6月に三代目虎順が18歳で鹿島順一を襲名(於・浪速クラブ)、7月は四日市ユラックスで順調に滑り出したように見えたが、8月、早くも試練の時がやって来た。劇団屈指の実力者・蛇々丸が「諸般の事情により」退団したからである。そのことが吉とでるか、凶とでるか。とはいえ私は観客、無責任な傍観者に過ぎない。文字通りの責任者・甲斐文太の采配やいかに?、といった面白半分の気分でやって来た。なるほど、観客は20名弱、一見「凋落傾向」のようにも思われがちだが、「真実」はさにあらず、この劇団の「実力」は半端ではないことを心底から確信したのであった。芝居の外題は「大岡政談・命の架け橋」。江戸牢内の火事で一時解放された重罪人(春大吉)が、十手持ちの親分(甲斐文太)の温情(三日日切りの約束)で、盲目の母(春日舞子)と対面、しかし仇敵の親分(花道あきら)の悪計で手傷を負い、約束を果たせそうもない。それを知った盲目の母、息子の脇差しで腹を突く。息子仰天して「オレへの面当てか!?・・・」母「可愛い子どものためならば何で命が惜しかろう。ワシのことが気がかりで立てんのじゃ。そんな弱気でどうする!早く江戸に戻って恩人の情けに報いるのじゃ・・・」といった愁嘆場の景色・風情は、まさに「無形文化財」。最後の力を振り絞って唱える母のお題目(「南無妙法蓮華経」)の念力によってか、法華太鼓の鳴り響く中、めでたく重罪人は江戸帰還、という筋書だが、今回の舞台、ことのほか春大吉の演技に「凄さ」が増してきたように感じる。加えて、座長・鹿島順一は父・甲斐文太と役割を交代、出番の少ない大岡越前守を演じた。その見せ所は、舞台に立つだけで「絵になる」存在感、仇役の親分を「ダマレ、カキナベ!」と一喝する場面だが、今日はその第一歩、それを精一杯、忠実にこなす姿に、私の涙は止まらなかった。「三代目、お見事!」、それでいいのだ。蛇々丸の「穴」は埋められる。これまで仇敵親分の子分で棒を振っていたが、今日は代わって赤胴誠、その所作は寸分違わず「蛇々丸」然、あとは「表情」「眼光の鋭さ」が加われば言うことなし、といった出来栄えであった。やはり「鹿島劇団」は日本一、その実力は「不滅」なのである。
2010年8月19日(木) 晴(猛暑)
午後0時30分から、大阪豊中劇場で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・三代目鹿島順一)。芝居の外題は「源太時雨」。かつての座長、二代目鹿島順一(現・甲斐文太)は、座員それぞれの「個性」を見抜き、それを磨き際だたせる采配に長けていた。この狂言での主役は春大吉、脇役に三代目虎順、敵役に蛇々丸を配し、自分は「ほんのちょい役」に回っていたが、虎順が三代目座長・鹿島順一を襲名、屈指の名優・蛇々丸が退団とあって、その配役を大幅に変更せざるを得なかった。結果、主役・源太に三代目鹿島順一、脇役・盲目の浪人に春大吉、敵役親分に甲斐文太、と相成ったのである。筋書は単純。行き倒れていた盲目の浪人夫妻(夫・春大吉、妻・春夏悠生)を助けた土地の親分(甲斐文太)、それは見せかけの善意に過ぎず、浪人の妻と「間男」する魂胆は見え見えだったが、この妻もまた妻で品行不良の不貞の極み、さっさと相手を親分にのりかえて夫と乳飲み子を邪魔者扱い、乳をもらいに来た夫に「投げ銭」をして追い返す。加えて、親分、この夫を暗殺しようと、一家の遊び人・時雨の源太に指示。源太、「金のためなら何でもします」と請け合ったが、土壇場で「改心」、浪人の「間男成敗」に加担する、というお話である。芝居の見どころは、①親分・不貞妻に「投げ銭」され、見えぬ目で金をまさぐりながら「人は落ち目になりたくないもの・・・」と嘆じる哀れな風情、②その風情をノーテンキな源太が「再現」する滑稽さ、③土壇場で赤子の笑顔に出会い、思わず「改心」する源太の清々しさ、④源太演出の怪談話に震え上がる親分の小心ぶり、⑤浪人の目が快癒、晴れて間男成敗を果たす痛快さ、等など、数え上げればきりがない。今日の舞台、大幅な配役変更にもかかわらず、それぞれの役者がそれぞれの見どころを、いとも鮮やかに描出していた、と私は思う。とりわけ三代目鹿島順一演じる時雨の源太が、浪人ともども乳飲み子まで切り捨てよう太刀を振り上げたその時、赤子の泣き声が笑い声に変化、一瞬見つめ合う赤子と源太、次第に源太の表情も柔和な笑顔に変化する。悪から善への「改心」を、表情と所作だけで描出した座長の「実力」は努力・精進の賜物であり、脱帽する他はなかった。加えて、新人(だった)春夏悠生の「不貞ぶり」「悪女ぶり」も板に付き、舞台模様をより一層際だたせていたことは、立派である。あらためてこの劇団の素晴らしさを満喫、大きな元気を頂いて帰路に就いた次第である。
