの役者と違って、(多くの場合)「台本」がない。さらに、芝居・舞踊ショーの「演目」は、「日替わり」が原則である。したがって、つねに最低30本以上の「演目」を準備することが不可欠であり、昼夜(1日2回)興行ともなれば60本以上の「演目」をこなさなければならない。現在、どの劇団でも100本以上の「演目」を用意している。「台本」がないからといって、セリフがないわけではない。この演目(役柄)にはこのセリフというように、「決まり文句」が定められている。役者は、それら全て(自分の役以外のセリフまで)を「憶えて」いなければならないのである。 
 また、大衆演劇の「役者」は、大道具・小道具、化粧、衣装の着付け、舞台進行(役者紹介、司会、場内アナウンス)、音響効果、照明効果などの「裏方」、時には、物品販売(前売券、劇団グッズ)、観客の接待なども担当しなければならない。しかも、休演日は月に1~2日程度の「移動(旅)生活」、まさに激務の連続である。それをこなしていくためには、役者相互の「協力」(連帯)が不可欠であり、劇団員は「家族中心」にならざるを得ないだろう。祖父母、両親、子、孫が、同じ舞台で、それぞれの役柄にあった(適材適所の)芝居を演じるところに、大衆演劇の「真髄」(魅力)が秘められているのだ、と私は思う。
 以上が、テレビ(映画)俳優、大劇場の役者と、大衆演劇の「役者」が「決定的に」異なる点である。つまり、「役者が違う」のである。かつて「家族揃って歌合戦」というテレビ番組に「梅澤武生劇団」の面々が出場、その芸を披露したとき、審査員のダン池田が、「ぜんぜん違いますねえ」と感嘆していた場面を思い出す。大衆演劇の「役者」の実力は、どんなに「端(はした)」であっても、テレビ芸人とは「違う」のである。
 さて、芸能界では「やくざ、兵隊の役なら誰でもできる」と言われているようだ。事実、歌手の村田英雄、北島三郎、扇ひろ子などが主演した任侠映画もあるくらいで、鶴田浩二、高倉健、菅原文太、若山富三郎、藤純子、岩下志麻、漫才師の南道郎、仲代達也、高橋英樹など「やくざ、兵隊の役」を見事に演じた俳優は、枚挙にいとまがない。たいていの俳優なら、「誰でもできる」のは事実である。なぜだろうか。理由は簡単だ。「やくざ、兵隊」役に「特別な演技」は要らないからである。既成の社会規範を破れば「やくざ」、従順し、命令・服従の関係をつくれば「兵隊」というよう行動様式を「演じる」ことは、実生活の中で「誰でも」が可能であり、「技(わざ)」として身につける必要はない。つまり、芝居の中でも、実生活の場面でも、私たちは「地のままで」(特別、努力することなく)、「やくざ・兵隊」になることができるのである。
当然のことだが、大衆演劇の舞台に「やくざ」が登場する場面は多い。したがって、役者が「やくざ」をどう演じるか、ということが、その「実力」を測る大きな目安となるだろう。「やくざを演じている役者」は「実力者」だが、無力な役者は「役者を演じているやくざ」の域を出ることはない。両者の間には「雲泥の差」が生じる結果になる。ただ単に、肩を怒らせ、睨みをきかせる所作、大きな濁声を張り上げる口跡だけでは、「柄の悪さ」が強調されるだけで、実生活の場面となんら変わりがない。「こんなヤクザに誰がしたんでえ・・・」といったセリフ・所作の中に、「言いようのないやるせなさ」「ぶつけどころのない煩悶」をどのように表現できるか。まさに「やくざを演じる役者」の「実力」(人間性)が問われることになるのである。残念ながら、その「実力」を備えた「役者」に巡り会えるチャンスは、まだ多くない。これまで私が見聞した舞台の中では、「鹿島順一劇団」座長・鹿島順一、花道あきら、蛇々丸、「見海堂駿劇団」座長・見海堂駿、「劇団荒城」光城真の「実力」が光っていた。
 前章(【大衆演劇の見方】)でも述べたように、「大衆演劇」の真髄は「もどきの世界」を実現することにある。したがって、「大衆演劇」の役者は、大劇場で演じられる歌舞伎、新派、新国劇、新喜劇、新劇、場合によっては映画、浪曲、落語などに登場する人物の役柄を、多種多様に「演じ分ける」ことを要求される。芝居の中では、必ずと言っていいほど、クライマックスの場面で「節劇」が挿入される。「節劇」とは、歌謡曲、歌謡浪曲、浪曲を背景に、複数の役者が「だんまり」(パントマイム)によって「心情表現」する舞踊劇である。この「節劇」を見事に演じることができるかどうか、それも役者の「実力」を測る目安になるだろう。背景音楽のドラマと舞台の場面がピタリと「決まる」(一致する)ことによって、芝居の「主題」が鮮やかに浮き彫られ、観客の感動は倍増される。「節劇」は集団舞踊劇なので、チームワーク(複数の役者の「実力」)が不可欠であり、まさに「劇団の実力」が問われることになる。これまで私が見聞した舞台の中では、「劇団花吹雪」(座長・寿美英二、桜春之丞)、「南條光貴劇団」(座長・南條光貴)、「近江飛龍劇団」(座長・近江飛龍)、「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)の「節劇」が秀逸であった。
さらに、大衆演劇の「役者」は、「舞踊」の実力が問われる。と言うより、「舞踊」の実力が、役者の「実力」だと言った方がよいかもしれない。「舞踊」の所作は、芝居の所作の「基礎・基本」になるからである。舞踊の実力は、まず「歩き方」に表れる。登場、退場、上手から下手・舞台から花道への移動、全て舞台での「歩き方」(時によっては、走り方)は、実生活とは異ならなければならない。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉どおり、「絵になる」歩き方ができるかどうか。次に、問われるのは「立ち姿」の艶やかさと、それが変化する「体の線」である。俗に言う「流れるような線」を描けるかどうか。変化のスピードが早くても、遅くても、その線は保たれなければならない。さらに、問われるのは「顔の表情」(とりわけ目線)である。「体の線」「顔の表情」「目線」がドラマを演出する。舞踊ショーの中で「面踊り」を披露できる役者は「実力者」である。「顔の表情」が一定であるにもかかわらず、「体の線」(動き)と「目線」だけで、人物の「心情」を表現できるからである。「劇団荒城」の子役・荒城蘭太郎の「面踊り」は珠玉の至芸といえる。「橘劇団」女優・條かずみの舞台も見事であった。「歩き方」「立ち姿」「体の線」「顔の表情」「目線」、それら全てが総合化されたとき、舞踊の「実力」(役者の「実力」)が決定する。その実力が、「人形」(美形の表現)に向かうか、「人間」(心情表現)に向かうか、が「芸風」の分かれ道になるだろう。梅澤富美男以来、三枚目が「女形」に変身するサプライズが大衆演劇の「目玉」になったようで、どの劇団でも男優が「女形」を演じることが通例になっている。これまで私が見聞した舞台の中では、舞踊の実力が「人形」に向かう傾向が強いように思われる。(「市川英儒劇団」のキャッチフレーズは「生きる博多人形」である)そのことを楽しむ(美しい人形のような姿を鑑賞することで心が癒される)観客がいる限り、その方向は間違いではない。ただ、それだけでは物足りない。「若葉劇団」総帥・若葉しげるは、高齢にもかかわらず、芝居の中でも「女形」(艶姿)に徹し、「市川千太郎劇団」座長・市川千太郎も初代・水谷八重子「もどき」の芝居に取り組んでいるが、そうした「人間」(女性の心情表現)に向かう方向も貴重である、と私は思う。
 「女形」に徹する場合は別として、男優の「色香」は「立ち役」で発揮されるべきである。その役者が「余芸」として「女形舞踊」を演じたとき、舞台は光り輝くからである。
これまで私が見聞した中で、そのことを具現化していたのは「鹿島順一劇団」唯一であった。舞台に出る役者は、座長・鹿島順一を含めて男優7名(新人1名)、女優2名(新人1名)という規模である。座長の口上によれば、「役者も裏方も人手不足で、現在、照明係はボランティアに依頼、常時『劇団員(特に女優)募集中』というありさま、うちはまさに『劇団・火の車』です」とのことである。とはいえ、この劇団の「実力」は、半端ではない。座長を筆頭に、その妻・春日舞子、長男・三代目虎順、座員・花道あきら、蛇々丸、春大吉、梅乃枝健、など「役者は揃っている」。観客の期待に応えるためには、舞踊ショーでの「女形」が不可欠だと思われるが、1回興行1~2名というプログラムであった。
幕間の喫煙時、耳にした常連客の会話、「もっと『女形』やればいいのに・・・」「あんまり『安売り』したくないんでしょ。『立ち役』だって魅力があるってところ、見せたいのよ、きっと」。その真偽は不明だが、とりわけ、座長の「立ち役」「女形」は、いつまで観ても飽きることがない。立ち役では長谷川一夫と高田浩吉を足して二で割ったような、女形では尾上梅幸と月丘夢路を足して二で割ったような「風貌」だが、その「芸風」「品格」は各々のスター役者を超えている。舞踊において「人間」(心情表現)に向かう方向性の典型ではないだろうか。
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《付録》・「大衆演劇雑考」・Ⅱ・大衆演劇の「大衆」・《2》

