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大衆演劇《鹿島順一劇団》見聞録

全国に140以上ある劇団の中で、私が最も愛好している「鹿島順一劇団」の見聞録です。

幕間閑話・《追悼》二葉あき子の歌唱力

2014-10-14 17:40:18 | 幕間閑話
二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かしし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカーチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004年5月15日)
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幕間閑話・「瞼の母」(浪曲)《競演》(百合子・冨士夫・秀子・羽衣・幸枝若&鹿島順一)

2014-10-12 08:42:49 | 幕間閑話

浪曲「瞼の母」を聞き比べる。口演は、①二葉百合子、②中村冨士夫、③伊丹秀子、④天津羽衣、⑤京山幸枝若の五人、①から④までは、いずれも30分前後、⑤は歌謡浪曲で5分程度の内容である。さて、その出来栄えは「いずれ菖蒲か杜若」、甲乙が点け難い。①と②は、脚色が室町京之助で、長谷川伸の原作を直截に踏襲している。二葉百合子は、瓦屋半次郎の家の場面から大詰めの荒川土手までの流れを、忠実に辿りながら、番場の忠太郎の「心象世界」を鮮やかに浮き彫りする。とりわけ、冒頭の歌謡「瞼とじれば会えてたものを せめてひと目と故郷をすてた あすはいずこへ飛ぶのやら 月の峠で アア おっ母さん 泣くは番場の忠太郎」から、料亭水熊の語り「こんな事なら夢のまま 瞼の母の面影を そっと抱きしめ人知れず 会ってりゃよかった故郷の 番場の宿にさえいたら
こんな憂き目は見まいもの 草鞋をはいたばっかりに 花のお江戸の柳橋 やっと会えたと思ったら ただいちどきに瞼から 母の姿が消えたとは 二十余年を一筋に 見てきた夢が無になった せめても一度あの時の 母よ来てくれ会いに来て ホロリ瞼で泣いてくれ」を経て、「一人 一人ぼっちと泣いたりするか 俺にゃいるんだ瞼の母が 孝行息子で手を引いて お連れしますぜ アア おっ母さん 旅のからすで あの世まで」という歌謡で締めくくられる風情は、まさに「一巻の絵巻物」である。極め付きは、冒頭と終末の「歌謡」であろう。その声、節回しは、誰にもまねできない「国宝」(無形文化財)級の代物である、と私は思う。続いて、中村冨士夫の作物、ほぼ内容は①と同じだが、冒頭は、番場の忠太郎の「仁義もどきのお目見え」から始まる(その中で「まだくちばしの青い身で」という件があったが、「嘴が黄色い」方が自然ではないだろうか、まあそんなことはどうでもいい)。瓦屋半次郎宅の場面は省略、料亭水熊の店先、忠太郎とおとら婆さんの絡みが初場面という演出だが、どうやら水熊の女将が自分の母親らしいと「確信」した後の「歌謡」が素晴らしかった。いわく「わずか五つのあの時に 別れて二十有余年 会いたい見たいと神かけて 祈り続けた母親と 年も名前もいっしょなら 生まれ在所もまた同じ どうか尋ねる母親で あってくれよと眼を閉じりゃ 母は恋しいなつかしい」。はやる忠太郎の気持ちが真に迫って描出される。演者は男とあって、いとも自然に忠太郎の風情が伝わってくるという按配で、とりわけ「おかみさん、とんだお邪魔でござんした。二度と再び忠太郎、お宅の軒はくぐりません。ごめんなせえっ」という「決め科白」が清々しかった。加えて大詰め、待乳山で待ち伏せた素盲・金五郎に向かって「・・・おうっと危ねえ、よせったら。畜生、じゃあ聞くがナ、てめえ、親がいるか」「そんなものァねえや」「兄弟は・・・」「いるもんけえ」「よし、じゃあ斬ってやらァ。なんだい、そんなへっぴり腰をしやがって・・・。それじゃァ人は斬れねんだ。斬るというのァ、こうやるんだっ」という「やりとり」の中に、アウトロー同士の荒んだ景色が仄見えて、やるせない。終末、「あとは静かな夜の闇 雲が流れた月が出た どこへ行くのか忠太郎、風に流転の三度笠」「ああ浅草の鐘が鳴る あれは竹屋の渡し船 影を姿を送るよに 声をじまんの船頭が 泣いているよな隅田川」という、寂寥感漂う中村冨士夫の語りの中には、まさにこの作物の眼目(愛別離苦)が、否応なしに結晶化されているのであった。続いて、③(伊丹秀子)は、荻原四朗の脚色、場面は料亭水熊のみ、筋書も長谷川伸の原作とは大きく異なり、瓦屋半次郎が水熊に「逃げ込んできた」という設定である。土地の親分、柳島の弥八が、一味と連れだって半次郎を追跡、「飯岡一家の若けぇ者を三人まで叩き斬ってずらかった野郎ダ。やくざの意地で生かしちゃおかねェ。だまってだしてもらいてェんだ・・・」と水熊の女将・お浜に迫るところから話は始まる。お浜は体よく弥八を追い返し、娘・お豊と共に半次郎をもてなすといった按配で、ややもすれば、お豊と半次郎の間にに「常ならぬ空気」が漂う景色を描出する。伊丹秀子、詠っていわく「お豊が先に顔だせば 見張りの者の影はなく 夜空に冴える神無月 水懐に映るのみ 後振り向いてうなづけば まわし合羽の半次郎 招きに応え木戸口へ 別れともない霧の夜」。匿っていた半次郎をお豊が逃がす場面だが、この《別れともない》という一言が、いかにも面妖で興味深かった。以後は定番通り、婆と忠太郎、忠太郎とお浜の「絡み」へと進んで行くが、この作物の特長は、登場人物が多いこと、前出の柳島弥八、お浜、半次郎、お豊に、銭を乞う老婆、忠太郎、水熊出入り人・徳、水熊女中、下男、なんと9人の面々を、伊丹秀子は、その声音だけで見事に演じ分ける。