芝居の外題は「木曽節三度笠」。私はこの狂言を1年半前(平成21年3月)、川崎大島劇場で見聞している。その時の感想は以下の通りであった。〈芝居の外題は「木曽節三度笠」。筋書は大衆演劇の定番、ある大店の兄(花道あきら)と弟(三代目虎順)が、使用人(?)の娘(生田春美)を争奪しあうというお話。実はこの弟、兄とは腹違いで、今は亡き大店の主人(兄の父)の後妻になった母(春日舞子)の連れ子であった。行き倒れ寸前の所を母子共、大店の主人に助けられ、今は兄弟で大店を継いでいる様子・・・。弟は娘と「相思相愛」だったが、兄が横恋慕、弟は母の進言に従って娘をあきらめる覚悟、でも娘は応じない。兄は強引にも娘と「逢瀬」を楽しもうとして、土地のヤクザ(親分・座長、子分・蛇々丸、春大吉、梅之枝健、春夏悠生、赤銅誠)にからまれた。その場に「偶然居合わせた」弟、兄・娘を守ろうとして子分の一人(たこの八・春夏悠生)を殺害、やむなく「旅に出る」。そして1年後(あるいは数年後)、ヤクザの「股旅姿」がすっかり板についた弟(実はナントカの喜太郎)が帰宅、土地のヤクザに脅されていた母、兄・娘を窮地から救い出して一件落着。「時代人情剣劇」と銘打ってはいるが、眼目は、亡き主人にお世話になった母子の「義理」と、親子の「情愛」を描いた「人情芝居」で、三代目虎順の「所作」「表情」が一段と「冴えわたってきた」ように感じる。「口跡」は、まだ単調、「力みすぎ」が目立つので、「力を抜いてメリハリをつけること」が課題である〉。さて、今日の舞台の出来栄えは?娘役が生田春美から春夏悠生に代わった、ヤクザの子分・蛇々丸が脱けた、という移り変わりはあったが、もともと春夏悠生は生田春美の先輩格、蛇々丸の「穴」は、春大吉が「難なく埋める」、加えて三代目虎順は今では座長を襲名、当時の課題であった「口跡の単調さ」「力みすぎ」は見事に克服されていた、といった按配で、1年半前とは比べものにならないほど「艶やかな」舞台に仕上がっていた、と私は思う。一番の見せ場は、土地のヤクザに娘(今では義兄の女房)を拉致されてパニック状態に陥った義兄たちを尻目に「お取り込み中のようではござんすが、あっしには関わりのないこと、これで失礼いたします」と立ち去ろうとする弟・喜太郎に向かって、母が差し出す義父の位牌、それを目にした瞬間、心中は動揺、日頃から「大恩あるお方のためなら、命を捨てても惜しくない」という母の教えを忠実に守ろうとする喜太郎の「風情」から、位牌に象徴された亡父の恩愛がひしひしと伝わってくるという趣きは「天下一品」であった。また、被害者意識丸出し、小心で身勝手な兄の「憎みきれない憎らしさ」は、この芝居の要、利己に走る人間の有様を見事に描出する花道あきらの「実力」も見逃せない。私たちの心に巣くう「煩悩の根源」を、さりげなく代弁しているからである。大詰めの見せ場は、娘を取り戻しにやって来た弟に向かって言い放つ土地の親分(甲斐文太)の一言、「おい喜太郎、お前はいったい何しにキタロウ!」。それを聞いて子分一同がずっこける。興が乗れば親分までもずっこけるといった趣向は「粋の極致」、悪が栄えたためしはないことを心底から納得できる場面なのである。今日もまた、心ウキウキ、快哉を叫んで帰路に就くことができたのであった。