2013-11-21 08:55:42 | 付録
 さて、大衆演劇の「大衆」(観客)の中で見逃せない存在がある。
私が行きつけの「健康センター」、舞台は二部の「舞踊ショー」に移っていた。ふと気がつくと、私の右隣に老女が一人、座布団に座って、何やらつぶやいている。しかも、うつむいたままで、ほとんど舞台の方を観ていない。舞踊の音楽に合わせて、身体を動かすこともある。「何だ、舞台を観ないで何をしてるんだ!」と思うと、私の関心はその老女の方に向いてしまった。「このおばあさんはどうして舞台を観ないのか。どんなとき、舞台を観るのか」ひそかに観察していると、舞台を観ないのではない、ほんの「一瞬」顔を上げることがある。そして何やらつぶやき、うつむく。「そうか!」、私は直感的に納得した。彼女は、私が十五年間、働いていた「職場」(かつての養護学校、現在、特別支援学校)の卒業生(仲間)に間違いない。そうだったのか!、舞台がはね、観客は三々五々退場するが、彼女はその場に座ったままである。客席に誰もいなくなった頃、ゆっくりと立ち上がり出口に向かう。「送り出し」の役者が深々と頭を下げ、彼女の手を握る。ニッコリした老女は、ゆっくりゆっくり「健康センター」の館内を歩き出した。「もう夜も遅い、一人で帰れるのだろうか」と思案する私を尻目に、彼女が向かったのは、「女性用仮眠室」、入り口で毛布を一枚手にすると、その姿は見えなくなった。誰の手も借りず、自分の意志で、独り「大衆演劇」を鑑賞する彼女の姿に私は感動した。 世間では「障害者」と呼ばれる人たち、彼らもまた「大衆演劇」の「大衆」であり、「劇団」(役者)にとっては、かけがえのない存在(神様)なのである。
 
 「若葉劇団」座長・若葉しげるは、客席から突進気味に「花を付け」に来たダウン症の青年に、深々と頭を下げ、謝意を示す。「劇団進明座」座長・里見要次郎は、前述した言語障害の青年と舞台で目が合い、「よく、おいで下さいました」と、親しみを込めて平伏する。「鹿島劇団」座長・鹿島順一は、最前列に通いつめる女性客に「毎日、おいで頂きありがとうございます。もうこうなったら、私は、あなた一人のために芝居をします。あなた一人のために踊ります。よーく、見ていてくださいね」と声をかける。このような光景は、全国津々浦々の劇場では「日常茶飯事」であろう。恥ずかしながら、私はかつての「職場」を思い出す。「今日はよく登校して下さいました。これからは、あなた一人のために授業を行います」と言ったことがあっただろうか。

 私が初めて「大衆演劇」を観たのは、昭和四十六年(一九七一年)八月、今から三十六年前の夏であった。場所は東京・足立区千住の「寿劇場」、出演者は「若葉しげる劇団」だったと記憶している。入場料は百円程度、観客は土地の老人がほとんどで、人数も十数人、思い思いの場所に座布団を敷き、中には寝ながら観ている人もいた。芝居の最中に、役者が舞台から降りてきて、団扇をぱたぱたさせながら「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくる場面もあった。それまで、大劇場の歌舞伎、新国劇、新派、新劇などは観たことがあったが、こんなにひっそりと「わびしい」雰囲気の中で演じられる芝居を観たことは初めてであった。しかし、その「わびしさ」に何ともいえない魅力を感じ、以来、断続的ではあるが「大衆演劇」に親しんできた次第である。
今、劇場は「常打ち小屋」約三十、温泉旅館・スーパー銭湯、レジャー施設などに併設される「舞台」を加えると、北は青森、南は熊本まで全国各地・約百二十箇所に点在している。そこを約百三十余りの「劇団」が旅公演して回っているのが現状だが、往時の「わびしさ」は、今も健在である。ほとんどの劇場が、観客数・百名未満であり、平均すると四十名前後というところであろうか。極端な場合には、劇団員の総勢の方が観客数よりも多いことだってある。私が見聞した最少観客数は八名だった。
しかし、実力のある「劇団」は、決して手を抜かない。客の数が少なければ少ないほど、その日の舞台を大切にするのである。外題に冠する「人情劇」の人情とは、ただ単に「演技」として見せればよいというものではなく、役者と客、客と客の間に広く、深く染みわたる心情として、相互の理解・連帯をたしかなものにできてこそ意味がある。競争社会の中で、汚れ、傷つき、乾ききってしまった、私たちの心中に潤いを与え、「愛」を取り戻すアイテムであること彼らは知っている
今日もまた、大衆演劇の「大衆」(私)は、一見「わびしく」劇場に通うのである。
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《付録》・「大衆演劇雑考」・Ⅱ・大衆演劇の「大衆」・《1》

2013-11-19 09:12:55 | 付録
 大衆演劇の観客は、ただ単に「芝居」や「踊り」を観に行くのではない。「役者に会う」ために通っているのである。特に私の場合は、「観客(大衆)を観る」ことを楽しみにしている。「観客」もまた客席で、様々な芝居を演じてしまうのだ。その第一が「席の取り合い」である。東京、大阪など大都市の劇場では、少しでも見やすい席を確保しようと、右往左往する客が多い。