俗に「七色の声」と評される所以であろう。そのことによって、物語の展開が、芝居の舞台模様のようにその光景を彷彿とさせるのだ。また、忠太郎がお浜との「絡み」の中で「・・・お前さんは、間違えもない此の忠太郎のおっ母さんだ。へぇ、おっ母さん!なぜ返事をしてくれねえんだ。おっ母さん。おっ母さんと呼んじゃ悪うござんすか。大きな声で悪かったら」という科白に続いて「小さな声で、忠太郎と呼んでく下さい おっ母さん 武州金町瓦屋の半次郎と名乗る旅人を・・・」と「語り」に入っていく風情は、文字通り「天下一品」、終末も、お豊が弥八に拉致されたと聞くや、「お浜さん、お前には義理も恩もかけらも無えが、お豊とか云う娘さんは俺の話を聞いてやれと云ってくれた。優しそうな人が忘れられねぇんだ。一生一代の晴れの姿が無事に祝言させてやりてえ。この忠太郎がたすけてやるぜ」と言い残し、(三度笠を投げ捨てた、道中差の繰り方を、しっかり握る忠太郎。花散る堤 かけて行く)幕切れが、何ともあっけなく、「粋な別れ」であった、と私は思う。続いて④天津羽衣も、③と比べて「同工異曲」の作物である。土地の親分藤造が水熊の女将・お浜に「匿っている男を出せ」と迫るのだが、男はいない。その男とは、実は番場の忠太郎で、先刻(昨日)、藤造の子分たちがお浜の娘・お登勢にしつこく絡んでいたところを、「黙って助けてくれた」という設定である。しかし、忠太郎とお登勢は初対面の「知らぬ同士」、お登勢が「お礼を言う暇も無い内に行って終った」由。お浜いわく「名前くらい聞きゃ良かったのに、世の中は広いねえ。悪い奴も多い代わりに、そんな良い人もいるんだ」。その後は定番通り、大詰めで、忠太郎が「抱いて温めた百両ッ、何とぞ見てやっておくんなせえッ」と迫っても、「・・・いいや、その手にゃ乗らない、乗るもんかッ・・・世間の裏から表まで、散々見てきた私だよ。水熊の身上が入るならと、百両位は誰が貸さないものでも無い。さ、良いかえ忠太郎さん、それを言われて口惜しかったら、何故そんなやくざ姿で尋ねて来たんだぃ、やくざは浮世の屑じゃァないかッ・・・」と、冷たく拒絶する。通常なら、「お内儀さん・・・親に放たれた迷い鳥、ぐれたをあなたは責めなさるかッ」、《こんなヤクザに誰がしたんでィ》と居直るところだが、天津羽衣の忠太郎は違っていた。「いいや、もう何も言いますめえ。お登勢さんとやらにも一度逢いてえが、いいやそれも愚痴だろう・・・あーあ、考えて見りゃあ俺も馬鹿よ・・・・」と自分を責めるのである。その後、忠太郎が立ち去ろうとしたところにお登勢が遭遇、「あッおッ母さん、あの人ですッ。今ッ出ていたあの人が、昨日私を助けて呉れた人なんですッ」。お浜は驚愕、仰天して忠太郎を追いかける、という幕切れ、ここらあたりがこの作物の特長であろうか。天津羽衣の語り・節回しは一貫して「母性的」、止めにいわく「さすがお浜も生みの母 嵐の如く胸は鳴り 呼び醒された愛情に 血相変えた二人が 声を限りに名を呼んで 表へ出れば早や既に とっぷり暮れた江戸の空 憎や やくざの藤造が それと気づいて後を追う 番場生まれの忠太郎 又その後へ追い縋る 母とお登勢の三ツ巴 荒川べりの血飛沫も 瞼の母の物語」。その物語は、もしかして、お浜が語った物語・・・。お浜が見た、愛しいわが子の物語ではなかったか。さてどんじりは、⑤京山幸枝若。この作物は「歌謡浪曲」で5分程度、私はYoutubeの画像を見聞したに過ぎない。「軒下三寸借り受けまして、申し上げます おっ母さん・・・」という詞で始まる歌謡曲に、「こんなヤクザに誰がしたんでぃ」という科白が入った代物である。今、「瞼の母」といえば最も多く「人口に膾炙している作物」かもしれない。同一曲を、杉良太郎、島津亜弥、中村美律子らも歌っているが、やはり何といっても浪曲師・初代京山幸枝若の作物が群を抜いている、と私は思う。その理由は簡単、彼の背景には「瞼の母」の他に、「会津の小鉄」「花の幡随院」「雷電と八角」「河内十人斬り」「浪花しぐれ・桂春団治」「左甚五郎・竹の水仙」といった名作が綺羅星の如く居並んでいるからである。声音、節回し、セリフ回しのいずれをとっても、「役者が違う」のである。彼の「瞼の母」には、これまでの芸歴(の長さ)、芸域(の広さ)がおのずと「結実化」している。まして、彼は今は「鬼籍」の人、現役に比べて「一日の長」があることは当然であろう。もし、現役で彼に迫る者があるとすれば、知る人ぞ知る、大衆演劇界の名優・甲斐文太(「鹿島順一劇団責任者・二代目鹿島順一)を措いて他にはあるまい。ただし、彼の作物はDVD、CD、Youtubeといったステージには存在しない。公演先に赴いて、「運が良ければ鑑賞できる」、幻の名品に他ならないからである。以上「瞼の母」競演模様のお粗末は、まずこれまで。だが蛇足を一つ。長谷川伸の原作を見ると、「大詰め・荒川堤」の場には「異本」が加えられている。その〈二〉では、〈幕切れに忠太郎の絶叫、「おッかさあン」で駆け戻り、「おッかさあン」と絶叫、一つ二つ続ける。そのあと・・・おはま・お登世(呼ぶ声を聞きつけ、引き返し来る)忠太郎(母・妹の顔をじッと見る)おはま(全くの低い声)忠太郎や。お登世(低い声で)兄さん。忠太郎(母と妹の方へ、虚無の心になって寄ってゆく)おはま・お登世(忠太郎に寄ってゆく)双方、手を執りあうその以前に。〉と記されてある。なんと、忠太郎とおはま・お登世が「手を執りあう」ハッピーエンドでもよいのだ。忠太郎が意地を通すか、和解に応じるかは大問題、そのことで物語の眼目は豹変してしまう、とはいえ原作者・長谷川伸にとっては、そんなことはどうでもいいこと、どうぞ勝手にしておくんなさい、といったアバウト(優柔不断)さが垣間見られて、実に面白い。さればこそ、原作の「換骨奪胎」おかまいなし、ということで、件の「浪曲競演」はおろか、全国各地の芝居小屋では「百花繚乱」然とした「瞼の母」が今日もまた、演じ続けられているという次第である。(2011.6.19)