芝居の外題は「仇討ち絵巻・女装男子」。私はこの狂言を1年4ヵ月前(平成21年5月)に、九十九里太陽の里で見聞している。以下は、その時の感想である。〈芝居の外題は、「仇討ち絵巻・女装男子」。開幕前のアナウンスは座長の声で「主演・三代目鹿島虎順、共演・《他》でおおくりいたします」だと・・・。何?「共演《他》」だって?通常なら、「共演・花道あきら、春日舞子・・・。」などと言うはずなのだが・・・?そうか、どうせ観客は宴会の最中、詳しく紹介したところで「聞く耳」をもっていない、言うだけ無駄だと端折ったか?などと思いを巡らしているうちに開幕。その景色を観て驚いた。いつもの配役とは一変、これまで敵役だった花道あきらが・謀殺される大名役、白装束で切腹を強要される羽目に・・・。加えて、その憎々しげな敵役を演じるのが、なんと座長・鹿島順一とは恐れ入った。「これはおもしろくなりそうだ」と思う間に、早くも観客の視線は舞台に釘付けとなる。筋書きは単純、秋月藩内の勢力争いで謀殺された大名(花道あきら)の遺児兄妹(三代目虎順・春夏悠生)が、めでたく仇討ちをするまでの紆余曲折を、「弁天小僧菊之助」もどきの「絵巻物」に仕上げようとする趣向で、見せ場はまさに三代目虎順の「女装」が「男子」に《変化(へんげ)する》一瞬、これまでは虎順と花道あきらの「絡み」だったが、今日は虎順と座長の「絡み合い」、どのような景色が現出するか、待ちこがれる次第であった。だがしかし、「見せ場」はそれだけではなかった。遺児兄妹の補佐役が、これまでの家老職(座長)に変わって、今回は腰元(春日舞子)。亡き主君を思い、その遺児たちを支える「三枚目」風の役どころを、春日舞子は見事に「演じきった」と思う。加えて芸妓となった妹と相思相愛の町人・伊丹屋新吉(蛇々丸)の「色男」振り、敵役の部下侍(春大吉、赤胴誠)のコミカルな表情・所作、芸妓置屋のお父さん(梅之枝健)の侠気、妹・朋輩(生田晴美)の可憐さ等々・・・。絵巻物の「名場面」は枚挙にいとまがないほどであった。
なるほど、「舞台の見事さ」に圧倒されたか、客筋が当たったか(今日の団体客は、飲食をしなかった)、客席は「水を打ったように」集中する。いよいよ「女装男子」変化(へんげ))の場面、若手の芸妓が見事「若様」に変身して、仇討ち絵巻は大団円となった。その「変化ぶり」は回を追うごとに充実しているが、欲を言えば「女から男への」一瞬をを際だたせるための演出、芸妓の「表情」が、まず「男」(の形相・寄り目でもよい)に変わり、敵役を睨み付ける、呆気にとられる敵役との「瞬時のにらみ合い」、その後、「声を落とした」(野太い)男声での「決めぜりふ」という段取りが完成したら・・・、などと身勝手な「夢想」を広げてしまった。
さすがは「鹿島順一劇団」、どんなに不利な条件下であっても、「やることはやる」、しかも一つの芝居を、いかようにも「変化」(へんげ)させて創出できる、その「実力」に脱帽する他はなかった〉。さて、今回の配役は、名優・甲斐文太(前座長・二代目鹿島順一)が、冒頭で謀殺される大名、色男・伊丹屋新吉の二役、他は「変わりなし」であった。前回同様、今回も「見せ場」は至る所に散りばめられていたが、その一は、女装男子に扮した三代目座長・鹿島順一、当初から「自分は男である」ことを仄めかす表情、所作を取り入れていた。置屋に尋ねてきた腰元(春日舞子)と対面する「一瞬」、敵役大名と連れだって退場する際の「舌だし」等など、その風情が「格別」に決まっていた、と私は思う。その二は、腰元・春日舞子と伊丹屋新吉・甲斐文太の「絡み」。腰元、新吉をしげしげと見つめていわく「そちらの方は、どちら様?」「はい、伊丹屋新吉と申します」。「まあ、イタンダ新吉さん」「いえ、イタンダではございません。イタミヤ!でございます」「そうですか、二代目鹿島順一といえば昔は、それはそれはいい男だったのに・・・」「いえ、今でもイタンデはおりません」といったやりとりが、ことの他、私には「楽しく」感じられた。その三は、敵役大名が「女装男子」と退場後、部下・春大吉と赤胴誠が引っ込む間面、誠いわく「ねえ、お手々とって!」、待ってました!、拍手喝采のうちに退場となる舞台模様は貴重である。その四は「弁天小僧菊之助」の俗曲にのせて展開する「舞踊風立ち回り」、その艶やかな景色は「絵巻物」然として、私の心中にいつまでも残るだろう。あらためて「名舞台をありがとう」と感謝しつつ帰路に就いた次第である。