 ある老舗の「常打ち小屋」、その日、客席は開演一時間前から「大入り」が予想された。花形役者の誕生日とあって入場者全員に粗品(役者の芸名を染め抜いた手拭い)がプレゼントされるからだ。座席は予約で満員、当日席はすべて補助席という状態であった。しかし、小屋の若い衆(従業員)は手慣れたもので、次から次に入場してくる客を、手際よく補助席に案内していく。そんな時、客はもう「見やすい席」をあきらめなければならないのだが、黙って応じるとは限らない。私は上手の壁際にある三人掛けの長椅子に案内された。その隣に七十歳代とおぼしき(しかし元気のいい、血気盛んな)女性客二人もまた案内されてきた。客「にいちゃん、ここ疲れるわ、他に席ないのんけ?」若い衆「あっちは、予約席ですねん、ここで我慢してもらえませんか」客は「しゃーないな」と不満たらたらという表情で舌打ちした。入場者はさらに増え続け、通路に丸椅子が並べられた。件の
女性客はそれをめざとく目にすると、「なんや、あっちの方がええやないか。あっちに移ろ、移ろ・・・」と言って、そそくさと席を立ち、移動してしまった。そこへ若い衆がやってきた。「ちょっとお客さん、待ってくれまへんか。そこは、外で並んでいやはるお客さんの席ですねん」「ええやないか、わてらが先に来てるんやから・・・。金(追加料金)はらえば文句ないやろ」「ですから、ちょっと待っててくれまへんか。席が空いたら(確保できる見通しがついたら)案内しますよってに・・・」女性客は渋々、私の隣の席に戻ってきた。「なんや、えらそうに・・・。客をなんだと思っているんや」しかし、若い衆は冷静である。自分のもくろみ通りに続々と入場して来る客を丸椅子に案内していく。一段落ついたあと、若い衆が女性客の所へやってきた。「お客さん、お待たせしました。席つくりましたので移ってもらえますか」こわばっていた女性客の表情が多少ほころんだ。「なんや、移ってもええんか」「はいどうぞ、お二人さんで二百円いただきます」若い衆の采配に対する女性客の不満が吹っ飛び、「今日はよかった」という感動で帰路につけるかどうか、それはひとえに、「劇団」(「花吹雪」)の実力にかかっていることを、私は思い知った。(そのとおりの結果になったことはいうまでもない)
 もう一人、並べられた補助席の丸椅子に座って、なにやらぶつぶつ、しきりに周りの客に話しかけている中年の男性客がいた。たえず体を動かし落ち着きがない。しばらく周りを見回していたが、ついに我慢ができなくなったのか、立ち上がると木戸口の方へ行き、若い衆に談判し始めた。しばらくすると、こわばった表情で戻ってきた。目が据わっている。よく見ると、粗品の手拭いを持っている。(そうか、入場の時に配られた粗品をもらいそこなったんだ)私が納得していると、その男性客は、いきなり手拭いを周囲の椅子の背に叩きつけた。(よほど腹に据えかねたのだろう)一瞬、周囲の客が驚いて視線が集中した時、すかさず若い衆が飛んできた。「お客さん、暴れるんだったら、出て行ってもらいます」男性客は、少し抵抗しただけで小屋の外に「つまみ出されて」しまった。木戸口の外では男性客の怒鳴り声が聞こえていたが、客席はすぐに落ち着きを取り戻した。「なんや、酔っぱらいか。他の客に迷惑かけたらあかんわ」という声があちこちから聞こえた。開演までの一時間、私は退屈することなく「観客の芝居」を十分に堪能できたのである。

同じく小規模な「常打ち小屋」、客の入りはまばら(二十人程度)であった。開演一時間前、私は例によって客席最後列の座席に座った。その左端では七十歳代とおぼしき女性客Aが、客席に流れる演歌に合わせ、団扇で拍子を取っている。そこへ六十歳代の女性客Bがやってきた。Bはその前列に座ろうとしてつぶやいた。明らかに血相が変わっている。「あれ?なんや・・・。最前から早よ来て、席とっといた(荷物を置いておいた)のに、ずらしてあるわ。誰やろ?やあ?これ女物のハンカチや、わての荷物、こっちにずらして、ちゃっかり自分のハンカチ置いとんねん」Aが応じた。「そうか・・・。わては気がつかなかったけど、そら言うてやらにゃあかんわ」B「言うたる、言うたる。ほんま、図々しいやっちゃ」Bはそれだけでは気が済まないようで、顔見知りの客をつかまえては、そのことを言いふらす。言われた客も「そら言うてやらにゃあかんわ、言うたり、言うたり!」とけしかける。誰がそのハンカチを置いたのか、周囲の客は固唾をのんで待ちかまえている風情であった。開演十分前、とうとうハンカチを置いた女性客Cがやってきた。BはCを見るなり、「なんや、あんたか?」と叫んで絶句した。開いた口がふさがらない。Cは平然と応える。「なんや?どうしたん?」B(気を取りなおしながら)「・・・どうしたも、こうしたもあらへん。あんたのために席とっといたろ思うて、荷物置いといたんや。誰かがハンカチ置いて、その荷物ずらしてあったさかい、文句言うたろ、と思うていたんや」Cは笑いもせず「わてや、わてや。バタバタしなはんな・・・。わてのハンカチぐらいようおぼえとき!」Bは、拍子抜けして座席に座り込んでしまった。Cは、再び平然と(Bとは席を一つ空けて)座る。その様子を見ていた、Aの笑いが止まらない。二人を取りなしながら、「せっかく取っておいた席や、隣同士、仲良く座ったらええやないの」その後、すぐに開演となったが、BとCは隣の席を一つ空けたまま、一言も言葉を交わすことなく舞台に見入ることになった。その昔(昭和二十年代)、東京に隆の家栄龍・万龍(母・娘)という女性漫才師がいたが、BもCもその万龍(男勝り)の風貌を彷彿とさせる様子で、時ならぬ「観客の漫才」(BとCが姉妹であったか、従姉妹であったか、いずれにせよ親族に間違いないと私は勝手に断定する)を私は十分に楽しむことができたのであった。

 「観客」の芝居は「席の取り合い」にかかわるとは限らない。役者以上の「変化」(へんげ)をとげる場合もあるのである。

 同じ「常打ち」小屋、ネコの額ほどのロビーでは、常連客がたばこを吸いながら、御贔屓劇団の動静を話し合っていた。中に一人、気の弱そうな青年が言葉を挿もうとする。「あの、あの、あのな・・・。そ、そ、そ、それでね・・・」なかなか、次の言葉が出てこない。しかし、常連客は、その青年の話し方を全く気にせず、団らんの輪の中に迎え入れていた。以後、芝居が始まり、終わって幕間となった。再び、私がロビーでたばこを吸っていると、件の青年が満面に笑みを浮かべて飛び込んできた。「すげえよなあ。この座長は、うまい。いい芝居するよ。はじめて見たけど、すげえ、すげえ・・・。今度、○○座だって。オレ追っかけるかもよ!」私は驚嘆した。さきほどの「連発型吃症状」は、見事に消失していたのである。常連客は、ここでも「何事もなかったように」青年の言葉を迎え入れる。「追っかける劇団がぎょうさんあって、忙しくなるわな、ええこっちゃ・・・」ちなみに、青年が「すげえ」と絶賛した座長とは「南條光貴劇団」・南條光貴であった。二十一世紀の大衆演劇は「功利を求めて汚れてしまった私たちの『心』を浄化し、助け合って生きる「元気」と『喜び』をもらうために見る」典型的な一例であった、と私は思う。

 東京近郊の「健康センター」併設の劇場、開演一時間前に、七十歳とおぼしき男性客が一人で入ってきた。桟敷に座布団、客はまばらである。「ええと・・・。どこに座ってもいいのかな?おねえさん(劇場従業員)、芝居見たいんだけど、どこに座ってもいの?」従業員が応じる。「座布団の上に荷物がなければ、どこでもいいですよ」「ああ、そう。じゃあ、どこがいいかな・・・」と言いながら、あちこちと見やすそうな席を物色している。見かねた常連客(女性・七十歳代)がアドバイスした。「そこが見やすいわよ、そこにしたら?」「ああ、そう・・・。ここが見やすいの。じゃあ、ここにしよう」と言って男性客は荷物を置き、常連客に話しかける。「ありがと、おかあさん(常連客)。よく見やすい席、知ってるねえ。いつも来てんの?そうか、わかった、おかあさん、ひょっとすると『おっかけ』だろ。そうだ、そうだ、『おっかけ』にちがいねえや」常連客は、「はばかりさま、大きなお世話!」という風体でそれには応じなかった。しかし、男性客の言動は止まらない。あたりをキョロキョロ見回すと、再び従業員の所に行って、なにやら尋ねている。「初めてなんで・・・」という言葉の後は不明であったが、従業員の応答でその内容が私にはわかった。「お芝居の時はだめです。舞踊ショーになったら、役者さんが近くに来ますので、その時にあげてください」役者に御祝儀をプレゼントするタイミングを尋ねたのである。席に戻った後も、男性客は続々と詰めかける観客を相手に大きな声で話しかける。「オレは芝居が好きなんだよ。一度、こういうところで見てみたくてね。楽しみにしてきたんだ」客席は「大入り」となったが、開演直前まで男性客の声は聞こえていた。(うるさい客が雰囲気を壊さなければよいのだが・・・)と、誰もが感じていたに違いない。だがしかし、である。開幕と同時に、男性客の(耳障りな)声はピタリと止まった。「オレは芝居が好きなんだよ」という言葉は真実だったのである。大勢の観客の中に同化し、誰もが男性客の存在を忘れて、芝居は終わった。さて、いよいよ舞踊ショーの始まりである。(はたして件の男性客は御祝儀をプレゼントできるだろうか)「大入り」の客席は、熱気に包まれ、身動きできない状態の中、番組は次々と進行し、とうとう総座長(「劇団美鳳・紫鳳友也)の登場となった。(この雰囲気の中で初めての客が「花を付ける」ことは無理だろう)と私は思っていた。だがしかし、である。総座長が客席に降り、男性客の席に近づいたとき、周囲の客に「押し出されるように」して、彼自身は(スポットライトを浴びながら)役者の前に進み出ていたのである。ふるえがちな手で、しわくちゃの一万円札を総座長の懐に押し込むと、求められた握手も振り払い、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに席に戻る。周囲の拍手喝采が一段と高まった。
 私は、この男性客の積極的な「コミュニケーション能力」、「行動力」に敬服する。初めての場所で、初めての人たちを相手に、「初志貫徹」した、彼の「実践力」こそ「大衆演劇」を支える「大衆のエネルギー(源泉)」そのものではないだろうか。
 