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幕間閑話・「鹿島順一劇団」の《魅力》

2014-09-01 09:19:46 | 幕間閑話

「鹿島順一劇団」の《魅力》とは何だろうか。ひと言で言えば、「レンゲソウ」の魅力とでも言えようか。俗に「やはり野に置け蓮華草」と言われるように、「大衆演劇」の《本分》をわきまえている、その《奥ゆかしさ》がたまらない魅力なのである。ある劇場での一コマ、舞台がはねてからの客席での会話。客「素晴らしかった。あなたほどの実力があれば、テレビに出られるでしょ?」座長・三代目鹿島順一(当時は三代目虎順・17歳)「いえ、ボクたちは大衆演劇の役者ですから、テレビには出ません。安い料金で、一人でも多くのお客様に観ていただくのがモットーです。そのために『全身全霊』で頑張ります」。おっしゃる通り。「大衆演劇」の本質は、まず第一に「廉価な入場料」なのである。私が初めて「大衆演劇」を見聞したのは、今から30余年前(昭和47年)、東京・千住の「寿劇場」であったが、当時の入場料は100円前後、それで「前狂言」「歌謡ショー」「切狂言」「舞踊ショー」の魅力を3時間余り、十二分に堪能できたのだから。客筋といえば、地域の老人がほとんどで、客席はまばら、中には寝転がって(音曲を聴いているだけの)老爺・老婆連中も見受けられたほどである。今では、大劇場が常打ち(?)となった、あの「梅澤武生劇団」ですら、当時は、そのような「侘びしい舞台」で場数を踏んでいたのであったが・・・、爾来幾星霜、大きな変遷を遂げたとはいえ、「廉価な入場料」は斯界の伝統として脈々と受け継がれている。平成22年6月、三代目虎順は、三代目鹿島順一を襲名、18歳で座長となったが、その披露公演(大阪・浪花クラブ)でも「廉価な入場料金」(通常料金・1300円)は変わらなかった。まさに「見上げた根性」である。劇団の責任者・甲斐文太(前座長・二代目鹿島順一)が座長時代の口上で、よく口にしていた言葉、「うちの劇団は『地味』です。そのうえ貧乏ひま無し、劇団名は、別に『劇団火の車』とも申します」。文字通り「襤褸は着てても心の錦」、どんな花よりも綺麗な舞台を作り続けているのである。私は、平成19年11月以来、足かけ4年に亘って、この劇団の舞台を見聞してきたが、「日にち毎日」の観客数は(平均すると)20人~30人程度であろうか、お世辞にも「人気劇団」とは言えない。だがしかし、である。「鹿島順一劇団」の面々は、観客数の多寡など歯牙にも掛けない。つねに「全身全霊」で舞台を務める、その姿は感動的であり、また、たまらない《魅力》なのである。三代目鹿島順一が虎順時代に口上でいわく、「今日は20人ものお客様に観ていただきました。ありがたいことでございます」。大衆演劇の「大衆」(観客)は、なぜか「客の入り具合」で、劇団の良し悪しを評価しているようだが、私は違う。落ち着いた、静かな雰囲気の中で、ゆっくりと舞台の景色を堪能できる方が、どれだけ楽しいか。あえて「大入りにしない」こと、それも劇団の「実力」(懐の深さ)のうちだと確信している。さて、肝腎の「舞台模様」だが、「鹿島順一劇団」の芝居は、天下一品である。俗に「十八番」というが、「浜松情話」「春木の女」「噂の女」「大岡政談・命の架け橋」「男の盃・三浦屋孫次郎の最後」「雪の信濃路・忠治御用旅」、「仇討ち絵巻・女装男子」「長ドス仁義」「大江戸裏話・三人芝居」「新月桂川」「月とすっぽん」「心模様」「会津の小鉄」「マリア観音」「悲恋夫婦橋」「越中山中母恋鴉」「里恋峠」「源太時雨」(以上十八番)、その他に「悲恋流れ星」「アヒルの子」「幻八九三」「孝心五月雨笠」「木曽節三度笠」「花の喧嘩状」「上州百両首・月夜の一文銭」「明治六年」「恋の辻占」「仲乗り新三」「浮世人情比べ」「人生花舞台」「関取千両幟」・・・等々といった「名舞台」が「目白押し」である。しかも、その芝居の、配役(「主役」「脇役」「ちょい役」「その他大勢」)は、変幻自在に入れ替わる。「主役はあくまで座長」といったこだわりとは無縁、それぞれの「個性」にあわせて「適材適所」に役者が配される。そのことによって、役者一人一人は、舞台の中で(たとえ、「その他大勢」「ちょい役」であっても)「なくてはならない存在」に変化(へんげ)してしまう。結果、役者の「個性」に磨きがかけられ、彼らの魅力は倍増する。筋書は単純、何の変哲もない定番の芝居であっても、「鹿島順一劇団」の舞台は、つねに輝いている。たとえば「噂の女」、たとえば「越中山中母恋鴉」、たとえば「春木の女」、たとえば「悲恋流れ星」等々、私は、他の劇団の舞台を見聞しているが、その出来栄えは「一味も二味も違っていた」のである。その違いとは、役者の光り具合、また役者相互の「呼吸」(間)の素晴らしさではないか、と私は思う。「鹿島順一劇団」の舞台には、隙がない。役者一人一人が寸分違わぬ「呼吸」によって、演技を展開する。その「呼吸」こそが、技の巧拙を払拭してしまうのだ。拙い技は、拙いなりに「個性」として魅力を発揮するのである。責任者・甲斐文太は、座長時代、口上でいわく「役者は、未経験者(素人)の方が伸びます。