以下もまた、東京近郊の健康ランドに併設する劇場での二コマ、観客たちの「役者は揃っている」。

 海坊主のような風采の男性客(七0歳代)が、血相を変えて、桟敷席の従業員に問いかけて来た。「財布、落ちていなかったか!?」、従業員、あわてて「どこに、お座りでしたか?」男性客「そこだよ、そこ、そこ!」従業員、辺りの座布団をはねのけ、必死に探したが見つからない。「ありませんねえ・・・。他の者に聞いてみますから、少しお待ち下さい」男性客、しばらくその場に立ちつくしていたが、顔面蒼白、身体が小刻みに震わせて、どこかへ行ってしまった。見かねた周囲の客が、別の従業員に助言する。「早く、フロントに連絡した方がいいよ」「はい、今、行ったと思います」「バカ、あんたが行くんだよ!客の財布が無くなったんだ。責任があるとは思わんのか?」重苦しい雰囲気の中、「ここで無くなったんだから、みんなの持ち物を調べればいい」などという声も聞かれる。私も一瞬、不安になりロッカー室まで自分の持ち物を調べに行った。なるほど、「現金・貴金属等の貴重品は必ずフロントにお預け下さい」という張紙がしてある。フロントに預けない限り、泣き寝入りする他はないということか。妙に納得した私は、自分の財布をたしかめ、再び桟敷席に戻ろうとすると、入り口で件の男性(海坊主)が、しきりに自分の外套(皮ジャン)を調べている。それを手に持って二、三度降ったとき、ポトリと黒い物が落ちた。「あった!あった!あった!・・・。やあ、皆さんすまねえ!あったよ、あった。あーあ、助かったあ・・・」その場の一同、「ああ、よかったねえ・・・。あったの?」これにて、一件落着。昼の部終演後、ほとんど客の居なくなった桟敷席で、件の男性(海坊主)、気持ちよさそうにカラオケ二曲披露して帰って行った。

 夜の部開演十分前、私はロビーの椅子に座ってテレビを観ていた。そこへ、一人の老女がやって来た。「あのね。タイショウは何年?」私「・・・?、タイショウ?」老女「そう、タイショウ。タイショウは何年までだっけ?」私「ああ大正ね。大正は十五年までです」老女「ふうん、あそうか十五年までね。あたしは八年生まれなんだけど、今年であたしはいくつになんの?」とまどう私「え?・・・ちょっと待ってくださいよ。今計算しますから。えーと、大正十五年が昭和元年だから、昭和元年は七歳・・・昭和は六十四年で七十歳、今年は平成二十年だから・・・ざっと九十歳かな?、たぶん、はっきりしないけど九十歳前後だと思いますよ」老女「え?何?」しどろもどろの私「だいたい九十くらいだと思います」老女「何?、九十・・・?」私「ええ、まあ、だいたい九十くらいじゃあないですか?」老女、一瞬びっくり、そして顔をほころばせながら「そーう、九十なの?、そうか、九十ね・・・」感心したようにつぶやく。「あたし、もう九十なんだ。はじめてわかったよ。ずいぶん永く生きたもんだ。この年になると数えることもできないや・・・。もうダメだね。じゃあ、もういつ逝ってもいいてことだ・・・」何かをやり終えたという満足げな表情、どこか浮き浮きとして、また何か話しかけようとした。そこへ、孫娘とおぼしき女性客「おばあちゃん、何話してるの?」老女、うるさいやつが来たという風情で、いたずらっぽく私に、めくばせする。孫娘「誰にでも話しかけるんだから、御迷惑よ・・・」そして、私に「どうも、すみません」と会釈した。恐縮する私「いえ、どういたしまして・・・」孫娘にコートを着せられ、もとの表情に戻った老女は、何事もなかったように帰路についていた。

私自身もまた「知らず知らずのうちに」相手役をつとめる結果となってしまった。

大衆演劇の「大衆」(観客)は、時として「鑑賞者」から「批評家」に変身する。
前述した東京近郊の「健康センター」、出演劇団は「新演美座」であった。劇団紹介のパンフには「プロフィル・東京大衆演劇協会所属。前身である「演美座」は東京を中心に絶大なる人気を誇った劇団。平成十五年一月に劇団名を「新演美座」と改め、座長・旗丈司と二代目座長・小林志津華を中心に活動。その斬新かつ派手な舞台は大衆演劇界に新たな波を巻き起こしている」「二代目座長 小林志津華・昭和五十八年五月二日生まれ。大阪府出身。血液型O型。十四歳で初舞台を踏み、その後「樋口劇団」より「新演美座」に移籍。二代目小林志津華として芝居・舞踊の演出を手掛ける。斬新かつ衝撃的なその舞台は「大衆演劇の革命児」とも呼ばれ、今や関東の大衆演劇には欠かせない役者である」とある。また「老舗の伝統を重んじながら、常に新たな実験・挑戦を試み続ける劇団。涼やかな面差しに、野心あふれるエネルギーを秘めた二代目小林志津華と、それを大いなる懐で受けとめる座長・旗丈司。先代の名優・深水志津夫(故人)の愛娘、深水つかさらの活躍も見逃せない」という説明もあった。
 芝居の外題は「ちゃんばら流し」。一家の代貸し(旗丈司)が親分(金井保夫)の姐さんと「間男」して、親分を追い出す。その時、一太刀浴びせたが、とどめを刺さずに逃げられた。親分は必ず復讐に来るだろう。代貸しは、そのことを思うと夜もおちおち眠れない。子分に親分の居所を探らせると、戻り橋の下に林立する小屋に潜んでいることが分かった。子分に「殺(や)ってこい」と命令するが、尻込みする。これまでの親分に手向かうことは良心がとがめるのだ。代貸しは「それもそうだな、じゃあ、おれが行こう」と出かけようとしたとき、一家にわらじを脱いでいる旅鴉(小林志津華)登場。「一宿一飯の恩義、あっしに任せてください」と言って、小屋に向かう。旅鴉は、手負いの親分を見つけ出し、一太刀浴びせた。とどめを刺そうとしたとき、どこからともなく聞こえる法華太鼓、良心がとがめて首を落とせない。そこへ親分腹心の子分(女優・春野すみれ?)がやってきた。あわてて隠れる旅鴉。子分は動転する。「親分!どうしなすった!?」「代貸しが雇った旅鴉にやられた」、「チクショー」、子分があたりを見回すと、あっさり見つかる旅鴉、「おまえか、親分を斬ったのは!?」、「そうだ。渡世の義理だ。文句があるか!」「ゆるせねえ!叩っ斬ってやる」たちまち始まる立ち回り。しかし、意外にも旅鴉は弱い、すぐに刀を墜としてしまった。(戦意喪失、初めから負ける気で立ち合ったのだろう)子分があっけにとられていると、「あの代貸しは悪党だ、あっしに助っ人させてください」と言う。かくて、めでたく「敵討ち」となる筋書きだが、この芝居に、なんと二時間あまり延々と「付き合わされた」観客の反応が面白かった。いつも来ている常連の客は、顔をしかめて「もう八時すぎてるよ、やんなっちゃう。いつまでやる気かしら」と怒り出す。もう一人が「惹きつけるものがまるでない」と吐き捨てる。芝居の中に「楽屋話」(役者の私情)「世情のニュース」をアドリブで取り入れることは、大衆演劇の常道である。いわゆる「型やぶり」の演出だが、その効果があるのは「型」八分、「やぶり」二分くらいの割合を守る時だろう。今日の舞台は、その反対で「型」二分、「やぶり」八分という状態であった。つまり、通常は一時間で終わる内容の芝居を、「型破り」の演出で、倍以上に「水増し」したことになる。常連客の反感を買うという、気の毒な結果になってしまった。「常に新たな実験・挑戦を試み続ける劇団。野心あふれるエネルギーを秘めた二代目小林志津華と、それを大いなる懐で受け止める座長・旗丈司」という説明は、まさにその通りだが、「実験」「挑戦」「野心」が「型やぶり」に集中しすぎると、舞台の景色は混乱してしまう。この芝居の眼目(主題)は、登場人物が「良心の呵責」を感じることであり、その心情表現が「惹きつけるもの」になるのだが、演出者は「型やぶり」イコール「惹きつけるもの」だと誤解してしまったのではないだろうか。
「新演美座」には、旗丈司、金井保夫という「実力者」が揃っている。かつての「新国劇」、辰巳柳太郎、島田正吾のような「二枚看板」をめざし、小林志津華を緒方拳のように育てられれば、大衆演劇界の「革命」も夢ではない。
 舞踊ショーのラストで演じた「役者音頭」は、「梅澤武生劇団」の十八番であり、懐かしかった。「踊り手」を「上手」に選抜した演出は見事であった。