色に染まっていると、かえって育てにくいものです」おっしゃる通り、その劇団の芝居は、その劇団の「呼吸」(チームワーク)で作り上げるものだからである。事実、春日舞子、梅之枝健の初舞台は19歳、花道あきらは20歳すぎ、春夏悠生は18歳?、赤胴誠、壬剣天音は15歳、幼紅葉は13歳であり、いずれも出自は「役者の家系」ではなかった(未経験者・素人)に違いない。にもかかわらず、寸分違わぬ呼吸で演技を展開できるのは、まさに責任者・甲斐文太の指導力(演出力)の賜物であろう。事実、この3年間に遂げた、赤胴誠、春夏悠生、幼紅葉ら、若手・新人の「変化(へんげ)」(成長)振りには、目を見張るものがあった。そんなわけで、「鹿島順一劇団」の《魅力》の真髄は、まず、何を措いても「芝居の素晴らしさ」にある、と私は思う。さらに言えば、役者のチームワークに加えて、「音響効果」(効果音・BGMの選曲)も、お見事、その一つ一つを詳説することはできないが、「春木の女」の浜辺に流れる大漁節?、「仲乗り新三」の木曽節、「月とすっぽん」の会津磐梯山、「仇討ち絵巻・女装男子」の弁天小僧菊之助・・・等々、その音曲を耳にしただけで、舞台模様が彷彿とするのである。芝居にせよ、舞踊・歌謡ショーにせよ、「音響」の美しさは一つの「決め手」であろう。化粧、衣装は「視覚」の美、音響、音曲は「聴覚」の美、いずれも舞台に「不可欠」な「小道具」だが、ややもすると「聴覚」の美は軽視されがち、とりわけ歌謡・舞踊ショーでの「音響」は、なぜか(多くの劇団で)、マックス・ボリュームで耳をつんざくほどの騒々しさが目立つ。「鹿島順一劇団」の「音響」は(劇場にもよるが)おおむね「ほどよく」調整されている。その中で展開される、組舞踊、個人舞踊、歌唱の数々は、まさに《至芸の宝庫》といった有様で、たいそう魅力的である。組舞踊では、伝統的な「筏流し」、座長(面踊り)中心の「お祭りマンボ」を初め、ラストショーの「忠臣蔵」(歌・甲斐文太)「人生劇場」「花の幡随院」「珍島物語」、個人舞踊では、三代目鹿島順一の「忠義ざくら」「蟹工船」(歌・甲斐文太)「大利根無情」、甲斐文太の「弥太郎笠」「冬牡丹」「安宅の松風」「浪花しぐれ『桂春団治』」「ど阿呆浪花華」「河内おとこ節」、春日舞子の「ああいい女」(歌・甲斐文太)「深川」「芸道一代」、花道あきらの「ある女の詩」・・・等々、珠玉の「名品」が綺羅星の如く居並んでいる。加えて、責任者・甲斐文太の歌唱は、プロ歌手以上の《魅力》を発揮する。レパートリーは広く、「すきま風」「冬牡丹」「男の人生」「明日の詩」、「北の蛍」「恋あざみ」「よさこい慕情」「大阪レイン」「無法松の一生」「蟹工船」「瞼の母」「カスマプゲ」「釜山港へ帰れ」「ああいい女」「刃傷松の廊下」「酒よ」「雪国」「男はつらいよ」・・・等々、数え上げればきりがないが、その歌声の一つ一つは、しっかりと私の心中に刻み込まれて、消えることがないのである。なるほど、舞踊にせよ歌唱にせよ、ショーとしての「派手さ」はない。今様の「洋舞」も少ない。しかし、その(一見、侘しげな)「地味さ」の中に、じわじわと沁みこんでくる、伝統的な大衆芸能のエキス(魅力)が隠されていることは間違いない。
さて、(結びに)「鹿島順一劇団」、極め付きの《魅力》とは何だろうか。これまで述べてきた、芝居の「名舞台」、舞踊・歌謡ショー、「至芸」の数々はすべて「幻(まぼろし)」、「仕掛け花火に似た命」、「みんな儚い水の泡沫」で終わる、という《魅力》である。多くの劇団が、舞台模様(歌声)を、CD、VHS、DVDなどに記録・保存・販売しようとしている中で、責任者・甲斐文太は、そのことには全く「無頓着」、周囲からの勧めにも一切応じない(?)かに見える。結果、「鹿島順一劇団」の舞台は、直接、劇場に赴いて鑑賞するほかはない。見事だと思う。あっぱれだと思う。なぜなら、芝居も、舞踊も、歌唱も、本来、すべてが「観客」との「呼吸」で仕上げられる、その場限りの(共同)「作品」に他ならず、それを記録・保存することなどできよう筈がないからである。CD、VHS、DVDに残された音声、映像などは、その「抜け殻」「絞りかす」に過ぎない、といった、文字通りの「滅びの美学」、それこそが「鹿島順一劇団」、極め付きの《魅力》ではないだろうか、と私は思う。(2011.7.4)
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幕間閑話・「藤間劇団」の《魅力》

2014-08-26 08:55:45 | 幕間閑話
私が初めて「藤間劇団」(座長・藤間智太郎)の舞台を見聞したのは、1年半前(平成22年5月)、大阪梅南座、芝居の外題は「源吉渡し」。観客数は20人程であったが、何とも味わい深い舞台模様で、文字通り「極上の逸品」、ぜひ(この劇団の舞台を)「見極めたい」と思いつつ劇場を後にしたのであった。以来、機会に恵まれなかったが、このたび幸運にも、関東(佐倉湯ぱらだいす)での1ヶ月公演が実現、思う存分、その名舞台を堪能できた次第である。見聞した芝居は、件の「源吉渡し」を筆頭に、「天竜筏流し」「佐吉子守唄」「伊太郎笠」「稲葉小僧新吉」「白磯情話」などの時代劇、「羽衣情話」「長崎物語」「大人の童話」「大阪ぎらい物語」などの現代劇 、いずれも、眼目は「親子」「兄弟」「隣人」同士の(人情味あふれる)「人間模様」の描出にあると思われるが、それらが見事に結実化した舞台の連続で、大いに満足させていただいた。座員の面々は、責任者の初代藤間新太郎、令夫人の松竹町子、息子の座長・藤間智太郎、嫁(?)の藤間あおい、孫の三代目藤間あゆむ、といったファミリーに加えて、女優・星空ひかる、藤くるみ、若手・藤こうた、客演の橘文若が参加する。初代藤間新太郎の芸風は、一見「木石」の態を装いながら、内に秘めた「温情」「洒脱」「侠気」がじわじわと滲み出てくるという按配で、誠に魅力的である。特に、その「立ち居」は錦絵の様、口跡は、あくまでも「清純」で、聞き心地よく、斯界屈指の名優であることは間違いない。続いて、松竹町子。「達者」という言葉は、彼女のためにあるようだ。爺や、仇役、侠客、遊び人、商人などの「立ち役」はもとより、女将、鳥追い女、芸者などの(艶やかな)「女形」から、その他大勢の「斬られ役」に至るまで、何でもござれ、といった芸風で、文字通り「全身全霊」の演技を展開する。それを見事に継承しているのが藤間あおい。やや大柄な風貌を利しての「立ち役」(仇役)から、乳飲み子を抱く女房役、可憐な娘役まで「達者に」こなす。その凜として、清楚な景色は「絵に描いたように」魅力的である。さて、座長の藤間智太郎、当年とって33歳との由、「形を崩さずに」誠心誠意、舞台に取り組む姿勢が立派である。
旅鴉、盗賊、罪人、板前、漁師、阿呆役などなど、これまた「達者に」演じ分ける。加えて、「長崎物語」のお春(母親)役、「白磯情話」の銀次(女装)役はお見事!、どこか三枚目の空気も漂って、出色の出来映えであった、と私は思う。以上四人の「達人」に、三代目藤間あゆむの初々しさ、橘文若の「個性」、星空ひかるの「女っぽさ」が加わるのだから、舞台模様は充実するばかりであろう。さらに言えば、新人(?)藤くるみ、藤こうたの「存在」も見逃せない。芝居では、ほんのちょい役、舞踊ショーでも組舞踊に登場する程度だが、精一杯、全力で舞台に取り組もうとする「気迫」(表情・所作)が素晴らしい。その姿が、他の役者を活かしているのである。今はまだ修行中(?)、しかし、この劇団にいるかぎり(努力精進を重ねる限り)、「出番はきっと来る」ことを、私は信じて疑わない。「藤間劇団」の魅力は、何といっても「誠心誠意」、いつでも、どこでも「決して手を抜かない」(油断しない)、(座員の)集中力・結集力にあるのではないだろうか。舞台には、つねに役者相互の(立ち回りのような)「緊迫感」が漂っている。「阿吽の呼吸」と言おうか、「切磋琢磨」と言おうか、「しのぎを削る」と言おうか・・・。今月の関東公演、初めての劇場お目見えとあって、観客数は毎回「数十人」ほどであったかもしれない。時には「十数人」のこともあった。にもかかわらず、舞台の景色は「極上」の「超一級品」、私が最も敬愛する「鹿島順一劇団」、芝居巧者の「三河家桃太郎劇団」「劇団京弥」、成長著しい「劇団天華」らに匹敵する輝きを感じたのであった。また、舞踊ショーの途中で行われる座長の口上も聞き逃せない。毎度毎度紹介(宣伝)するの、次月、次次月に来演する劇団のことばかり、千秋楽前日には、「来月の劇団は、遠く九州からやって来ます。チラッと耳にした話では、初日の公演は、夜の部からになるかもしれないと言うことです。どうか、フロントで確かめてから御来場下さい」という念の入りようで、まず自分のことより「仲間うちを(当劇場、他の劇団)大切にする」誠実さ(爽やかさ)に、私は深い感銘を受けた次第である。今後ますますの活躍、発展を祈りたい。

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幕間閑話・舞踊・歌謡ショーのラストは「百花繚乱」・《屈指の「フィナーレ」》

2014-07-22 20:32:41 | 幕間閑話

大衆演劇の第三部(または二部)は舞踊・歌謡ショー、そのラストを飾る「フィナーレ」は、それぞれの劇団が、おのがじし趣向を凝らし、文字通り「百花繚乱」といった景色・風情を醸し出している。かつて、「劇団ママ」を率いていた女座長・若水照代は、純白のドレスに身を包み、客席後方の暗がりから、静かに登場、バックには「ある女の詩」(詞・藤田まさと、曲・井上かつお)のイントロが流れ、何ともやるせない、極め付きの「歌声」が響き始める。「雨の夜来て、独り来て、私を相手に飲んだ人、私の肩をそっと抱き、苦労したねと言った人、ああ、あなた、遠い遠い日の、私のあなたでした」。当時(昭和40年代後半)、私は、この名曲が美空ひばりの持ち歌であるとはつゆ知らず、若水照代のオリジナルだとばかり思いこんでいたのであった。そこには、夫・長谷川正二郎を亡くしたばかりとはいえ、失意にくれている暇などあろうはずもなく、直ちに「女手一つで」劇団を「健気に」継承していかなければならない旅役者の思いが込められていて、「感慨一入」の出来栄えであった。かくて、「劇団ママ」の「フィナーレ」は、まさに「この一曲」、来る日も来る日も「ある女の詩」で締めくくっていた(観客もまた、その一曲を待っていたことは言うまでもない)のは「お見事!」という他はない。爾来40余年、斯界の舞台模様は大きく「様変わり」、宝塚歌劇「もどき」のレビューあり、大歌舞伎、新国劇のクライマックス(場面)あり、太鼓ショーあり、三味線ショーあり、といった按配で、多種多様な演出が試みられている。私は、これまで90余りの劇団を見聞して来たが、印象深い(忘れられない)「フィナーレ」を列挙すれば以下の通りである。
①「南條光貴劇団」《龍神の舞》:赤、緑、黄、三色の龍(ぬいぐるみ)が、舞台狭しと縦横無尽に「絡み合い」、乱舞する。通常は、「おどろおどろしく」、(眼光を発したり、口から火を吹いたりして)荘厳な景色を描出するのが定番だが、この劇団の舞台模様はさにあらず、眼の表情は「円ら」で愛らしく、舞の所作も「コミカル」で「健康的」、赤子・幼児連中までもが、思わず手を打って喜びそうな場面の連続であった。以後、この劇団の舞台を見聞し続けたが、《龍神の舞》を拝見できたのは、後にも先にも1回だけ、私にとっては「幻のフィナーレ」となってしまった。