 その感想を私は劇団に送り、裏を返す。その結果は以下の通りであった。
芝居「百両首」(旗丈司主演)の様子は一変していた。まず、旗丈司はワイヤレスマイクを使用していない。前半は、金井保夫、春野すみれ、芸名不詳の女優(男役)ら「実力者」で舞台を引き締めたので、客席は「水を打ったように」集中した。敵役の金井保夫が「おれとおまえは兄弟分、おまえが勝手に堅気になろうたって、そうはいかねえ。どこまでも、つきまとってやるからな・・・」と憎々しげに旗丈司(主役)に言うと、客席から「つきまとうな!」と、女性客の黄色い声がとんだ。それに対して「うるさい!静かにしろ」と、男性客がたしなめる。舞台と客席が一つになって芝居を盛り上げる。まさに大衆演劇の醍醐味を味わうことができたのである。「やればできるじゃないか」、旗と金井の「二枚看板」、それを「売り」にしていく他はないのだから・・・と、私は思っていた。二代目座長・小林志津華も「型どおり」の演技に終始し、舞台を混乱させることはなかった。舞踊ショーも「水準」を維持して「型どおり」に進行、旗丈司には三十万円、金井保夫には十万円の花(祝儀)が付いた。明日が千秋楽とあってラストショーの後、主な役者が舞台に勢揃い、一人ずつ「あいさつ」を述べた。その中でわかったこと、①旗丈司は今日、還暦をむかえたこと、②小林志津華は「劇団武る」(座長・三条すすむ)の指導・正次郎(?)実子であること、③司京太郎は豪華な衣装を持っていること、④澤村千代丸は先代(現・紀伊国屋章太郎)の実子であること、④各劇団は一時期「舞踊ショー」を重要視したが、徐々に「芝居重視」に変わりつつあること、⑤新演美座は三月、川崎大島劇場で公演するが、集客能力(常時五十人以上)には自信があること、⑥立川大衆劇場では自信がないこと、等々だが、例によって「間延び」した小林志津華の(型破りの)司会が災いし、なんと閉幕は九時五十分、すんでのところで最終送迎バスに乗り遅れるところであった。(過日、怒って中座した)いつもの常連客の姿が(今日もまた)なかったことに気づいているだろうか。

という具合で、「観客」の「批評」は、すぐさま「劇団」に影響する。まさに「お客様は神様」なのである。
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《付録》・「大衆演劇雑考」・Ⅰ・大衆演劇の「見方」

2013-11-16 18:31:34 | 付録
私が初めて「大衆演劇」を観たのは、昭和46年(1972年)8月、今から36年前の夏であった。場所は東京・足立区千住の「寿劇場」、出演者は「若葉しげる劇団」だったと記憶している。入場料は100円程度、観客は土地の老人がほとんどで、人数も十数人、思い思いの場所に座布団を敷き、中には寝ながら観ている人もいた。芝居の最中に、役者が舞台から降りてきて、団扇をぱたぱたさせながら「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくる場面もあった。それまで、大劇場の歌舞伎、新国劇、新派、新劇などは観たことがあったが、こんなにひっそりと「わびしい」雰囲気の中で演じられる芝居を観たことは初めてであった。しかし、その「わびしさ」に何ともいえない魅力を感じ、以来、断続的ではあるが「大衆演劇」に親しんできた次第である。
当時の役者で思い出すのは、若葉しげる、若葉弘太郎、若葉みのる(現在・若葉愛)、深水志津夫、旗丈司、松川友司郎、五月直次郎、金井保、金井保夫、辻野光男、辻野耕輔、東千之介、板東多喜之助、長谷川正次郎、若水照代、梅澤武生、梅澤智也、梅澤修、梅澤冨美男、竹澤竜千代、竹澤隆子、長島雄次、市川吉丸、河野英治といった面々であった。梅澤冨美男は、テレビ出演(「淋しいのはお前だけじゃあない」共演・西田敏行、矢崎滋、木の実ナナ、萬田久子・TBS)をきっかけに「下町の玉三郎」として、一躍脚光を浴びるようになったが、私はそれ以前の「わびしい」舞台姿を知っている。「さぶと市捕物控」の演目で、兄・梅澤武生の「市」を相手に、「さぶ」役を懸命に演じていた姿が忘れられない。総じて「梅澤武生劇団」は、役者相互の「呼吸」、「間」がぴったり合っていて面白く、「笑わせる芝居」に長じていたと思う。富美男はまた、楽器演奏、歌唱に秀でていた。ギター、ドラムなどの「音色」は他の役者とはひと味もふた味も違っていて「聴かせる」技を身につけていた。後年、「夢芝居」「演歌みたいな別れでも」(作詞・作曲 小椋桂)で歌手デビューしたが、いわゆる「ナツメロ」を持ち歌歌手以上に「唄いこなす」歌唱力も見事であった。
以下は、当時、「大衆演劇の見方」について私がしたためた雑文である。