②「劇団竜之助」《極道の妻たち
前の舞台は、「人間」という外題の、重厚な「芝居」で、観客の面々は、その重たくのしかかる、シリアスなテーマに「落涙」「沈思黙考」していたのだが、「フィナーレ」の様相は一変、その「重たさ」を一気に払拭するような「痛快ドタバタ喜劇」模様で、それほど多くない観客の「笑顔」と「笑い声」が劇場を覆い尽くした。内容は、単純。「岩下志麻」然(女形・和装)とした、大川竜之助が、柄の悪い子分連中を引き連れて、今様の旅行鞄(キャリー・ケース、実は老人用の買い物籠)を引きながら、颯爽と登場。空港で待ち伏せした抗争相手の組員と大立ち回り、初めは匕首で、次にはピストルで、次々と敵方を倒していったが、何を思ったか、子分の組員まで射殺、最後は自分の頭まで打ち抜いて全員が死亡!という幕切れであったとは、意外や意外・・・。その「ナンセンスさ」「バカバカしい」風情は、笑う他はなく、抱腹絶倒の「超一級品」であった、と私は思う。とりわけ、「芝居」の余韻とのコントラストが鮮やかで、文字通り「トラジ・コミック」(悲・喜劇的)な舞台を大いに堪能できたのであった。
③「鹿島順一劇団」《刃傷松の廊下~忠臣蔵》&《人生劇場》&《韓国ショー珍島物語》
 歌謡浪曲をバックにした「舞踊劇」と「組舞踊」。「舞踊劇」の出来栄えは、1時間の芝居(「切り狂言」)にも匹敵する。ところどころに科白も挿入されるが、基本は「表情」と「所作」だけで演じる「無言劇」だが、観ているだけで、長編の芝居を満喫したような「うっとりしてしまう」場面の連続である。俗に言う「舞踊絵巻」とは、このような舞台模様を指すのであろう。《刃傷松の廊下》の歌声は、責任者・甲斐文太が担当、浅野内匠頭・杉野十平次に扮した春大吉、吉良上野介に扮した蛇々丸、大石内蔵助に扮した花道あきら、立花左近に扮した甲斐文太、俵星玄蕃に扮した三代目鹿島順一の「艶姿」を、私は忘れることができない。《人生劇場》では、吉良常・甲斐文太の「渋さ」を筆頭に、飛車角・三代目鹿島順一の「男ぶり」、おとよ・春日舞子の「色香」、宮川・春大吉の「崩れた二枚目ぶり」が、舞台の景色を鮮やかに彩る。とりわけ、飛車角とおとよ、おとよと宮川の「絡み」が(無言のうちに)描き出す「人間模様」は絶品で、私の涙は止まらない。出所した飛車角を出迎え、吉良常がそっと差し出すのはタバコではなく「ぺろぺろキャンディー」、それを二人でしゃぶりながら、男の交情を温める風情も「粋の極致」、とどめは大詰め、宮川とおとよに裏切られた飛車角が、お先真っ暗、絶望に満ちた声音で「これから、どうすればいいんだろうか?」と吉良常に問いかける。吉良常、しばし瞑目、おもむろに口を開いたかと思いきや、突然、表情を崩して「そんなこと、ワシャ、シラン!」と遁走する幕切れも、「お見事!」。男女の葛藤など、誰にも解決できない、「男心は男でもワカラナイ」とあきらめる他はないからである。さて、《韓国ショー・珍島物語》、甲斐文太の(「釜山港に帰れ」「カスマプゲ」)歌声(舞・春日舞子)に続いて、音曲は天童よしみの「珍島物語」(詞・曲・中山大三郎)に変わる。それぞれが色鮮やかなチョゴリを身につけ、女形の組舞踊を華麗に展開する。各自が手にする大扇の色彩・模様には、目の覚めるような「甘美さ」が漂い、それを重ねあわせ、様々につなぎ合わせる造形美が、(バラバラに引き離された私たちの)「心を一つにする」ことを暗示する。中山大三郎が詞・曲に託した「(人類)愛」の象徴が、いとも鮮やかに「結実化」している舞台なのである。その詞にいわく「海が割れるのよ 道ができるのよ 島と島とが つながるの こちら珍島から あちら茅島里まで 海の神様 カムサハムニダ 霊登サリの 願いはひとつ 散り散りになった 家族の出会い ねえ わたしここで 祈っているの あなたとの 愛よふたたびと 遠くはなれても こころあたたかく あなた信じて 暮らします そうよいつの日か きっと会えますね 海の神様 カムサハムニダ ふたつの島を つないだ道よ はるかに遠い 北へとつづけ ねえ とても好きよ 死ぬほど好きよ あなたとの 愛よとこしえに」そうなのだ、「願いはひとつ、散り散りになった 家族ので出会い」、「そうよいつの日か、きっと会えますね」「ふたつの島を つないだ道よ はるかに遠い 北へとつづけ」、そうした声が、踊り手(三代目鹿島順一、甲斐文太、春日舞子、春夏悠生、赤胴誠、幼紅葉)の一人一人から聞こえてくるようで、舞踊・歌謡ショーの「フィナーレ」としては最高級の作品である、と私は思う。
④「玄海竜二一座」《ヤットン節
私がはじめて「ヤットン節」の舞台を拝見したのは、平成22年8月、大阪・朝日劇場であった。当時の感想は以下の通りである。〈今日の舞台の極め付きは、何と言っても「舞踊ショー」大詰めの「ヤットン節」。その景色、面白さはまさにピカイチ。座員全員が舞台に整列、玄海竜二を中心に、おのがじし勝手な「お面」を身につけて、あたかも「ラジオ体操」のごとく整然と踊りまくる。その一挙一動一頭足がピタリとそろえばそろうほど、「お酒飲むな、酒飲むなの、御意見なれど・・・」で始まるナンセンスな歌詞が生き生きと冴えわたってくるから不思議である。その、「可笑しく滑稽な」空気に、もいわれぬ「艶やかさ」が加わるといった趣で「お見事!」という他はなかった。昭和20年代、一世を風靡した未曾有のナンセンスソング「ヤットン節」は、ほぼ60余年の時を経て、今まさしく甦り、平成の庶民に大きな「元気」「勇気」をもたらしてくれたのだ。その「おこぼれ」を存分に頂いて帰路に就いた次第である〉。