【大衆演劇の見方】
 通常の場合、大衆演劇のプログラムは4部で構成されている。第1部・時代人情劇「兄と妹」、第2部・花の歌謡ショー、第3部・時代任侠剣劇「大利根無情」、第4部・豪華絢爛舞踊ショーなどというように・・・。なぜ4部で構成されているか。それにはそれなりの理由があるのである。
 第1部は「前狂言」と呼ばれる。まず副座長クラスの役者が主役となり、1時間程度の芝居を見せる。このとき、劇団は今日の客の入り具合、客層、反応の様子などを注意深く観察するのである。前狂言は、若手役者の演技の修業の場でもある。演技の修業は衣装の着付け、化粧の仕方からはじまるが、ここでは身につけて舞台に出ることが修業なのである。セリフを言うことはほとんどない。先輩の役者の後について、どこに立てばいいか、どこを見ればいいか、どんな動作をすればいいかなど、文字通り「見よう見まね」で学ぶのである。
第2部は、劇団員が楽団員に早変わりし、役者が歌手に変身して1人1曲ずつ流行歌を歌うのである。この楽団の演奏は、多くの場合チンドン屋程度の内容であり、客席前列では耳が痛くなるほど騒がしい。歌の方もやたらとマイクのエコーを聞かせるので、歌詞が聞き取れないことが多い。しかし、それはそれでよいのである。歌謡ショーは、役者が芸域を広げようとして、「音楽」(?)の修業をしている場だからである。噺家が踊りや邦楽の稽古をするのに似ている。役者によっては、芝居よりも歌の方が上手な者もおり、贔屓筋からは御祝儀がもらえるので、絶好の活躍の場ともなっている。売れない演歌歌手がキャバレー回りの合間にアルバイトをしている場合もあるくらいである。俗に「歌は三分間のドラマである」と言われているが、ともかくも劇団員は自分一人のためにこの数分間をもらって、自分を売る出すことができるのである。ちなみに、劇団の座長になるためには、この歌謡ショーで実力を発揮できなければならない。楽器の演奏でもよい。歌でもよい。座長一人で観客を魅了することが不可欠になる。
 第3部は「キリ狂言」と呼ばれる。劇団の座長が主役となって行う本格的な芝居であり、その日の極め付きが演じられる。内容は、歌舞伎、新派、新国劇、現代劇ありというように多種多様である。要するに、大衆が安い料金で大劇場もどきの芝居が見られれば何でもよいのである。芝居に台本はないので、セリフはすべてアドリブである。劇団や役者によっては、独特の「決まり文句」をもっている。曰く「日にち毎日」、曰く「・・・をば・・・」、曰く「俺の話をよおーっくきけよーっ」、曰く「知らなんだ、知らなんだ、知らなんだ・・・」、時には「ソコントコ、ヨロシク」「シバズケ タベタイ」などという流行語が入ることもある。共通していることは「ない」という言葉を「ありゃあしない」というように長く伸ばして言うことである。いずれにせよ、役者にとってこのセリフ回しは重要であり、極端に言えば大衆演劇の芝居はこのセリフ回しによってのみ展開するといっても過言ではない。したがって、喋ることができない役者は一人前ではないのである。
第4部は舞踊ショーである。これは、寄席などで噺家が噺の後に演じる余興のように思われがちだが、そうではない。役者一人一人が流行歌にのせて踊ることにより、文字通り「三分間のドラマ」を、しかも「独り舞台」で演じることになる。大切なことは、舞踊ショーを単なる「舞踊」と間違えてはならないことである。劇団では「創作舞踊」と称しているが、ここでの踊りはナントカ流と名の付いた上品なものではない。まさに大衆演劇の真髄というべきものであり、役者の芸の見せ所なのである。踊りの曲にはほとんど泥臭い「演歌」が使われているが、聞くだけでは取るに足らないと思われている流行歌でも、実力のある役者の踊りに使われると、たちまち名曲に変身してしまうほどである。大衆演劇の愛好家はこの舞踊ショーを最も重要視しているが、それは役者の踊りを見ながら、この「演歌」の変身を期待しているためである。役者はこの「独り舞台」によって、時には入場料の何十倍の御祝儀をもらうことができる。しかもその機会は誰にも平等に保証されているのである。
 これまで、大衆演劇のプログラムについて述べてきたが、以上を踏まえてその「見方」を箇条書的に挙げてみたい・
1 大衆演劇は「もどき」(本物らしさ)を楽しむために見る。
大衆演劇は低料金で見られるところに特徴がある。したがって本物を求めてはならない。芝居にせよ、歌にせよ、踊りにせよ、すべて本物「らしく」見せるところに真髄がある。客は本物のようで実はそうではなく、かといって全くの偽物でもないような「もどき」の世界を楽しむのである。
2 大衆演劇は、日常の生活で生じた「疲れ」を取り去るために見る。
 プログラムは3時間以上に及ぶものであるから、集中して見ることは禁物である。むしろ桟敷に横になって、居眠りをしながら見る方がよい。コップ酒や缶ビールを飲みながら見るのもよい。いずれにせよ、あまり夢中になってみるものではないから、前の客の頭が邪魔だとか、贔屓筋の嬌声がうるさいとか、あまり気にかけないことである。
3 座席は、前列の方ではみない。
歌謡ショーの音量がかなり大きいので、耳を痛めるおそれがある。長時間舞台を見上げていると、首が痛くなるのは通常の劇場でも同じである。
4 芝居の筋書きにはこだわらないで見る。
芝居に台本はなく、ほとんどがアドリブで展開するので、時には何が何だかわからなくなってしまう場合がある。極端な場合には、登場人物の名前が変わってしまうこともあるので、あまり細かいことを詮索しないで見ることが大切である。
5 役者の名前を早く覚え、役者同士の人間関係を知る。
 劇団員は、役者になったり、照明係になったり、楽団員になったり、歌手になったり、踊り手になったり、一人で何役もこなすのでぼんやり見ていると別人のように錯覚することがある。一人の人間が様々に変身することが「もどき」であり、そこに大衆演劇の真髄があるのだから、何という役者が今何をしているかを正確に把握しておかなければならない。また、今登場している役者同士が、実際は夫婦であるのか、兄弟であるのか、親子であるのかといった人間関係を知ることも大切である。「いつまで遊び回っているんだい!この宿六!」といったセリフが実際の夫婦同士の役者間で交わされるからこそ、大衆演劇は面白いのである。役者同士がどのような人間関係かを知ることは簡単である。芝居を見ないで交わしている客同士の会話を盗み聞きすればよい。大衆演劇の愛好家は、役者の地縁、血縁はもとより、命日、病名まで知っているものである。

以後、里見要次郎、澤村千代丸、「ちび玉三兄弟」(若葉しげるの孫・若葉紫、若葉市之丞、若葉竜也)などの舞台に親しんだが、約20年間、私の関心は「大衆演劇」から遠のいていた。
 近年、「低俗化」「醜悪化」「荒廃化」の一途をたどる「テレビ文化」には見切りをつけ、再び「大衆演劇」を見はじめるようになった。その第一印象は、まさに「隔世の感がある」ということであろうか。
この20年間で、「大衆演劇」はずいぶんと様変わりした。まず第一に「劇場」の数が激増したことである。それまでの、いわゆる(常打ち)「芝居小屋」31箇所に加えて、温泉旅館・スーパー銭湯、レジャー施設などに併設される「劇場」は、北は青森、南は熊本まで全国各地に(不定期公演を含めると)126箇所も点在している。当然のことだが、「劇団」の数も130余りに増えたことになる。第二は、プログラムの変化である。「前狂言」「歌謡ショー」は姿を消し、ほとんどの劇団が「ミニショー」(顔見せ)、「芝居」「口上」「舞踊ショー」という構成にしている。その結果、役者の歌唱、楽器演奏は極端に縮小された。第三は、照明、煙幕など効果技術の向上である。それまでは客席後方からの「投光」、舞台天井からの「紙吹雪」程度であったものが、今ではハイテク機器を活用した背面画像、ミラーボール、点滅機器を活用した、色彩豊かな照明効果で舞台を盛り上げている。第四は、ワイヤレスマイクの活用である。どんなに小さな芝居小屋でも、役者のほとんどが自分用のワイヤレスマイクを装用している。その結果、「セリフが聞こえない」ということは無くなったが、どんな役者のどんなセリフも同じスピーカーから聞こえてくるので、「音の距離感」「方向性」が単調になり、テレビを観ているような錯覚に陥ることがある。第五は「客層」の変化である。圧倒的に女性が多い。幕間のトイレで男性用は閑散としているのに、女性用はつねに「行列」ができている。第六は「御祝儀」の提供方法である。贔屓の役者に「花を付ける」などと称して、万札を「飾り付ける」方法が流行している。従来は、いわゆる「おひねり」として客席から舞台に投げ込む方法が主流であったが・・・。
 とはいえ、かつての「大衆演劇」の真髄は健在であった。この半年間、私が観劇した劇場、劇団は以下のとおりである。
 東京篠原演芸場  都若丸劇団、市川千太郎劇団、姫京之助劇団、澤村章太郎劇団、           小泉たつみ劇団、津川竜劇団
東京浅草木馬館  劇団春陽座(澤村新吾)、近江飛龍劇団
東京浅草大勝館  小林劇団(小林真)
横浜三吉演芸場  恋川純弥劇団、橘劇団(橘菊太郎)
川崎大島劇場  龍千明劇団、劇団荒城 
立川大衆劇場 南條駒三郎劇団、劇団扇也(三河家扇弥) 
青森健康ランド 梅乃井秀男劇団
柏みのりの湯  劇団美鳳(林京助)、風見涼太郎劇団、春川ふじお劇団、鹿島順一劇
団、橘小竜丸劇団
 佐倉湯ぱらだいす 葵好太郎劇団、見海堂駿劇団、市川英儒劇団
川越湯遊ランド 劇団松(桂木祐司) 
大宮ゆの郷 若葉劇団(若葉しげる)
小岩湯宴ランド 中野弘次郎劇団、司京太郎劇団
名古屋鈴蘭南座 南條隆劇団(スーパー兄弟)
大阪浪速クラブ 劇団花吹雪
大阪鈴成座 南條光貴劇団
大阪梅南座 澤村謙之介劇団
奈良大和座 (小林劇団)
 私が観劇した劇場は17、劇団は32であり、全国的規模から見れば、劇場14%、劇団25%程度に過ぎない。正に「百花繚乱」、今や「大衆演劇の隆盛ここに極まれり」というところだが、現実はそれほど甘くないように感じる。大半の劇場が、観客数30人前後で推移しており、昭和47年(1972年)当時の「わびしさ」は健在であった。劇団の方々には失礼かも知れないが、「それでよいのだ」と私は思う。時には10人程度の観客であっても、決して「手を抜かず」懸命に、誠実に舞台を務め続けている劇団員に、私は心から拍手を送りたい。視聴率稼ぎのために「低俗化」「醜悪化」「荒廃化」したテレビ芸人、高価な入場料を取って未熟な芸を晒している大劇場の役者に比べれば、「雲泥の差」「天と地の違い」があるのである。各劇団、座長クラスの芸は「天下一品」であり、それらを結集すれば「演劇界」最高峰の芝居を創り出せると私は確信する。  
大衆演劇の真髄である「もどき」の伝統は確実に継承され、その至芸は質素な舞台のあちこちに、華麗な花を咲かせている。各劇団では、親から子、子から孫の世代に移り変わり、親は「太夫元」、子は「座長」、孫は「花形」として、芸道に励んでいる姿は、見る人の心を打たずにはいられない。舞台技術の進歩と同様に、各劇団の演技力、芸風も着実に向上していると、私には思われた。
 30年前、<大衆演劇は、日常生活の中で生じた「疲れ」を取り去るために見る>と書いたが、21世紀の大衆演劇は<功利を求めて汚れてしまった私たちの「心」を浄化し、助け合って生きる「元気」と「喜び」をもらうために見る>と言った方がよいかもしれない。
 この章の終わりに、大衆演劇をさらに充実・発展させるため、いくつかの提言をしたい。
1 音響効果に留意する。
ハイテク機器の活用により、照明効果の技術は格段に進歩したが、「音響効果」にはきめ細かな配慮が必要である。【大衆演劇の見方】では<歌謡ショーの音量がかなり大きいので、耳を痛めるおそれがある>と書いたが、その問題は今も解決されていない。特に、ワイヤレスマイクを装用して、セリフの「声を張り上げる」ことは禁物である。音の大きさには「快適レベル」というものがあり、それを超えると「不快」「痛覚レベル」になってしまう。スピーカーの位置との関係でハウリングが起き、せっかくの「芝居」を台無しにするおそれもある。そんな時、近江飛龍劇団は役者の肉声だけで芝居を展開していた(東京・十条篠原演芸場)が、その努力を賞賛したい。
 また、舞踊ショーにおける「音楽」も、総じて音量が大きすぎる。舞台の雰囲気を盛り上げるために、ある程度の音量(80~90デシベル程度)は必要だが、それ以上になると「音色」の美しさは喪失し、リズムだけが強調されてしまうことを銘記すべきである。
設置されているスピーカーの性能(音量の許容範囲)を考慮して、つねに「快適レベル」の大きさを追求する努力が必要である。そのためには、客席でのモニターが不可欠であり、後方から投光する照明係との連携を密にすることが大切である。
2 舞踊ショーは、同時に「歌謡ショー」でもある。
 「歌謡ショー」が消滅し、役者の歌唱、楽器演奏は極端に縮小した。(小林劇団の太鼓ショー、リーダー小林真弓の歌謡ショー、近江飛龍の笛、小泉たつみ劇団三味線ショー、恋川純の津軽三味線、鹿島順一の歌謡ショーなどは珠玉の舞台として、私の心に刻まれているとはいえ・・・。)【大衆演劇の見方】で述べたように、<踊りの曲にはほとんど泥臭い「演歌」が使われているが、聞くだけでは取るに足らないと思われている流行歌でも、実力のある役者の踊りに使われると、たちまち名曲に変身してしまうほどである。大衆演劇の愛好家はこの舞踊ショーを最も重要視しているが、それは役者の踊りを見ながら、この「演歌」の変身を期待しているためである>。つまり、各劇団は、「舞踊ショー」を演じながら、それを同時に「歌謡ショー」に変身させてしまえばよいのである。役者は歌わなくてよい。踊ることによって、流行歌手の「歌唱」を「自家薬籠中の物」にしてしまうしたたかさを期待する。現在、「組舞踊」として、歌謡浪曲、端唄、新内などを取り入れた演目がないわけではない。「美空ひばりショー」「五木ひろしショー」「三波春男ショー」のような演出もある。しかし、役者の個性・長所を生かすためには、「舞踊ショー」全体を、現代の「流行歌大全」という形として表現するような演出が試みられてもよいのではないか。言い換えれば、舞踊に適した曲よりも、現在ヒットしている「流行歌」(ポップス、ジャズ、フォーク、カントリー、クラシックなど、ありとあらゆるジャンルを含む)を中心に「舞踊ショー」を構成するのである。観客は「舞踊」を通して「音楽」を聞く、その流れの中には「現代」「庶民」「心」といったテーマが一貫している、そのような「舞踊ショー」を私は観てみたい。
3 観客に媚びない。
 テレビの「視聴率」が、その番組の「質」に比例しないのと同様に、その劇団の「集客能力」と「実力」は比例しない。連日の「大入り」は「人気」のバロメーターであるには違いない。しかし「大入り」を目指して、修業を怠ればすぐに飽きられてしまう。大切なことは、大勢の観客を喜ばせるよりも、「お寒い中、お足元の悪い中、そして数ある娯楽施設のある中、当劇場に御来場下さいましたお客様」を「感動」させることである。大衆演劇の観客は、ただ単に「芝居」や「踊り」を観に行くのではない。「役者に会う」ために通っているのである。言い換えれば、役者とのコミュニケーションを求めるために行くのである。役者が舞台から降りてきて「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくるところに、大衆演劇の真髄があるのだから、観客にとって役者は「他人とは思えない」のである。したがって、観客は、今日の「入り」の状況を役者以上に心配している。そんな時、「客の入り」など歯牙にもかけず、淡々と「いつものように」幕を開け、笑顔で演じとおせる劇団が、本当に「実力」のある劇団といえよう。たった8人の客を相手に、喜劇「もどき」の「権左と助中」を見事に演じた(佐倉・湯ぱらだいす)「見海堂駿劇団」を私は心から尊敬している。後日、同じ劇場、同じ劇団、観客は「大入り」であったが、舞台の「できばえ」は、その時に及ばなかった。「大衆演劇」の「できばえ」は「一期一会」であり、観客との(無言の)コミュニケーション(阿吽の呼吸)に因るということの、恰好な一例といえる。それゆえ、各劇団は、「客の入り」が少なければ少ないほど、舞台に全力を投入しなければならないと、私は思う。
 観客とのコミュニケーションを図る上で「口上」は重要である。通常は「座長」「太夫元」「後見」など劇団の幹部が登場し、来場に対する「感謝」の言葉を述べ、翌日の演目を披露したり、劇団の内幕、心情をを吐露したりする。観客は「口上」を通して、劇団とのコミュニケーションを深めることができるのである。「風見涼太郎劇団」の太夫元・風見翔蔵、「鹿島順一劇団」の座長・鹿島順一、見海堂駿劇団の座長・見海堂駿及び専務・コマト(子役)などの「口上」は絶品であった。                       4 「役者紹介」を確実に行い、劇団全員の「芸名」を観客に周知徹底する。      【大衆演劇の見方】で述べたとおり、観客は<役者の名前を早く覚え、役者同士の人間関係を知る>ことを求めている。「雪乃丞変化」という演目があるように、役者の真髄は「変化(へんげ)」にあるとすれば、誰がどんな役を演じているか容易に見分けられないのが常であろう。したがって、「芸名」は役者の「命」に他ならない。芝居の開演前に「○○(役名)一役演じます、○○○○(芸名)」と紹介する劇団、芝居に登場する際に「座長○○○○(芸名)」というように紹介する劇団もあるが、全く紹介しない劇団も多い。私自身、「あの役者は誰だったのか?」という疑問をかかえたまま終演になることも、しばしばであった。「舞踊ショー」の登場前に紹介のアナウンスがあっても、騒音に近い曲のイントロに重なって聞き取りにくいことが「実に多い」のである。劇場の表看板には、芸名が列記されているとはいえ、「顔と名前が一致しない」。「明日も観に来ればわかる」「役者に直接聞いてください、喜びます」と言われれば「おっしゃるとおり」ではあるのだが・・・。 