玄海竜二は、その(ほぼ)1年後(平成23年7月)、東京にも遠征、浅草木馬館で「半月間」の興行を展開中である。そこでも、「フィナーレ」では「ヤットン節」の名舞台を披露、あらためて、再見聞した次第だが、その面白さ、素晴らしさが「色あせる」ことはなかった。役者一同が被る面は、「一様に」笑っている。それを観ている観客もまた、「一様に」笑っている。幕が開くと同時に、劇場全体が「笑いの渦」に巻き込まれる、といった按配で、なんとも幸せな気分に包まれるのである。日頃の憂さを晴らし、明日への元気を養うのが「娯楽」の真髄だとすれば、この「フィナーレ」は、まさに「打って付け」、文句なし、理屈抜きに、楽しめる。あたかも、40余年前、千住寿劇場、十条篠原演芸場の「フィナーレ」に登場した、「劇団ママ」・若水照代座長の艶姿と同様に、「待ってました!日本一!」、何度観ても心底から納得・感動できる「逸品」なのである。劇団にとって、「フィナーレ」は、「明日への架け橋」、全国津津浦々の舞台では、今日もまた、幸せな明日を目指して、「百花繚乱」の景色が繰り広げられているのである。(2011.7.21)
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幕間閑話・大歌舞伎名門「御曹司」の《醜態》

2014-02-19 20:55:42 | 幕間閑話
大歌舞伎名門の御曹司が「酒の上の不始末」で醜態を晒している景色は、文字通り「無様」としか言いようのない「有様」だが、それをネタに「一儲け」を企むマスコミ・ジャーナリズムの面々も見苦しい限りである。もともと、この御曹司(父と同様)、大した実力もないのに、ミーハー連中の「人気」を盾にして、「自分の芸は《無形文化財》に値する」などと。とんでもない錯覚をしていることが問題なのである。〈作家の利根川裕さんは「類いまれな歌舞伎役者の素材であることを本人がもっと自覚して、自分を大事にして一日も早い復帰を」と望む〉(東京新聞12月8日朝刊 )〈「江戸っ子と助六」などの著書がある演劇評論家の赤坂治積さんは「役者は表現者として、酸いも甘いもしっておくほうがいい。悪人も演じるのだから」と一定の理解を示す。「品行方正な優等生が演じても、面白みがない。役者は小さくまとまらず、破天荒なところがあっていい。それを世間も容認していた〉(同・12月9日朝刊)などといった「世評」が、そのことを裏付けている。御曹司のどこが「類いまれ」なのか。どこが「破天荒」なのか。私は数年前、御曹司の舞台・世話物狂言「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)を見聞しているが、白塗りの二枚目・なよなよした清心が、一転「悪人」に変化(へんげ)する場面を観て驚いた。何だこりゃ!?、役者が「地」に戻っただけではないか。ただドスをきかせて凄むだけ、「悪人を演じる」風情とは無縁であった。まあ、大衆などという代物は所詮「ミーハー」、見る眼がないといえばそれまでの話だが、どうしてどうして「大衆演劇」の役者の方が、御曹司など足元にも及ばない「名演技」を披露している。例えば「仇討ち絵巻・女装男子」の鹿島順一、「三島と弁天」の小泉ダイヤ、「弁天小僧・温泉の一夜」の橘龍丸、「身代わり街道」の白富士健太、「女小僧花吹雪」の梅乃井秀男等々・・・、数え上げればきりがない。さだめし「品行方正な優等生」の著名人には、およそ知るよしもない役者連中であろう。彼らは、しがない「旅役者」、その日その日の劇場で、その日その日の演目(日替わり)を、数十名の観客を相手に、「日にち毎日」演じ続けているのである。座長口上の決まり文句は「未熟者揃いの劇団ではありますが、どうか千秋楽までお見捨てなきよう、よろしくお頼み申し上げます」。今、件の御曹司にとって必要な修業は、そのような精進、そのような謙虚さを学ぶことである。間違っても今回の騒動が「酸いも甘いもかみ分けるよい機会になった」などと思い上がってはいけない。大衆演劇の役者に比べて「十年早い」のである。そんな折、大歌舞伎界、稀代の名優・阪東玉三郎が、御曹司の代役を引き受けたという。曰く「一月が空いており、お引き受けしなければと思った。お声がかかるうちが花。東京での公演は(4月の)歌舞伎さよなら公演以来。やる以上はお正月らしい華やかな舞台にしたい」と語った。(同・12月10日朝刊)さすがは名優、その心がけ(根性)が違う。「お声がかかるうちが花」、その謙虚さこそが「至芸」の源泉であることを、私は確信した。一見「品行方正な優等生」と見られがちな坂東玉三郎こそ、「酸いも甘いも噛み分けた」稀代の歌舞伎役者であることを見落としてはならない。
(2010.12.10)
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幕間閑話・芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の《眼目》

2013-11-09 22:41:38 | 幕間閑話
芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の眼目は奈辺にあるのだろうか。序幕第一場、取手の宿・安孫子屋の前、土地の乱暴者・舟戸の弥八(28、9歳)が巻き起こす騒動を二階から、ほろ酔い機嫌で涼しげにに眺める酌婦のお蔦(23、4歳)、たまたまそこに通りかかった力士志願の駒形茂兵衛(23、4歳)の「絡み」から物語は始まるのだが、見せ場は、何と言っても、一文なしの茂兵衛に、お蔦が自分の有り金全部(巾着)はおろか、身につけている櫛、簪まで呉れてやる場面であろう。茂兵衛いわく「貰って行ってもいいのか。後で姐さんが困りゃしないか」応えてお蔦「あたしあ、年がら年中困りつづけだから、有っても無くっても同じことさ。遠慮しないで持ってお行き」茂兵衛「半分貰います」お蔦「しみったれな、今に横綱になる取り的さんじゃないか」茂兵衛「だってな、わしも一文なしで困ってきたんだ、姐さんだって一文なしでは」お蔦「やけの深酒とは毒と知りながら、ぐいぐい呷って暮らすあたしに、一文なしも糸瓜もあるもんか。お前さんは大食いだろうから、それじゃ足りない、これもあげるから持ってお行き。(櫛と簪を髪からとる)茂兵衛「いいよ、いいよ、そんなに貰わないでもいいよ」しかし、お蔦は、櫛と簪を扱帯に結びつけて二階から垂らす。茂兵衛は嗚咽しながらそれらを頂戴、絞り出すような声で「わしこんな女の人にはじめて逢った」。この「絡み」の中で浮き彫りされる心象は、「互いに相手を思いやる温もり」である。それは「慈悲の心」であって「愛」ではなかった。事実、当時のお蔦には舟印彫師・辰三郎(25、6歳)という情夫がおり、子どもまで宿していたのだから・・・。一方、茂兵衛の心には、抑えきれない慕情が芽生えたとしても無理はない。そこらあたりを、浪曲師・二葉百合子は見事に詠いあげる。「山と積まれたお宝さえも 人の情にゃ代えられぬ なんで忘れよ花かんざしに こもる心を受けて茂兵衛の こらえ泣き」(作詞・藤間哲郎、作曲・桜田誠一)。「一本刀土俵入り」という題名の歌謡曲には、三橋美智也(作詞・高橋掬太郎、作曲・細川潤一)、三波春夫(作詞・藤田まさと、作曲・春川一夫)、村田英雄(作詞、作曲者・不詳)島津亜弥(作詞・高月ことば、作曲・村沢良介)、浪曲では、春日井梅鶯、芙蓉軒麗花らの作物があるようだ(そのすべてを知り尽くしてはいない)が、そのほとんどが、茂兵衛の立場から、茂兵衛の心象を描出しようとしている。だがしかし、二葉百合子は違う。前節に続き詠っていわく「厚い化粧に涙をかくす 茶屋の女も意地はある まして男よ取的さんよ 見せてお呉れな きっとあしたの晴れ姿」(歌謡曲版)ここで描かれるのは、お蔦の心象、それも茂兵衛を思いやる「慈悲の心」に他ならない。さればこそ、その思いを受けとめた茂兵衛の慕情が「いや増し」て、えもいわれぬ景色が彩られるのである。続いて、また、二葉百合子は詠う。「利根の堤の秋草を 破れ草鞋で踏みしめる 駒形茂兵衛のふところに 残るお蔦のはなむけが 男心を温めて 何時か秋去り冬も行き、めぐる春秋夢の間に、十年過ぎたが 番付に駒形茂兵衛の名は見えず お蔦の噂も何処へやら 春の大利根今日もまた 昔変わらぬ花筏」(脚色・吉野夫二郎)この一節は、序幕第一場から、大詰め第一場・布施の川べり場面への「つなぎ」(間奏)として素晴らしく、無情に流れた十年の年月が、宝石のように結晶化されている、と私は感じる。さて、大詰めの見せ場は、第三場・軒の山桜、(イカサマをして逃亡中の)辰三郎を追いかけてきた波一里儀十一家の面々を叩きのめし、茂兵衛いわく「飛ぶには今が潮時でござんす。お立ちなさるがようござんす」辰三郎「お蔦から話を聞きました。僅かなことをいたしましたのに」茂兵衛「いらねえ辞儀だ。早いが一だ」お蔦「(人の倒れ伏すを見て)あッ」茂兵衛「なあに死切りじゃござんせん。やがて、この世へ息が戻る奴ばかり」辰三郎「それでは茂兵衛さん。ご丈夫で」お蔦「お名残が惜しいけれど」茂兵衛「お行きなさんせ早いところで。仲良く丈夫でおくらしなさんせ。(辰三郎夫婦が見返りながら去って行くのを見送り)ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」おそらく、茂兵衛の土俵入りは「言葉」だけ、先ほどの「棒ッ切れを振り廻し」た《立ち回り》こそが、しがねえ姿の「土俵入り」であった筈である。その証しは一目瞭然、波一里一家の面々は「死切りじゃござんせん。やがてこの世に息を吹き返す者ばかり」だったではないか。茂兵衛の目的は、あくまでも「恩返し」、無用な殺生など「御免被りたい」という、優しい心根が感じられる。その源は、またしても「慈悲の心」、言い換えれば「見返りを求めない」「与えるだけの思いやり」ということになるのだ。二葉百合子は、大詰め幕切れで詠う。「逢えて嬉しい 瞼の人は つらい連れ持つ女房雁 飛んで行かんせ どの空なりと、これがやくざの せめて白刃の仁義沙汰」。その中には、「慈悲の心」に綯い交ぜされた、茂兵衛の「慕情」が仄見える。もしかして、その白刃とは、瞼の人・お蔦への「執着」を断ち斬るために不可欠な、恰好の(無情の)得物だったのかもしれない。
 そんなわけで、この物語に一貫して流れる「仁義沙汰」とは、「慈悲の心」、自分をかえりみず相手に尽くす、見返りを求めない思いやり、だと思われるが、それが前半では、酌婦という「賤しい稼業」(なげやり)の立場から、失意のふんどし担ぎに施されたこと、また後半では、方屋入りをし損なった無宿者(アウトロー)から、無力な(飴売りの一家族)に施されたことを見れば、文字通り「一寸の虫にも五分の魂」といった風情が、この芝居の《眼目》かもしれない。さらに、「瞼の人」への執着を絶ち斬らねばならない「愛別離苦」という空気も添えられて、長谷川伸の作物の中でも、珠玉の名品に仕上がっている代物だ、と私は思う。今、私の脳裏には、かすかに、「新国劇」島田正吾の茂兵衛、香川桂子のお蔦という舞台姿が残っているだけ・・・、それ以上の舞台を「大衆演劇」で観てみたい今日、この頃である。(2011.6.23)
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