 以上、大衆演劇の愛好者としてはまだ「駆け出し」の未熟者が、僭越な提言をさせていただいた。まだ私の知らない劇場、劇団が8割以上あるので、今後、一つでも多くの観劇を果たし、「大衆演劇」の世界に浸ることを楽しみにしている。
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芝居「アヒルの子」・《「三年ぶり」の名舞台》(平成24年2月公演・大阪梅南座)

2013-11-04 08:14:53 | 付録

芝居の外題は「アヒルの子」。三代目鹿島順一が座長を襲名後、これまで劇団を支えてきた蛇々丸、春大吉といった名脇役が脱けたことによって、少なからず、その(国宝級の)「舞台模様」は変化せざるを得なかった。中でも「アヒルの子」には、蛇々丸の存在が欠かせない。当分の間、この演目は上演不可能ではないだろうか、などと私は勝手に思っていたのだが、とんでもない。今日の舞台を観て、あらためてこの劇団の「実力」を思い知った(二度惚れした)のである。ちなみに、私がこの演目を最後に観たのは、今からほぼ3年前(平成21年4月)、福島郡山(東洋健康センターえびす座)であった。以下は当時の感想である。〈芝居の外題は「アヒルの子」、社会人情喜劇と銘打った筋書で、登場人物は下請け会社員の夫婦(夫・鹿島順一、妻・春日舞子)と娘・君子(生田春美)、その家の間借り人夫婦(夫・蛇々丸、妻・春夏悠生)、電気点検に訪れる電電公社社員とおぼしき若者(鹿島虎順)、親会社の社長(花道あきら)という面々(配役)。この人たちが繰り広げる「ドタバタ騒動」が、なんとも「ほほえましく」「愛らしく」、そして「滑稽」なのである。以前の舞台では、娘・君子を三代目虎順、間借り人の妻を春大吉、電気点検の若者を金太郎が演じていたが、それはそれ、今度は今度というような具合で、本来の女役を生田春美、春夏悠生という「新人女優」が(懸命に)演じたことで、「より自然な」景色・風情を描出することができたのではないか、と私は思う。だが、何と言ってもこの芝居の魅力は、座長・鹿島順一と蛇々丸の「絡み」、温厚・お人好しを絵に描いたような会社員が、人一倍ヤキモチ焼きの間借り人に、妻の「不貞」を示唆される場面は「永久保存」に値する出来栄えであった。なかでも《およそ人間の子どもというものは、母親の胎内に宿ってより、十月十日の満ちくる潮ともろともに、オサンタイラノヒモトケテ、「オギャー」と生まれてくるのが、これすなわち人間の子ども、七月児(ナナツキゴ)は育っても八月児(ヤツキゴ)は育たーん!!》という「名文句」を絶叫する蛇々丸の風情は天下一品、抱腹絶倒間違いなしの「至芸」と言えよう。その他、間借り人の妻が追い出される場面、娘・君子が「おじちゃん!」といって帰宅する場面、社長の手紙を読み終わって夫(座長)が憤る場面等々、「絵になる情景」を挙げればきりがない。要するに眼目は「生みの親より育ての親」、きわめて単純な(何の代わり映えのしない)筋書なのに、これほどまでに見事な舞台を作り出せるのは、役者それぞれの「演技力」「チームワーク」の賜物というほかはない。その「演技力」の源が、座長・鹿島順一の生育史にあることは当然至極、彼ほど「育ての親のありがたさ」を実感・肝銘している役者はいないかもしれない。加えて素晴らしいことは、蛇々丸を筆頭に座員の面々が(裏方、照明係にいたるまで)、座長の「演技力」に心酔、各自の「実力」として「吸収」「結実化」しつつあるという点であろう。ところで、件の名文句にあった「オサンタイラノヒモトケテ」とは、どのような意味だろうか、その謎もまた、この芝居の魅力なのだ・・・・〉。さて、今日の配役は、間借り人の夫が蛇々丸から三代目鹿島順一に、電電公社社員(今回は関西電力社員)の鹿島虎順が赤胴誠に、アヒルの子・君子が生田春美から幼紅葉に、それぞれ変わっていたが、結果はベスト、魅力も倍増して、前回・前々回よりも「数段上」の出来映えであった、と私は思う。蛇々丸の夫役は、どこかエキセントリック(偏執狂的)な風情が「売り」であったが、三代目鹿島順一は、あくまでオーソドックス、真っ向勝負の「ヤキモチ」風情が際だっていた。「新婚ホヤホヤ」なら当然といった(清純な)空気が漂い、それが、下請け会社員夫婦と社長の不穏な「しがらみ」を浄化する。蛇々丸は、役者としては「男盛り」の三十代、三代目鹿島順一はまだ二十歳の「若造」、タバコを(会社員・甲斐文太から)借りながら、(したたかに)2本耳に挟む仕種も、どこかぎこちなかったとはいえ、さればこそ、その初々しさが(私には)たまらなく魅力的であった。さらにまた、十八年間も夫をだまし続けた「おかあちゃん」役の春日舞子と「社長」役の花道あきらの(無言の)「絡み」は、一段と鮮やか、それにアヒルの子・君子の可憐さ、「おんどり」役・甲斐文太が醸し出す絶品のユーモアとペーソス、(頓狂な)電力会社員に扮した赤胴誠、(艶やかな)新妻役・春夏悠生の風情も添えられて、劇団員一人一人が、文字通り「適材適所」で描出する名舞台に仕上がっていた。お見事!、さて、お次は・・・、「春木の女」「噂の女」「命の賭け橋」「新橋情話」等々と、身勝手な期待を胸に抱きながら、帰路に就いた次第である。
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